幸田真音 傷 邦銀崩壊(上) 目 次  プロローグ  第一章 銀行崩壊  第二章 その女  第三章 密 約  第四章 策 謀 主な登場人物 有吉|州波《すなみ》 [#2字下げ]モーリス・トンプソン証券会社、取締役 国際営業部門の女性トップ・セールス 芹沢裕弥 [#2字下げ]ファースト・アメリカ銀行東京支店、短期金融市場担当ディーラー 明石哲彦   康和銀行ニューヨーク支店、ディーリング室課長 明石慶子   明石哲彦の妻 児玉 実   ファースト・アメリカ銀行東京支店、債券トレーダー ケネス佐々木   ニューヨーク市警察、捜査官 ジョン・ブライトン   国際的エコノミスト アブドラマ・ハニーフ   国際金融市場で活躍する屈指の投資家、ハニーフ家の長男 チャールズ・リー   香港華僑の大富豪、李家の長男 スティーヴン・ロビンソン三世   米国上院議員 宮島秀司   大蔵省、銀行局審議官 相馬憲暁   大蔵省、証券局審議官 井村俊和   大蔵省、銀行局業務課長補佐 櫻井偉平   康和銀行、頭取 森 政一   康和銀行、副頭取 高倉光明   康和銀行、ニューヨーク支店長 本多浩信   康和銀行、元ニューヨーク支店長 道田 均   康和銀行ニューヨーク支店、ディーリング室調査役、明石の部下 東山理一郎   メイソン・トラスト銀行、極東部門統括代表 岸本和生   メイソン・トラスト・アジア証券、東京支店長 斉藤良治   野々宮証券株式会社、債券営業部部長 榊原 仁   経済評論家 疋田雅之   モーリス・トンプソン証券会社、東京支店長 [#改ページ]  プロローグ  この感覚を何と呼べばいいのだろう。  身体の奥深く、ほんのかすかに下腹部が引き|攣《つ》れるような違和感。痛みと呼ぶにはほど遠い、よほど意識を集中しなければわからないようなわずかな|軋《きし》み。 「雨になる」  有吉|州波《すなみ》はそう思った。  三十六階の窓から見下ろすハドソン川は、すでに薄|靄《もや》に包まれている。かろうじてそれとわかる自由の女神像が、小さくかすんで見える。  あの像が、はるか母国に向いて立つというのなら、この十五年間、州波は無理にも東京の方角に背を向けて生きてきたのかもしれない。  一九九三年十月一日、金曜日。  今日という日は、おそらく自分にとって生涯忘れられない日になるはずだ。  そんな思いを噛みしめるように、州波は窓の外に目をやったまま、手に持った紙コップの薄いコーヒーを、ゆっくりと喉に流し込んだ。  背後を通りすぎる同僚に声をかけられ、州波は振り向いて礼を言った。昼前に発表があってから、もうこれで何人に祝いの言葉をかけられたことだろう。同僚達の賞賛のなかに、彼らの正直な驚きと、隠しきれない羨望や嫉妬の匂いを嗅ぎ分けながら、州波は平然と笑顔を浮かべるのだ。  午後からの半日の間、そんな行為を何度となく繰り返しながら、州波は自分のなかで、昨日までとは何かが違うのを感じた。  確かに何かが違っていた。だがそれが何なのかはわからない。ただ、自分の内側で、精巧に組み立てられていたはずのどこかがはずれ、その結果、はじき出されてしまった何かが、身体のなかで転がっている。それはまるで、知らない間にすっかり|錆《さ》び付いて、接続部からはずれ落ちたビスのように、転がりながら空虚な音をたてている。その音だけが、はっきりと州波の耳に聞こえるような気がした。 「どうかしてるわ」  州波は軽く首を振り、思い直したように紙コップに残ったコーヒーを飲み干してから、腕時計に目をやった。  午後四時十二分。ニューヨーク国際金融市場がまもなく終わろうとしている。  窓のそばを離れ、自分のデスクに戻ろうとして、州波はこれからまたしばらくのあいだ、自分が飲み込まれようとしている空間を見渡した。  ウォール街のはずれに建つモーリス・トンプソン証券本社ビル。その三十六階のほとんどを占め、総勢七百人の人間を有するディーリング・ルームは、世界のトップを争う巨大組織の心臓部である。  円形スタジアムに似た広大なすり鉢状のフロアは、中央部にトレーダーのデスクが二列ずつ向きあって、横四列にずらりと並んでいる。トレーダー達は、向かって左から為替、債券、各種の|金融派生商品《デリバテイブ》、それから少し間隔をおいて株式の四部門に大別される。為替市場の担当者だけでも、各通貨別の熟練トレーダーを中心に、若手のジュニア・トレーダーやアシスタントを含めて全部で三十人。債券市場担当者はさらに多く、国債、地方債、政府保証債、社債、短期証券、|資産 担保 証券《アセツト・バツク・セキユリテイ》などといった債券の種類ごと、または各種通貨ごと、あるいは満期の期間などによって細分され、合計で四十人近い。|金融派生商品《デリバテイブ》のトレーダーは、それぞれ各部門の先物やオプション、スワップなど選り抜きの専門家が三十人あまり、そして株式担当者と続く。  そのトレーダー部門をぐるりと取り囲むように、証券営業部門のデスクが、楕円形のすり鉢の斜面に沿って四方に広がっている。それぞれの顧客である投資家とトレーダーを繋ぐパイプ役の営業部門は、担当する相手客の国籍別に、フロアの向こう半分が|米国内営業部門《ドメステイツク・セールス》、手前半分が|国際 営業 部門《インターナシヨナル・セールス》と大きく二分される。人数にすると各トレーダー群の三、四倍程度、部門によってはそれ以上になる。  州波は、ぽつんと空いた自分のデスクに、誇らしげに目を向けた。なだらかなすり鉢の斜面の中腹あたり、|国際 営業 部門《インターナシヨナル・セールス》の最前列、ちょうど米国債のトレーダー達と向かいあう場所に位置している。あの席を埋める存在は、この自分をおいてほかにはいない。  このおびただしい人間達のなかで、|取  締  役《マネージング・デイレクター》という役職を持つ者は、わずか五パーセントにも満たないのである。ディーリング・ルーム以外の、事務部門などを含む、ビル全体の社員を加えれば、割合はさらに限りなく低くなる。  入社以来十五年、そのうち十年あまりを営業部門で|揉《も》まれてきた州波ならずとも、取締役になることは夢でありゴールである。それを三十七歳という若さにして、しかも日本人女性として初めて、かなえることができた。今日という日は、その記念すべき勝利の日なのだ。  そう思った途端、また身体のなかに転がるあの異物の音を聞いた。州波は自分を奮い起たせるように顔をあげ、デスク脇の細い通路を、足早に歩き始めた。  席に着き、椅子に座る直前に一瞬トレーダー席に目を向ける。何年もの間にすっかり身に染み付いてしまった習慣である。セールスは常にトレーダーの動きに注意を払って客と話をし、トレーダーもまたセールスの動きを考慮して行動をとる。  トレーダー達の動きは、すでにどれも緩慢だった。手持ちの|建玉《ポジシヨン》の手仕舞いも終え、ブローカーの担当者と、今日一日に交わした取引の最終確認を始めているころだ。  若いジュニア・トレーダーが、ときどきキーボードを打つ手を止め、疲れた目頭を指で押さえているのが見える。おそらく電子メールを使って、新聞社から頼まれた来週の市場予測に関するコメントを送信しているのだろう。  世界中のありとあらゆる金と欲望がストレートに集まってくる場所。そのニューヨーク国際金融市場が、一週間の死闘を終え、つかのまの眠りにつこうとしている。  州波はもう一度腕時計に目をやった。  四時十六分。きれいにマニキュアされた州波の指が、思いあまったようにデスクの受話器に伸びた。そのとき、一列後方のジュニア・セールスの席から声がかかる。 「ミスター・ハニーフからお電話です」  振り向いた州波の黒い眼が、一瞬大きく見開かれた。左手に受話器を持ったまま、その指は迷うことなく直通電話のボタンを押す。  デスクの上には、数十個の電話回線のボタンが並んでいる。その中央の二十個が、州波の担当する顧客とのホット・ラインにセットされていた。  中でも最上段の五本の回線は、州波が最近特にマークしている投資家に直結している。アブドラマ・ハニーフというのは、その中の一人。父親は、アメリカの経済誌「フォーブス」が発表する「世界の|十億ドル長《ビリオネア》者」二百人に、毎年のように顔を出している並外れた資産家だ。その父親の持つ投資会社の役員として、表面的には米国系の投資信託会社という形で、州波の客になっているが、その運用資金の原資は、ほとんど彼や彼の父親の関係で集めた個人投資家からの流動資産で構成されている。  受話器を耳にあてながら、州波はデスクのモニター画面に目を走らせる。米国債三十年物指標銘柄の直近価格は、102の1/32と表示されている。米国債券市場の値動きを表示するブローカーの画面は、二時間前からほとんど変化がない。それを確認してから、州波はおもむろに口を開いた。 「ハロー、アビー。今日はいかがでした? あんまり静かな|市場《マーケツト》だったから、退屈で居眠りしていたのでしょう?」  州波の声は穏やかで、その眼の鋭さとはまるで正反対に優しい。これまで時計を気にしながら彼の連絡を待ち続けていたことも、我慢できずにいましがた電話をかけようとしていたことも、言葉には微塵も出しはしない。  しかし、その射抜くように光を強めた州波の眼が、すでに寸分の狂いもなく相手に照準を合わせたことを物語っていた。狙った獲物は決して逃さない。  言葉を交わしたのは、ほとんど一分にも満たなかった。動きの少なかった午後からの市場の動向を、ごく簡単に説明した程度である。電話の向こうから聞こえる声に、州波は軽く首を振った。 「いいえ、もちろん私は|強気《ブリツシユ》です。市場は来週もじりじりと堅調でしょう。ただし、セオリー通りなら、ここで買うのは|短《ビ》期証|券《ル》です。ましてや、あなたの資金が余剰の短期資金なら、ここで無謀なリスクをとることは、本来ならば避けるべきですわ」  州波はそう告げながら、相手の声のかすかな変化に手応えを感じた。アブドラマ・ハニーフのあまのじゃくな性格は、いまに始まったことではない。州波はすぐに会心の笑みを浮かべた。 「わかりました、あなたがそうお考えであれば、買ってみましょう。ただし、狙うのはまず3/4ポイント。いま売り値の気配が102の3/32か、4/32のあたりですから、103の手前まで待って、もし103を抜けて上がっていかなかったら即座に売りです」  そして、州波はおもむろにこう告げた。 「やるなら今です」  そう言ってから、電話の向こうの声に州波はうなずいた。受話器を持つ手の中指で、受話器の内側にある切り替えスイッチを押す。ディーリング・ルームの受話器にはすべて取り付けられている保留ボタンである。これを押せば、回線が繋がったままで、相手の声は聞こえるがこちらの声は相手には聞こえない。  間髪をいれず、モニター横にあるインターコムのボタンを押し、州波は大きな声を送話口にぶつけた。その間二秒とかかっていない。 「ルーク! 指標銘柄の|米国三十年債《ロング・ボンド》の|売り値《オフアー》はいくら? 一〇〇〇本プライスよ。早くして」  言葉にならないどよめきが起きる。相場の世界での一本は百万ドル。世界で一番流動性の高い三十年物米国債の指標銘柄とはいえ、一回の取引で五億ドル以上の金額を売買することなど、そうめったにあることではない。州波を取り巻くセールス・デスクの視線が、いっせいに州波の口許に集中した。息苦しいほどの緊迫感は、はるか前方のトレーダー席に飛び火する。州波の声はインターコムを通して、おそらくトレーダー席の全員に聞こえたはずだ。眠っていた市場が、いままさに目覚めようとしていた。  インターコムから、返ってきたのは、ルーク・サイモンの当惑した声だった。 「一〇〇〇本プライスだって? 正気なのか? 俺の|売り値《オフアー》は102の11/32だ。誰なんだ、いまごろ十億ドルも買いたがっているなんていうヤツは──」  ルーク・サイモンが全部を言い終わらないうちに、州波はその声を遮った。 「冗談じゃないわよ、そんな高い売り値なんか言えっこないじゃない。ねぼけてないで真面目にやってよ、ルーク」 「いや、ここまで大きな金額なら、これが俺のいまのベストだ」  直近の市場価格より、かなり上乗せした売り値を出せば、客はあきらめて何もせずに引き下がるだろうというのだ。万が一取引が成立しても、すぐさまブローカーから時価で買い戻せば、一瞬にしてサヤ抜きが可能になる。ルーク・サイモンの思惑は見え透いていた。 「臆病者!」  吐き捨てるようにそう言って、州波はすぐに受話器の保留ボタンを|解除《オフ》にした。そっちがそのつもりなら、遠慮はしない。本来ならば、トレーダーに損をさせないようにするのもセールスの腕だ。ルークへの配慮で、客には市場よりやや高めの気配値を伝えてやったというのに、ここまで自分の客をないがしろにされるのは、我慢ならなかった。  州波は電話の相手にルークの売り値を告げた。ルークに対するのとは対照的な柔らかい声で、しかし明瞭に、あくまで毅然とした言葉遣いである。  即座に州波は客の了解を得た。 「オーケイ、|取《ダ》引成|立《ン》! ルークの売り、ミスター・ハニーフの買い。102の11/32で十億ドルの|指標銘柄《カレント》の|長期国債《ロング・ボンド》よ。いいわね」  州波は再びルークに向かって叫ぶ。たったいま客との十億ドルの取引が成立したことを確認するためである。インターコムの向こうで、ルークが悪態をついたのが聞こえた。いや、悲鳴をあげたと言うほうが正しかった。  ルーク・サイモンがパニックになっている。まさか客が買うとは思わなかったに違いない。この局面で、ルークが大量の売りなどしたくなかったことは明白だ。というより、売りであれ買いであれ、金曜日のこの時間にこれだけの多額の取引をすることなど、誰だって避けたいのだ。早く手持ちの|建玉《ポジシヨン》を整理し、仕事を忘れて家族と週末をのんびり過ごしたいと思っていることぐらい、州波にもわかりすぎるほどわかっていた。  周囲からルークへ、言葉にならない同情が寄せられる。それはそのまま州波への非難にすりかえられるのだろう。  知ったことではない。州波はそう思った。家庭も子供も、自分には無縁なものである。頬のあたりに冷ややかな笑顔を浮かべて、州波は電話の相手に声をかけた。 「ありがとうございます、アビー。いい買いでしたわ。あなたのような上客に対してさえ、うちのチーフ・トレーダーが市場より八ティックも高い売り値を出したということは、何よりそれだけ市場を強気に見ている証拠です。でもいまの時間で、ワン・ショット一〇〇〇本のプライスはほかでは決して出ませんわ。大丈夫、少々高くてもここは買いです。今日はこのまま高値で引けるでしょう。来週いい売り場がきたら、まっ先にご連絡しますから」  いつもなら、あとはアシスタントに電話を代わるところである。だが、この客は、州波がすべての手続きの確認を、自分で行なう五人のなかの一人なのだ。 「当然ほかのものも買いますよね、アビー。今回は全体でどの程度動くおつもりですか? 次のターゲットは、そうですね、来週はもっと確実に値上がりを狙って、いくつか|裁定取引《アービトラージユ》をしてみては──」  さりげない口調で、巧みに相手の意向を訊きだしたあと、州波は頬に笑顔の余韻を残したまま電話を切った。そのあと、すぐに真顔に戻った州波は、またインターコムのスイッチを押す。 「ルーク! いまのはいったい何よ。あんな|売り値《オフアー》なら、見習いのジュニア・トレーダーだって出せるわよ。客にはうまく言って買わせたけれど、まったく何を考えているの?」  州波の声は、インターコムを通さないでも、十メートルほども先のトレーダーの席まで届きそうだった。 「ルークはいまほかの電話で話し中です」  別の若い男が遠慮がちな声で伝えてきた。それに重なるように、背後でルーク・サイモンが電話で誰かを怒鳴り付けている声が聞こえる。ブローカーからの買い戻しにやっきになっているのだ。州波は席を立ち、その騒ぎの方向に向かってまっすぐに歩いて行った。 「ルーク、まさか|空売り《シヨート》だったわけではないでしょうね。今朝のミーティングで私は言っておいたはずだわ。ハニーフ・ファミリーは買いたがっているんだって。彼らは他と違ってリスクをとるのが好きなのよ。おまけに|欲張り《グリーデイ》だわ。だから安全策など見向きもせず、値動きの激しい長期債に食指を動かすだろうと言っておいたのよ。なのに手当てをしておかなかったってわけ?」  米国長期債のチーフ・トレーダーであるルーク・サイモンは、百二十キロの巨体を大層に揺すり、唇を噛んだまま額の汗をシャツの袖でぬぐった。州波はちらっとルークのデスクのモニターに目をやった。すでに直近の出合いは102の27/32をつけている。突然値上がりを始めた米国債市場の様子は、激しく点滅する数字の列を見るだけで容易に想像がついた。  つい数分前までの静けさが嘘のようだ。 「あ、103ちょうどが買われました!」  隣りからジュニア・トレーダーが声をあげた。 「ちょっと待ってくれ、スナミ。いまは全部買い戻すほうが先だ」  ルークの薄くなった額の生え際にまた汗が噴き出している。さっき州波の客に売った十億ドルのうち、四億ドルはまだ買い戻せていない。そのことがルークを崖っ淵に追い詰めていた。 「何だって、売りが出てこない? |くそっ《シツト》! 今日が金曜日だってことぐらい、おまえに言われなくてもわかっている。ぼやぼやするな、いくらでもいいから売りを探してこい」  ルークは、ブローカーの直通電話に怒りをぶちまけた。市場の引けまで、もうほとんど時間がない。このまま何もできずに終わってしまうのが目に見えていた。 「買い戻すなら急いだほうがいいわよ。彼らはもっと買うつもりだから。来週はさらに|高騰《ラリー》するわ」  州波の言葉がルークの焦りに追い打ちをかける。ルークがそれを知らないわけはない。このままにしておけば、売り手のいなくなった市場では、気配値だけがつりあがって、買い戻しができなくなる。そうなれば、四億ドルの空売りを抱えて、ルークの損はどれぐらいまでふくらむかわからないのだ。まさにショート・スクウィーズの現象である。ルークの汗が、こめかみを伝って、たっぷりとしたピンクのシャツに滴った。 「ハニーフ・ジュニアは、昨夜東京市場で日本株を大量に売っていたのよ。それを私は今朝のミーティングでも報告したわ。そのとき現金化された分の資金で、何かドル建ての資産を買うだろうと推測するのは当然じゃない。彼らのいまの考えは|円建て資産の売《セル・ジヤパン》り、|ドル資産買い《バイ・アメリカ》なの。最初から私がそう言っていたのに、聞いていないあなたが悪いのよ」  客がそっと漏らした情報の意味を、ルークも理解していなかったはずはない。 「俺はそれほど強気じゃなかった。第一こんなところで買うのはばかげているよ。これといって何も材料がないじゃないか。むしろ、高値がきたら空売りしたいぐらいだったさ」  今日は早く仕事を終えて、息子とキャンプに出かけるつもりだったのだとは、口が裂けても言えるわけがないだろう。苦しい弁解だと州波は思う。 「だったら、さっきはもっといい売り値が出せたはずじゃない。それに、ちょうどいい空売りができたんだから、このまま買い戻さなくても心配ないってわけね」 「いや、そういうわけじゃ──」  言い終わらないうちにブローカーから電話が入り、ルークはあわてて受話器をつかんでモニターに見入った。 「まったく信じられないわ。私達セールスの言葉から、客の動向をつかんで、その情報を利用してうまくディーリングを展開するのが、トレーダーの仕事でしょう。それなのに、自分の怠慢のために、客にあんな悪い値しか出さないなんて、私の信用はまるつぶれだわ」  ルークがどんな言い逃れをしてみても、州波には通用しない。そのことがなおさらルークの苛立ちを倍加していた。 「ちょっと、黙っててくれ!」  いつにないルークの声に、周囲のトレーダー達の視線が集まった。 「自業自得ね」  州波は止めを刺すように言い残して、自分の席に戻って行った。  くそっ、あの女、いつか殺してやる。  ルークは喉の奥からはい上がってくる言葉を、やっとの思いで飲み込んだ。 「おい、まだ売りは出ないのか?」  州波に向かっては口に出せなかった思いを、ルークはまたブローカーの電話に向けるしかなかった。これでまた今日も帰りが遅くなる。しかも、大きな含み損を抱えたままで、|暗澹《あんたん》とした気持ちで週末を過ごさなければならないのだ。  目の前のモニター画面からは、まったく売りが消えていた。すでに103の15/32を超えても売り値は見つからない。口をあけてエサを待つ鯉のように、買い注文がびっしりと並んでいる。州波の客に売った直後に高騰した市場は、売り手が出ないので取引にもならず、そのまま高値で止まってしまった。  壁に並んだ数個の時計が、世界の主要都市の現在時刻を告げている。ニューヨーク・タイム、午後四時四十二分。まもなく市場は一日の取引を終える。おそらく来週もこのまま強気の展開になるのは間違いない。売りの出てこない市場では、買い戻しのコストがどこまで高くつくことになるかが読めなかった。損失額はおそらくこれまでの最悪記録を塗り替えるだろう。ルークは絶望的な目で、動かない画面の数値を睨みつけた。  意を決して、インターコムのボタンを押す。すべての営業担当のデスクに繋がる番号である。 「セールスの担当者は、すみやかに米国長期債指標銘柄の売り手を見つけてくれ」  米国内や海外の投資家を問わず、とにかくすぐに売り手を見つけなければならない。ルークの声は嘆願に近かった。  頼む。なんとか見つかってくれ。  すがるような思いで待つルークのもとに、しばらくして|国際 営業 部門《インターナシヨナル・セールス》の席から申し訳なさそうな声が返ってきた。 「ルーク、残念だが、ヨーロッパやアジアの投資家達は米国債には強気だよ。この地合ではみんなむしろ買いたがっていて、売り手はまったく見つからなかった。申し訳ない」 「悪いわね、ルーク。私達からも同じ返事をしなきゃならないみたい──」  |米国内営業部門《ドメステイツク・セールス》のパティの声だ。これで、最後の望みが完全に絶えた。なんということだ。セールスのやつら、まるで役に立ちやしない。こういうときのために、客を担当しているのだろうが。ルークは舌打ちした。 「あ、ルーク、ちょっと待って──」  パティが言葉を継いだ。その声をさらに横から遮る者がいる。 「ヘイ、ルーク!」  突然、割り込んできたのは、あの州波だった。 「まだ何か言い足りないのか」  ルークはインターコムのスイッチをオフにしたままつぶやいた。このうえ、あざ笑いたければ笑うがいい。ルークは投げやりな思いでスイッチを入れた。 「|何か用か《ワツツ・アツプ》?」 「あなたの|空売り《シヨート》は四〇〇本だったわね?」 「ああ、スナミの客のせいで、むりやりさせられた空売りはその金額だ」  ルークは精一杯の皮肉をこめて答えた。 「わかったわ」  州波の声はそれだけだった。いったい何をしようとしているのか、ルークにはわからない。ただ、これ以上神経を逆撫でされるのは耐えられなかった。 「ヘイ、マイケル!」  また州波の声が響いた。今度はルークの三人向こうの席に座っている、十年物米国債のトレーダーを呼んでいる。 「私の客が、三十年債と十年債の裁定取引の解消をしたがっているみたいなの。客側から見て十年債の買い、三十年債の売りよ。あなたは|買い《ロ》|持ち《ング》にしているってさっき言ってたわよね。あなたの売り値も聞きたいけれど、ルークのほうにも買い値を聞いてみてくれる?」 「オーケイ、金額はいくらだい?」  マイケルが訊いた。 「いま計算しているわ。でも三十年債は四〇〇本になるはずだけど。ルークはまだ買う気があるかと訊いてみてよ」  州波の声はルークにも届いた。ルークはインターコムにかじりつくように身を乗り出した。 「もちろんだ。いまなら、たとえ悪魔からでも買い戻したい気分だよ」  ルークがそう言うのを、マイケルは向こうから手でたしなめた。客との直接取引で、しかも裁定取引の解消なら、価格は少しぐらいなら調整がつく。これで買い戻せる。助かった。ルークは心底そう思った。 「オーケイ、マイケル。あなたの出した値段で、ルークのものと両方|取《ダ》引成|立《ン》よ」  まもなく州波の声がした。 「ありがとう、スナミ。いい|取引《デイール》だった」  マイケルがインターコムに向かって嬉しそうに答えた。彼自身はこの取引でかなり利益をあげることになったのだ。 「よかったですね、ルーク。やっぱり、さすがにスナミです。こんな強い市場で、しかも引け間際のこんな時間帯なのに、よくもこれだけ大きな三十年債の売り手を見つけてきたものです。売り切りの客を探すのは到底不可能だから、アプローチの方法を変えて、十年債と組み合わせた裁定取引の客を見つけてくるあたりが、並みのセールスじゃないですよね。しかも裁定取引の新規の設定じゃなくて、実行が確実な解消の客ときてるんだから凄いとしか言いようがない」  興奮気味に話すマイケルに、ルークは記録用のメモを書くふりをして返事をしなかった。そんなことぐらい若いおまえに言われなくてもわかっている。さっきの|取引《デイール》は、スナミがよほど客の懐に深く食い込んで、彼らから信頼を得ていなければできることではない。  まもなく、確認のためにトレーダー席にやって来た州波を見つけて、ルークは自分から声をかけた。 「助かったよ」  思わず出た言葉だった。だが、感謝の言葉にはなっていない。礼を言い直すために口を開こうとしたが、唇の端が不自然に引き|攣《つ》れるのを感じた。ルークの喉の奥には、まだざらついたこだわりが残っていた。パニックに陥ったのは州波のせいだ。さんざん苦汁を味わわされ、そして、その同じ州波に救われた。  完璧な負けだった。この女にまるで翻弄されている。しかもその間に、この女はこうやって着実に客の信頼を獲得し、周囲の賞賛を浴び、自分の営業成績をあげているのだ。  ルークは自分が無力な小動物のように思えた。自分より十歳近くも年下のこの女に、追い詰められ、もてあそばれ、息の根を止める一歩手前で、ひょいと救い上げられる。ルークにはそれが我慢ならなかった。  おそらくこの女は、扱う客達のことも、身内の同僚に対するのと同じ手で、完璧なまでに掌握しているのに違いない。そしてそのことを指摘されでもしたら、州波はこちらの心中を見透かすような眼をして、たぶん平然とこう言ってのけるに違いない。 「それが、私の仕事ですもの」  一日の取引の確認作業をすべて終え、州波はディーリング・ルームを出て、下りのエレベータに乗った。  金曜日の夜だけは、客との約束を極力入れないことにしている。ましてや、今日は昇進の知らせを受けた日なのだ。週末の夜を、気遣いばかり強いられる客との夕食も、仕事関係のパーティも避け、仕事のことなどつかのま忘れて、のんびりと自分の部屋で過ごしたかった。たとえそれが、誰一人待つ者のいない、空っぽの空間だったとしてもである。  しかし、今夜だけは例外だった。  直通のエレベータが一階に着くころ、モーリス・トンプソン・ビルの正面玄関にはリムジンが待っているはずだった。州波を迎えるために、チャールズ・リーが差し向けたものである。チャールズ・リーには借りができてしまった。だから今夜は、どうしても断わりきれなかった。 「さっきはどうしたんですか。スナミがあんなことを言ってくるなんて、めずらしいことではないですか」  州波がまだデスクで帰宅の用意をしていたとき、彼から今日三度目の電話があった。チャールズ・リーの話す英語は、癖のある英国なまりで、何年たっても礼儀正しい言葉遣いを崩さない。  |華僑《かきよう》の頂点とも言うべき香港の李家は、米ドルに換算して一兆二千億ドルとも言われる巨万の富を誇る、文字通り世界の金融市場に君臨する資産家だ。チャールズ・リーはその李家の長男である。 「あなたから、|お《プ》|願い《リ》|し《ー》|ます《ズ》、などという言葉を聞くとは、思いもしませんでしたよ。よほど特別の事態だったとみえますね」  最初から含みをもった言い方だった。 「もっとも、あの米国債の裁定取引は、もともとあなたのアイディアで始めたものでしたからね。すでにかなり利がのっていたわけですから、この辺で半分ぐらい軽くして利食いをしてもいい頃かと思っていたところでした」 「ありがとうございました、ミスター・リー」  州波はもう一度丁寧に礼を言った。それなら、もっと簡単に応じてくれてもよかったのにと、喉元まで出かかった言葉を告げるわけにはいかない。 「だけど、今日やらなくても、来週ならもっと利益が出たところです」  チャールズ・リーは、またそのことを持ち出すつもりらしい。 「みんなあなたのためだ。スナミがあんなに頼んでくるなんて、よほどのことだと思ったから、聞くしかないと思ったんですよ。あなたにはこれまでずいぶん儲けさせてもらいましたからね。実は、引け間際になって、他のところからも三十年債を売ってくれないかという話はずいぶん来ました。だけど私はみんな断わったのですよ」 「そうでしたか」  彼の言いたいことはとうにわかっていた。 「人助けをするつもりなら、投資など最初からやらないほうがいい」 「その通りですわ」 「今日の相場では、どこかのトレーダーがパニックを起こしたようですね?」  巧妙に探りを入れている。だが、その手にはのらないと州波は思った。自分が担当する他の客の行動についても、そのせいで身内のトレーダーが窮地に追い込まれたことも、決して口外しないのがセールスとしての鉄則である。 「おそらく、誰かの|空売りの買い戻し《シヨート・カバー》でしょう。こんな局面で空売りをするなんて、愚かな人間ですわ」  州波はそう言いながら、ルークの額の汗を思い浮かべた。 「まったく同感です。私は今日だけでまた六百万ドルを稼ぎましたよ」  チャールズ・リーはあくまで尊大な姿勢を崩さない。 「偉大な思索家エマーソンは、かつて、人を木に、富を|蔦《つた》になぞらえたと言います。蔦が木より高く伸びることはない、とね」  チャールズ・リーの好きそうな|褒《ほ》め言葉を、とっさに選んで口にした。言いながら州波は、もううんざりだと思う。親から受け継いだものの上にあぐらをかいて、あたかも自分の力を誇示するように高笑いをする男には|辟易《へきえき》する。  だが、さっきはこの男しかいなかった。この男だからこそ、あの局面で三十年債の四〇〇本を売らせることができたのだ。  ルークのために? とんでもない。仕事のためだ。州波はあわててそう思い直した。こうやって、着実にはいあがってきた先に、今日の昇進があったのだ。取締役昇進は、この自分にこそふさわしい。  そう思ったとき、州波の身体のなかで、また虚脱感に満ちた音をたてて、何かが転がった。  なんとしても、来週はチャールズ・リーに新しい投資案を紹介して、今日の借りを返さなければならない。  エレベータが一階に着いた。  数メートル先にリムジンが見える。正面玄関を避けて車を待たせるだけの気遣いぐらいは、チャールズ・リーにもできるらしい。州波はまっすぐ玄関を出た。  回転ドアのすぐ前に、ビル風が作る|埃《ほこり》の輪が見えた。竜巻と呼ぶには小さすぎる風の柱に、どこから飛んできたのか季節はずれの羽虫が一匹もがいている。州波は思わず足を止めた。プラタナスの大きな枯れ葉に押さえつけられ、いったんは下敷きになったものの、また|這《は》い出して必死に風の力に耐えている。震えるように、か細い足を動かし、その場にしがみついている頼りなげなその小さな羽虫から、州波はなぜか目が離せなかった。 「まったく、今日の私はどうかしてる」  州波は思った。昨日までの自分なら、こんなものに目を止めることもなかった。州波はその場所まで歩いて行って、気丈な姿で風に抵抗している羽虫を、|踵《かかと》で踏みつけた。すぐに顔をあげた州波は、また気をとりなおしてリムジンまで歩き出す。その姿に気づいた運転手が、車から降りて後部座席のドアを開けるのが見えた。  ゆっくりと車に近づき、運転手に会釈を返して、車に乗りこもうとした州波は、その場に立ちすくんだ。  通りの向こうに、三人の男達が歩いて来るのが目に入ったからだ。  申し合わせたようなベージュのコートに、三人揃って黒い革のブリーフ・ケースを持っている。日本人らしき三人連れは、談笑しながらこちらに向かって歩いていた。 「明石さん──」  州波の口から思わず男の名前がもれた。  明石哲彦。たとえどんなに遠くからでも、あの顔を見間違うはずはない。 「いつニューヨークに戻って来たの──」  男の姿だけを残して、すべての風景が州波の視界から消えた。 [#改ページ]  第一章 銀行崩壊     1  誰かに背中を押されたような気がした。  それとも、自分で一歩を踏み出したのだろうか。気がつくと、|芹沢裕弥《せりざわゆうや》の身体は高層ビルの窓から外へ飛び出していた。シャーベットのように凍った雨が降っている。だが、不思議と寒さを感じなかった。  さっきまで、たしかすぐ目の前に深夜のビル街が見えていた気がする。じっと見つめると、意識が遠のいていきそうなほど、はるか下の道路に、車のテール・ランプが間断なく流れている。  ここは東京か、それともどこか別の街なのか。見慣れた都会には違いなかった。  芹沢は急いで記憶をたぐり寄せようとする。だが、きれぎれの場面が浮かぶだけで、切断されたままの思考回路は、繋ぎ目を見つけることすらできそうもない。  高層ビルの谷間を墜ちている。  いや、まるで加速度をつけて飛んでいるみたいだ。手を伸ばしてつかむものも、身体を支えるものも何もない空中を、落下していく。そのことだけがはっきりとしていた。  黒々と、巨大な影に似た建物が見える。いくつもの光の斑点がある。それは手が届きそうなほど近くに見えたかと思うと、次の瞬間、彼方に遠ざかった。  耳のなかを、ものすごい勢いで空気が流れていた。どうやら身体は、ちょうど右耳を下にして墜ちているらしい。顔の右半分が冷たくて痛い。やがて耳殻は、空気の摩擦に抵抗しきれなくなって、ちぎれてしまうのかもしれない。  圧倒的な速さだ。  何かに向かって、強力な力で吸い込まれていく。毛髪といわず、うぶ毛といわず、全身の毛が、根元からまるで磁石に吸いつけられる砂鉄のように逆立っている。この皮膚さえ、すぐにも引き|剥《む》かれ、裏返しにはぎとられて風圧に飛ばされてしまうのだろう。 「裕弥──」  そのとき、背後から自分を呼ぶ声がした。はっきりとした男の声だ。こんなときに誰の声が届くというのだ。 「裕弥、助けてくれ!」  もう一度、叫ぶように男が呼んでいる。懐かしい声だった。誰なのか、思い出せない。  だが、その声にはたしかに聞き覚えがあった。 「冗談じゃない。助けてほしいのはこっちだ」  もがくようにして声のほうに顔を|捩《ね》じ向けたとき、突然身体ががくんと揺れて、宙に浮かんだ。  落ちるのが止まった。と、そう思った。 「──夢か」  芹沢裕弥は、反射的にベッドから上体を起こした。背中にパジャマがべったりとはりついている。動悸がこめかみまで響く。右耳にはまだかすかな痛みの痕跡があった。  嫌な夢だった。芹沢は大きく息を吐いた。その耳の奥に、さっきの声がはっきりとした実感とともに残っている。誰の声だったのだろうか。なんとかして思い出そうとするのだが、記憶は急速に薄れていくようだった。  芹沢は部屋を見回した。ベッドのわきのテーブルには、部屋に備えつけの、ホテル名の入ったメモ用紙とボールペン。そしてパスポートと一緒に、無造作に二つ折りにしたドル紙幣と小銭が転がっている。  バス・ルームに続く白いドアは半分開いたままだ。反対側に顔を向けると、カーテンを閉め忘れた窓の外に、すぐ隣りのビルの薄汚れた壁が見えていた。その壁にそって白い水蒸気が立ちのぼっていく。十一月も終わりの、寒さに震える晩秋の街が吐き出す、まるであえぎの息みたいだ。  芹沢はベッドを抜け出し、窓際に立った。とたんにぞくっと冷気が身体を包む。  目の前のビルの壁に視線を這わせ、白い蒸気をたどって屋上を見上げると、狭い空が見えた。ビルのすき間に小さく切り取られた空は、すでにかすかに白んでいる。 「週末は東京か──」  芹沢は頭の後ろで両手を組み、不自然に首を捩じ曲げた格好で、鈍い空の色を見上げたまま呟いた。  考えてみれば、この部屋の窓からは隣りのビルの壁しか見えないことに、いま初めて気がついた。  この一週間というもの、部屋に帰ってきたのは連日深夜に近かったのだから当然かもしれない。それほど今回の出張は強行軍だった。そして芹沢にとっては思いがけないことの連続だったといえる。  その最初は、ニューヨーク滞在がちょうど半分過ぎたころに起きた。つまり一九九七年十一月十七日の月曜日に、地下鉄の駅で買ったウォール・ストリート・ジャーナル紙で、まさかと思った北海道拓殖銀行の経営破綻のニュースを知ったことだ。これが一年前だったら、芹沢はたぶんその足で、東京までとんぼ帰りをするはめになっただろう。  芹沢が働いているファースト・アメリカ銀行は、取引先に対する与信枠の審査にはことさら厳しい。そのため、早々と拓銀向けの銀行取引を打ち切っていたので、助かったのだ。とはいえ、ほんの十カ月前までは、芹沢自身が担当した銀行間貸出しの残高が、まだ最後の一件だけ満期を迎えていなかった。あの取引がいまも残っていたらと、それを思うと胆が冷える。  カリフォルニアを地盤とする、日本でいえば地銀とも言うべき商業銀行であるとはいえ、ファースト・アメリカ銀行の経営判断の適切さをあらためて知った思いがする。  今回の出張の目的は、ニューヨーク支店で開かれた会議に出席することだった。それは会議というより、各国の支店から関係部署の担当者を集めて開いた研修といったほうが正確だ。わずか十日間だけの滞在だが、芹沢はファースト・アメリカ銀行が進もうとしている新しい方向を、肌で実感した。  いや、そうなるように徹底的にたたきこまれたというべきだろう。シカゴの大手スーパー・マーケット・チェーンと提携して、本拠地のカリフォルニアだけでなく、シカゴにも短期間に五十店舗ものインストア・ブランチと呼ばれる小規模支店を開店させた話も、研修として、実際の担当重役から直接聞かされると、ひときわ迫力がある。  まるで洗脳だ。芹沢は講義を受けながら、何度もそう思った。  セミナーの講師となった担当重役の、あふれんばかりの自信が、威圧感になって迫ってくる。だが、そんなことを感じたのはたぶん自分だけだろうと芹沢は思う。研修のため世界各地の支店から集まった他の同僚達のように、無心に受け入れ、ひたすら登っていくことを夢見ればいいのだ。それができれば、少なくともこれほど疲れを感じることはなかったはずだ。  だが、その出張もあと三日で終わる。やっと東京に帰れるのだ。芹沢は思いきり窓の外に向かって伸びをした。  すでにさっきの夢も、声のことも完全に頭から消えていた。冷気が、急速に眠気を消していく。芹沢は上体を伸ばして捩じり、右へ左へと軽くストレッチをした。こんなことも、東京にいるときなら、決してやらないことだ。  気を取り直して、もう一度大きく身体を捩じって後ろを見たとき、部屋のドアのすぐ下に白いものが見えた。ドアのすきまから差し入れられた封筒らしい。昨夜眠ったあとに届いたメッセージなのだろう。すぐにドアまで歩いて行って、封筒を拾いあげた。  ベッド・サイドのデジタル時計が見えた。五時二十七分を告げている。  封筒を開けると、中身は芹沢あてに届いたファックスだった。用紙の上には、芹沢の名前とルーム・ナンバーが記された小さなメモが付いている。差し出し人の欄には、癖のある手書きの英語で明石哲彦と書かれていた。  明石とは昨日偶然出会ったばかりだ。二十年振りの再会である。明石と会ったことも、今回の一連の、思いがけないことのひとつだった。  あの明石から、いまごろ何を言ってきたのだろうと、そのときは思った。ファックスの受信時刻は今日の午前二時十八分になっている。芹沢は、几帳面に三つ折りされたファックス用紙を、ゆっくりと開いた。  最初は白紙に見えた。だがよく見ると、隅に手書きの文字が、三文字だけ並んでいる。 『 N.U.H.』  たったそれだけで、ほかには何ひとつ書かれていない。  間違いだと思った。だが、明石の文字には見覚えがある。懐かしい字だ。細くて小さくて、神経質な文字である。字だけを見ていると、明石は昔となにも変わっていない。  それなら、書き損ないか。やはり間違って送って来たのか。そうでなければ、何か特別の意味なのか。芹沢には見当もつかなかった。  なんだ明石、なんのつもりだ。  芹沢は何度もファックス用紙をながめ、『 N.U.H.』の文字を目でなぞった。  明石哲彦とは中学も高校も一緒だった。なのに、高校の卒業式以来、二十年あまりもの長い間、一度たりとも会うことはなかった。会うはずはない。芹沢がそれを拒み続けたからだ。だが、そんなことは明石が知るはずもないことだった。  それが昨日の夕方、あんなに偶然に、しかもこんな異国の街で会うなどとは、誰が予測し得ただろう。  芹沢はファックスの文字をもう一度見た。 『 N.U.H.』  明石、いったい、なんの真似だ。芹沢は急いでベッドまで戻る。隣りのベッドに投げ出していたブリーフ・ケースから、黒い革の名刺入れをとり出した。昨日会ったとき、明石は康和銀行ニューヨーク支店と書かれた自分の名刺の裏に、長期滞在用のミッド・タウンのホテルの電話番号を書いてよこしたのだ。家族を日本に帰し、単身赴任になってからの仮住まいだと言っていた。  芹沢は少しためらったあと、サイド・テーブルの受話器に手を伸ばした。  ふと、デジタル時計に目をやった。まだ五時四十二分だ。芹沢は思い直して、そのまま受話器を置いた。こんな時間に、こんなことぐらいでわざわざ明石を起こすこともない。たぶん、何かの間違いで届いただけで、気にするほどのことではないのだ。芹沢は封筒ごと、ファックス用紙をごみ箱に放り投げた。  その日、芹沢は一日をほとんど会議室で過ごした。夕方になってすべてのスケジュールが終了し、会議室を出て、秘書の席を通り過ぎようとしたとき、年輩の白人女性秘書がにこりともせずに芹沢を呼び止めた。 「お昼過ぎに康和バンクのアカシから電話がありました。会議中だとお伝えしましたら、このメッセージをお伝えするようにとのことでした」  秘書はそう言って、小さなメモ用紙を手渡した。  メモには康和銀行の明石という名前と、電話がかかった時刻が十二時八分と記されている。そして、その下にはこう書かれていた。 『 N.U.H.』  まただ。芹沢は思った。あのファックスはやはり間違いなどではなかったのか。 「ねえ、メッセージってこれだけ?」 「はい、そうです」 「ほかには何も言ってなかった?」 「いいえ」  秘書は最小限の言葉しか言わない。 「ねえ、この『 N.U.H.』って、どういう意味だと思う?」 「|わかりません《ノー・アイデイア》」  芹沢はすぐに秘書のデスクの電話を借りた。昼過ぎに電話があったのなら、どうしてもっと早く伝えてくれないのだと言いたかったが、この秘書に言っても無駄なだけだ。不快感が顔に出ないように抑えながら、明石に電話をかけてみるしかない。上着のポケットをまさぐり、名刺入れを探しているところで、背後から呼び止められた。  振り向くと、ずっと会議で一緒だった同僚達が揃っている。これから全員で食事に行こうというのだ。もちろん芹沢はすぐに承諾した。明石への電話はホテルの部屋に帰ってからでいいと思い、持っていた受話器をそのまま置いた。急ぐ理由などなにもないと、このときは思えたのである。  あのとき、たとえ数分でも時間を割いて、明石に電話をしていればよかったのだ。ほんの一分でも、いや三十秒でもよかった。そうすれば、あとであれほど後悔することはなかったはずだ。確かにこのときも、ほんの一瞬だけとはいえ、明石からのファックスの文字が、芹沢の脳裏をかすめはしたのだ。だが、それがどれほどの意味を持っていたかを、このときの芹沢には、到底予測などできるわけはなかった。  翌日は、仕事のあと、セミナーで知りあった同僚の自宅にぜひにと招かれ、結局彼のコネチカットの家に一泊することになった。そして翌日、同僚宅から直接出社したセミナー最終日は、一日中息をつく暇もないほどの忙しさで、夜まで予定が入ってしまった。  ニューヨークに本社のある大手証券ブローカーの創立記念パーティで、集まった業界の大物と顔見知りになっておけば、将来必ず役に立つからというのである。広い会場を歩き回り、名前を売り込むのにやっきになっている同僚達を尻目に、芹沢は早々に会場を出ようとした。だが、運悪く、セミナー仲間だけの打ち上げをやろうという同僚につかまり、すでに深夜の十二時を過ぎて、芹沢はやっとホテルの部屋にたどり着いた。  部屋に帰ってみると二件の伝言が残されていたが、一件は秘書が帰りの飛行機の再確認をしてくれたという伝言で、もう一件は東京の上司からだった。明石から電話が入った形跡はない。この前の朝捨てたはずのファックスが、ごみ箱から出て、床にでも落ちていたのだろう。メイドに拾われたらしくサイド・テーブルの上に置いてあった。  芹沢はもう一度それを開いてみた。  やはり、何度見ても『 N.U.H.』とだけしか書いていない。どういう意味なのか、なぜファックスを送ってきたのか、明石に訊かなければならない。だが、電話をかけるにも、芹沢はひどく酔っていた。パーティでは、それほど飲んだつもりはなかったが、疲れがたまっていたせいだろう。ひとまずネクタイを緩め、シャワーも浴びずに、そのままベッドに倒れこんだ。  明石に電話をかけなければいけない。あのファックスや伝言は、なにを伝えたかったからなのか、なんとしても訊かなければいけない。そんな思いを頭のなかで繰り返しながら、芹沢はそのまま眠りに落ちた。  いまにして思えば、あのとき、無理にでも明石に電話をすればよかったのだ。すぐにでもタクシーをとばし、直接ホテルまで会いに行くこともできた。だが、実際には、もうその時点ではすでに遅すぎたのかもしれない……。  ──どれぐらいたったのだろうか、電話が鳴っているような気がして目を開けると、すでに朝になっていた。  昨夜の酒がまだ残っている。電話だと思ったのはベッド・サイドの目覚まし時計の音だった。すでに部屋を出る予定の時刻が迫っている。だいたいの荷造りは済ませておいたけれど、まだ細々とした残りのものをスーツ・ケースに詰めなければならなかった。  あわてて顔だけ洗い、髭を剃る暇もなく、服を着替えながら、同時に大急ぎで帰り仕度をしているうちに、明石のことはすっかり頭の中から消えていた。  急がないと飛行機に乗り遅れる。そのことしか頭にはなかったが、それでも部屋を出る直前になって、もしかしたら明石から電話がかかってくるのではないかと、ふと思った。なぜそう思ったのかはわからない。腕時計を見ると七時十五分を指していた。  これ以上部屋に残っていると、もう飛行機に間にあわなくなる。大きな忘れ物をしたような思いを残して、チェック・アウトを済ませた芹沢は、ホテルをあとにした。  空港に向かうタクシーの窓から、マンハッタンに降り始めたこの冬最初の雪が見えた。     2  ゴールデン・ウィークを翌週にひかえた、一九九八年四月二十四日。すでに休暇気分の始まった金曜日の午後二時十三分のことである。  のんびりとした昼さがりのワイド・ショーの生番組中だった極東テレビの映像に、二行のニュース速報が、テロップで映し出された。  『康和銀行が大手米銀との業務提携交渉に失敗。   経営破綻の可能性急浮上。新たな公的資金導入の対象に』  再度、画面に同じテロップが出されたあと、連休に向けて、観光地の穴場紹介をしながら笑っていた中年女性タレントの顔が、突然硬い表情の男性キャスターと入れ替わった。 「番組の途中ですが、予定を変更して、ここから康和銀行関係の報道特別番組をお送りいたします」  カメラは瞬時に報道局に切り替わり、慌ただしく行き交うスタッフの動きを背景に、設けられた特設デスクの中央に座った男性キャスターを映しだした。熟練キャスターの声には、突然の番組変更に対するわずかな動揺が感じられた。時折手もとのメモに素早く目を走らせながら、それでもニュースを読む歯切れのよい声が続く。 「かねてより、その深刻な経営不振が心配され、大蔵省による積極的な公的資金の導入が検討されていた、大手都市銀行康和銀行の株価が、本日の東京株式市場において急落し、市場開始後まもなく取引停止状態に陥りました。同銀行は、去る三月二日、ニューヨークに本拠を持つアメリカの大手投資銀行であるメイソン・トラスト銀行との資本提携、および業務提携に合意したことを発表し、大手米銀の資本支援を受け、経営再建と同時に業務の拡張が期待できるとの見方から、株価が急騰したばかりでした。ところが、今週初めに、極東新聞のスクープ取材により、広域暴力団|藤蔭《ふじかげ》組との長年にわたる癒着と、それを裏付ける不正融資についての疑惑が突然浮上し、われわれに大きな衝撃を与えました。疑惑の究明が注目されるなか、日本時間の昨夜遅く、提携先であるメイソン・トラスト銀行との業務提携交渉が決裂したことが、ニューヨークのメイソン本社の発表によって明らかになり、本日の株価暴落は、康和銀行の今後の経営再建が強く懸念されたことによるものと思われます」  キャスターの声は途切れることなく、あくまで冷静に続いた。画面は、その途中から東京株式市場の場面に変わり、紺色の制服を着た若い|場立《ばたち》の手振りの姿を大写しにしたあと、株価の推移を示す電光掲示板の銀行銘柄のなかから、康和銀行の箇所に焦点を合わせた。 「昨年秋の北海道拓殖銀行、山一証券など、あいつぐ金融機関の破綻以降問題にされてきた、日本の金融システムに対する信用不安は、政府が打ち出した、三十兆円にもおよぶ大規模な公的資金の導入を柱とした、金融システム安定化策により、ひとまずは落ち着いたと考えられておりました。しかしいま、今回の新たな康和銀行の経営危機に直面し、今後の当局の対応が注目されるところです。はたして康和銀行は生き残れるのか。北海道拓殖銀行や山一証券などのような、大型金融機関の経営破綻がまた起きるのか。番組ではこのあと詳しく検証していきたいと思います」  キャスターの話が一段落し、画面がまた報道センターの特設デスクに戻った。 「まずは、先月記者会見を開いた、康和銀行の櫻井偉平頭取によるメイソン・トラスト銀行との資本および業務提携への合意に関する発表の模様を、VTRによりご覧ください」  その言葉を合図に、画面はまためまぐるしく切り替わり、康和銀行の経営陣による記者会見場が映し出される。記者団を前に、満面に得意気な笑みを浮かべた櫻井頭取の顔が大写しになったところで、再度報道センターに画面が戻ったので、男性キャスターは慌てた様子で用意されたフリップを取り出した。 「ここで、経済評論家の榊原仁さんにおいでいただいておりますので、二行のこれまでの関係について、簡単に解説をお願いいたします」  キャスターの隣りの席に座った榊原仁は、メイソン・トラスト銀行と康和銀行の関係を図式化したフリップを指し示しながら、二行の提携内容について長々と説明を始める。キャスターとは正反対の、落ち着きはらった榊原の言葉に、キャスターはしびれを切らしたようにまた口を開いた。 「先月の櫻井頭取の会見では、メイソン・トラストによる強力な資金支援はすでに決定したような表現でしたよね。それがここへきて突然交渉決裂に至ったというのは、どういうことなのでしょうね、榊原さん」  辛口経済評論家として絶大な人気を得ている榊原は、それがいつもの癖である、カメラに対して上半身を斜めに向けた姿勢で、口先をややとがらせるようにして話を始めた。 「先月初めの記者会見の時点では、確かに基本的な合意にまでは達していたようです。ですから今回のことは、メイソン側から康和に向けての、突然の申し渡しと理解すべきでしょう。まあ、言ってみれば一方的に絶縁状を叩き付けられたということですね。それに至った原因は、大きく二つの点があげられるでしょう」  榊原はここでもう一枚のフリップを取り出した。 「一点目は、康和銀行の経営陣側に、経営再建への足掛かりとしてメイソンのネーム・バリューを利用することにのみ執着しすぎて、焦りが見えたというか、あるいは康和サイドの常識を超えた先走りに、メイソン・トラスト側が懸念を持ったという点です。二点目は、何といっても、先週極東新聞のスクープにより発覚した、広域暴力団藤蔭組との長年にわたる癒着と、それを裏付ける疑惑として浮かびあがってきた、不正融資の容疑でしょう。外資系の企業はこういうことに対してとても神経質ですからね。事実、今日の康和株の大量売りは、外人勢を中心とする投機筋の、大規模な売り注文の殺到によるものと聞いています」 「なるほど。それではここで、先日極東新聞の記者によるスクープで浮かび上がった、康和銀行と藤蔭組との癒着問題発覚に至った経路について、振り返ってみたいと思います。藤蔭組といえば、つい先月末に、|資金 洗浄《マネー・ロンダリング》の容疑も発覚し、現在取り調べが進んでいるということですからね。この点についてはいかがですか、榊原さん?」  そこまで言って、キャスターは摘発を受けた藤蔭組の内部組織を解説した、三枚目のフリップを取り出した。 「康和銀行と藤蔭組との関係がどの程度のものかは、いまの時点ではまだ明らかにされていません。融資担当者によるあくまで個人的な繋がりだという銀行側の発表ですが、康和銀行の組織ぐるみの事件である可能性も含めて、捜査が進めば、今後もっとはっきりとしたことが出てくると思います。それまでは、なんとも言えないところなのですが、もしこの先も、|資金 洗浄《マネー・ロンダリング》の実態がいろいろとわかってくれば、銃や覚醒剤などに関連した、暴力団の資金の流れに、康和銀行が深く関わっていた可能性も出てくるかもしれません。東京地検特捜部による、これまでの金融業界の捜査については、大手都銀や大手証券会社の総会屋への利益供与の摘発に始まり、大蔵省金融検査部の金融証券検査官などの逮捕から、銀行や証券会社と日本道路公団との癒着の解明へと発展、その後、大蔵省の官僚と金融業界との|馴《な》れあいの実態が浮き彫りになり、過剰接待による大蔵省職員の大量処分へと進展してきたわけです。そうなると、次の特捜のターゲットとしては、銀行業界と暴力団との癒着の摘発ということになるのでしょうか。そもそもの起こりは──」  榊原の解説が始まってすぐ、キャスターは視線を宙に泳がせた。横から何か指示が入ったらしい素振りである。一瞬、明らかに困惑した表情を見せたキャスターは、焦った様子で評論家の話を遮った。 「なるほどね、よくわかりました、榊原さん。では──」  ぶしつけな横やりを入れて、評論家の話を中断させておきながら、キャスターはそこでまた言葉を途切らせた。事態がかなり混乱している様子が、キャスターの意味の通らない言葉と、冷静さを保とうとして小刻みに揺れる目の動きとに、雄弁に表れている。  やがてキャスターは気を取り直したように口を開いた。 「大変失礼いたしました。実は、別の番組の収録のため、偶然ほかのスタジオにおいでいただいていました、大蔵省の井村俊和銀行局業務課長補佐に、この席においでいただけることになり、今回の康和銀行のことについて、急遽お話をうかがわせていただくことになりました。なお井村さんは、先般大蔵省の金融検査官による一連の汚職事件、および大量処分者を出した過剰接待問題などがあって以来、金融界と大蔵省との癒着体質を改善していくべきだというご自身の主義のもとに、大蔵省内でも、改革推進派の立場をとっておられる宮島秀司銀行局審議官の右腕として、現在ご活躍中の方です。後日、私どもの別の番組でもご出演いただく予定になっております。では井村さんどうぞこちらへ」  キャスターの紹介で、評論家の榊原が立ち上がって席を譲り、その空いた席に見るからに温厚そうな男が座った。画面一杯に映しだされた男の顔は、四十八歳という実際の年齢よりさらに老けて見える。神経質そうな顎の線と、ほとんど灰色ではあるが手入れの行き届いた髪、そしていかにも仕立てのよさそうなグレーのスーツ姿には、高級官僚と呼ぶにふさわしい威厳があった。 「井村さん、本日は突然のことで申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします」  キャスターが深々と頭を下げるのを見て、井村は緊張した表情でうなずいた。 「早速ですが、井村さん。今回の康和銀行株の大幅下落については、日本の銀行が外資系の金融機関との提携に失敗したことが原因で、その経営再建を懸念視されるという、これまでとは違った特殊な事情があると思われますよね。そのことが原因で、これほど深刻な株価の売り圧力を受けるというのは、いささか異常な印象も受けるのですが、大蔵省の官僚として、どのようにお感じになりますか?」 「私は立場上、市場のことや、特定の銀行の株価についてとやかくコメントするつもりはありません。株の空売りに対する規制の強化や、風説の流布などによる、いわゆる特定株の売り崩し行為についての監視体制は、大蔵省としても引き続き強化していくつもりです。しかし、それはあくまで市場取引に対する監視機能であって、今回のことはまた別に語られるべきだと思います。いずれにせよ、康和銀行のことは、ビッグバンにからんで、外資系金融機関の日本市場参入に、どのように対応していくかという、現在日本の金融機関がさらされている大きな転換局面について、われわれにもいろいろと貴重な留意点を|示唆《しさ》するものだと、個人的には考えています」  井村はあくまで冷静な声で告げた。 「それはつまり、市場に出てきた株の売り手は監視できるが、それ以外のことは大蔵省としても手を出せない部分だとおっしゃるわけですね」 「はい。その上、暴力団との癒着や多額の不正融資など、さまざまな事件の発覚が引き金になって、康和銀行への公的資金の導入に反対する世論が高まってくれば、大蔵省としても国民の声を無視することはできません。公的資金での優先株や劣後債の購入による資金注入は、まず経営の健全度合に応じて、優良行から順番にというのが一貫した考えです。もっと言えば銀行側の重大な責任能力の欠如により、経営が極度に悪化した銀行については、積極的な救済の対象になりにくいのが現状だということになります」 「つまり、これまでの保護一辺倒ともいうべき姿勢をやめ、それぞれの金融機関の独自のサバイバル力を養うという、金融当局の方向転換なのでしょうか?」  キャスターが投げかけた質問を、横から遮るように、隣りの席から評論家の榊原が口をはさんできた。 「要するにこういうことですか。以前政府は、銀行に公的資金を注入する場合、その経営状態に応じて銀行をABCの三段階に分け、状態の良好なAから注入していくという表現をされましたよね。それはつまり、AとBには公金を入れるが、Cの銀行は見捨てる。早い話が、ほとんど公的資金など必要とも思えないところには積極的に導入するが、危機的な問題のある銀行は見捨てるということなのですね?」  榊原の言葉を受けるように、キャスターも質問を重ねていく。 「ということは、たとえ大手都銀でも、こうなったのは自分の責任なのだから自業自得だと、つまりは、崩壊やむなしという大蔵省の方針だというわけですか。さらに言えば、今日の康和銀行はその最初のケースだと解釈してもよろしいわけですね?」 「まあ、つまりはそういうことに──」  次々と言葉を変え、鋭く斬り込んでくるキャスターの質問に、井村はためらい気味に一度言葉を切った。頭のなかでめまぐるしく返答を組み立てている様子である。そして、すぐにまた意を決したように口を開いた。 「以前蔵相が、日本の金融機関は一行たりとも潰さないと公の場で断言されるような局面もありましたし、実際にそれも可能な時代がありました。首相も、日本発の経済恐慌を起こさないと世界に向けてアピールされ、金融システムを断固守ると公言されました。だが、金融システムを断固守るためにこそ、なんでもかんでも保護することが最善の策ではないことを、われわれは学んだのではなかったでしょうか。これからの日本の経済は、国際的な競争社会のなかでも互角に闘って生き抜いていけるだけの、強く、健康的な体力を備えた金融機関を必要としています。そのためには、少々の荒療治も必要になってくるでしょう」 「ほう、なるほど」  キャスターが、感心した顔であいづちを打った。それに勇気を得たのか、井村はこれまでより強い調子で言葉を続ける。 「末期癌の患者に、対症療法で、鎮痛剤や通り一遍の慰めの言葉だけを与え、下手な延命を願うよりも、いっそ思い切った移植手術をするなり、問題部分の大規模な摘出手術が必要な場合もあるわけです。そのときはかなりの出血や痛みをともなうでしょうが、かえって病気の回復は早いはずです」 「それはつまりこういうことですか? そんな思い切った大手術をして、もしその結果手術後の回復がうまくいかずに、死に至る場合があったとしても、それはそれでやむなしと──」  井村の言葉尻をとらえて、キャスターがうまく質問に変えていく。 「まあ、そういうことになりますね。ビッグバン構想のもとでは、それも、やむをえないことでしょう」  井村の言葉に、黙って聞いていた評論家の榊原が顔を輝かせた。 「いやこれは驚きましたな。井村さん、ついに大蔵省も変わったということですか。これは大変な進歩と言えますよ。とうとう、これまでの護送船団方式を、解体する気になったというわけですね。公的資金を湯水のように使って、銀行ばかりを救うようなやり方は国民の負担を多くしていただけで、真の金融システムの安定化にはなっていないということに、ようやく目覚めたのですか。いや、それが本当なら実に素晴らしい進歩だと言うべきでしょう」 「榊原さんが、官僚の方を褒められるのを拝見するのは、私はこれが初めてのような気がしますが……」  キャスターは信じられないという表情で口をはさんだ。 「まったくその通りですよ。こういうケースは私も想像していませんでした。しかし、歓迎すべきことであるのは間違いない。公的資金のむやみな投入には、私も反対を唱えていた立場ですから、今日の井村さんのおっしゃることに異論はありません」  榊原はいつになく笑顔を見せた。 「どういうことなのか、わかり易く解説をお願いできますか?」  キャスターが当惑したような顔で榊原を見た。 「当局によるむやみな公的資金の投入には、これまでも批判の声が高まっていたのはご存知ですよね。彼らがだめな銀行を助けようとするのは、そうやって自分達の支配力を維持したいためで、結局は日本の金融システムの根本からの健全化や、ビッグバンの精神には逆行していたわけです。ところが、今後大蔵省はそれをあらためる方向に進むと、さっき井村さんは言われたのですから、大変な進歩だと申し上げているわけなのです」  榊原の言葉に、井村が急いで補足する。 「私の上司は、さっきも紹介がありましたように、省内でも改革推進派の立場をとっております。これまでの根強い裁量行政の問題点を正し、過剰な接待などの慣例を廃止し、国民の信頼回復をめざそうという考えですので──」 「なるほど、それは心強いですね。ぜひ、省内の圧力に屈せず、今後も進めていただきたいと思います」  辛口評論家のはずの榊原が、めずらしく好意的な発言をするので、戸惑い気味にキャスターが口を開いた。 「しかし、康和銀行ほどの大手の銀行が救済の対象外になり、万が一潰れでもしたら、社会の経済活動に与える影響は大きいですよね。あの銀行は確か一万人近くの銀行員を抱えているはずですが、そんなところが潰れたら、連鎖的な影響も含めて、今度こそ、失業者問題が深刻化するのは避けられません。そういうことについては、どのようにお考えなのでしょうか? お二人にお聞きしたいと思いますが」  キャスターの質問に、井村が先に答えた。 「どんな企業でも、倒産したら従業員が失業するのは当たり前のことでしょう。それに、たとえ仮に康和銀行が潰れても、これまでに、預金者保護の立場はすでにとられていますからね。混乱は起きませんよ」 「預金者さえ万全に守られていれば、ひとまずよしとすべきですかね。まあいつの世も変革に痛みはつきものです。本当に正しい方向へ進むことが確認されるのなら、新しい時代へ向けて、国民も少々は我慢をしないわけにはいかないかもしれません。しかし──」  榊原が渋い顔でコメントをしている途中、キャスターにまたスタッフから新たな指示が入ったようだ。 「ただいま、康和銀行の店頭に取材に行っております極東テレビの取材班から、現場の状況がはいりました。渦中の康和銀行の店頭ではどういう模様か、ここで一度コマーシャルをはさんで、現場にカメラを切り替えてご覧いただくことにします」  画面は一変して、カップ・ラーメンのコマーシャルになった。続いてトヨカワ自動車から発表された新型乗用車のコマーシャルへと移る。一見何事もなかったように、人気若手俳優による見慣れたコマーシャル・フィルムが流れ、それが終わった途端、画面は全国各地の主要都市の街頭に切り替わった。  午後二時三十分を過ぎた各地の繁華街で、康和銀行株の急激な下げに注目したスポーツ新聞や夕刊紙の数社が、号外を配ったことについて伝えるためだ。  『康和銀行もついに自主廃業か? 暴力団への不正融資疑惑を抱え、大蔵省も救済を断念。公的資金導入を見送りか?』  と大きな活字で書かれた号外の紙面が、テレビ画面一杯にまず映し出され、続いて各地の街頭で、その号外を求めて人々が集まり、我先に手を伸ばしている様子が流される。 「思った以上に市民の反響は大きいようですね」  男性キャスターが、映像を見ながら不安気につぶやいたときだった、女性レポーターの耳障りな金切り声が、キャスターの名前を呼ぶのが聞こえた。東京大手町にある康和銀行本店の店頭に、急遽取材に出向いた取材班からの報告である。 「では、現場の模様を伝えてもらいましょう。康和銀行本店前どうぞ」  男性キャスターが、冷静に番組を進行した。しかし、その数秒後、これまでの番組中の三人のやりとりが引き金になって、思いがけない事態に波及していくことになるのを、出演中の三人はその目で目撃することになる。 「はい、こちらは東京大手町にある、康和銀行本店の一階です。私はいまから十分ほど前にここに到着したのですが、銀行を訪れる預金者の数はここ数分間で急激に増え、店頭はひどい混雑が始まっています。さきほど、並んでおられる何人かの方にお話をうかがってみたのですが、みなさんは大蔵省が救済措置を打ち切って、康和銀行が潰れるのではないかと心配されています。急いで電話をかけてみたけれど、ずっと話し中でかからず、不安になって状況を聞きに来たとおっしゃる方や、とりあえず急いで預金を引き出し、現金化しておきたいという方が大勢いらっしゃいます。現在、店内は文字通り鮨詰め状態で、しかも、さらにおよそ五百人ぐらいの方が店内に入りきれず、順番を待ってビルのまわりに行列をつくっておられる模様で──」  あまりの混雑のため、取材カメラが女性レポーターに付いて行けないらしく、彼女の姿は、両側から押し寄せる預金者たちの波にもまれて、画面から消えてしまった。ただ声だけはひき続き聞こえてくる。その切迫した声が、店頭の異常な騒ぎをさらに臨場感あふれるものにしていた。 「康和銀行の行員の方にもお話をうかがってみたのですが、突然の事態で、預金者の対応について、本部とも連絡がとれずに困惑しているという声もあり──、あ、凄いです。さらに物凄い人数がいま店頭に押し寄せて、押さないで、あ、すみません押さないでください。こんな言い方をすると不謹慎かもしれませんが、どこからわいて来るのかと思うぐらい、大変な数の人が殺到しています。これが取り付け騒ぎというものなのでしょうか。現在ひどいパニック状態に見舞われています。いま、あ、すみません。康和銀行本店前から、中継でお送りしております──」  カメラは、レポーターの姿を見失ったあと、預金者が殺到する康和銀行の玄関を映していた。別のカメラによって、修羅場と化した康和銀行の店頭カウンターがとらえられ、順番を待つ客達の列が乱れ、大声で野次が飛ぶ様子が映しだされる。整理にあたる行員達は、それぞれワイシャツを腕まくりした姿で、口もとに両手をあて、叫び声を上げている。カウンターの隅に設置された番号札の機械が、現在三百七十五人待ちという数字を、虚しく表示していた。  テレビで事態を知ったさらに多くの預金者達が、なんとか三時の閉店までに銀行に到着しようと、最寄りの康和銀行の支店に殺到しているのだ。店の外では、閉店時刻の三時までまだ二十分あまりあるというのに、すでに半分シャッターを下ろし、入店客の人数制限にのりだしたようだった。 「ただいまは番組を変更して、本日の康和銀行の株価暴落による異常事態に関する、報道特別番組をお送りしております」  男性キャスターは、途中から番組を見た視聴者のために、康和銀行の株価の暴落について、かいつまんで説明を繰り返した。 「かなり深刻な事態になってきたようです。こちらに届いた情報では、こうした康和銀行での取り付け騒ぎは、現在全国各地に飛び火している模様で、店頭での混乱はますます激しくなっています。それでは関西近畿圏における最大店舗といわれる康和銀行大阪支店に行っている坂口レポーターを呼んでみましょう。坂口さん」  キャスターの呼びかけを合図に、それぞれ大阪、京都などの関西地方、次に九州、四国の各支店、最後に中部、東北地方を経て、北海道支店にいたるまで、全国各地の主な支店に向かったレポーター達が、さまざまな混乱の様子を伝えてくる。 「こちら千葉駅前支店です。こちらも大変な騒ぎになっています。駆け付けて来られたのは、中小企業の経営者の方や、商店主の方々、主婦の方など、さまざまです。みなさん口々に康和銀行の対応の悪さに不満を訴えておられます。銀行側は、日銀からの特別融資いわゆる特融を受けたうえ、本日店頭に見えた方に関しては、全員に預金の引き出しに応じる態勢だと先ほど発表しました。ですが、なにぶんにも各地で現金の不足が起きていますので、本店からの現金輸送と、応援要員の派遣をするなどの対策がとられる模様です。ただ、それでも引き出し額の制限をするなどして、対応せざるを得ないという話も出ています。おそらくこの騒ぎは、このまま夜までかかっても収まらないのではないかと思われます」  早口に各地の状況を伝えてくる女性レポーターの興奮した声が、番組を見ている全国の人々の不安心理をさらに煽る結果となり、閉店までになんとか銀行に駆け込もうとする人間の数を倍加させた。今回の極東テレビの報道特別番組が、午後二時十三分ごろから三時までという、銀行の閉店前の時間帯だったことが、事態をさらに深刻化させたのは明らかだった。  番組の進行をするキャスターは、やがてまとめに入り始めた。 「こういった取り付け騒ぎは、これまでもなかったわけではありません。コスモ信用組合、木津信用組合など比較的小規模な騒ぎで終わった例は過去にもありました。しかし、康和銀行のような大手の都銀で、今回ほど全国的な大騒ぎになったのは、日本の金融史上においても、かつてなかったことだと言えましょう。実際には、昨年秋にも、銀行株の暴落を機に、一部の信託銀行などで取り付け騒ぎが起きたという事実があります。ただし、社会の混乱を防ぐということで、報道の自粛が申し渡され、その結果当時のことは現場取材されたにもかかわらず、ほとんどオン・エアされませんでした。  これまでの相次ぐ金融不祥事や、金融システムの混乱、そして日本の金融業界における信用縮小で、不利益を被るのはまさにわれわれ一般国民です。しかも、そうしたわれわれに対し、当事者である銀行側も当局側も、情報を正しく開示する姿勢すら見せません。さらに言えば、国民の知る権利さえ、当局が管理しようとしているのです。  今回起きた康和銀行の取り付け騒ぎは、とりもなおさず一般預金者の銀行経営者側に対する、切実な抗議行動だと断言することができます。そのことを銀行経営者も、金融当局側も、|真摯《しんし》に受け止めていただきたいものです。その意味において、われわれ極東テレビ報道班は、あえて報道自粛勧告を破ってでも、真の現実をお伝えすべきだと考え、本日の番組報道に踏み切ったことを申し添えたいと思います」  この番組が終了したあと、全国の各テレビ局では、口火を切った極東テレビに続けとばかり、こぞってその後の混乱の模様を、臨時ニュースとして流した。  思わぬ騒ぎが翌日まで波及することを懸念した大蔵大臣は、夜になってやっと自ら記者会見の場に登場し、どんなことがあっても、預金者の利益は必ず守られるので、パニックにならないようにと呼びかけた。 「本日の事態は、人々の思惑や不安が先行した形で起きたわけです。万が一康和銀行に不測の事態が起きたとしても、預金者保護の態勢は万全で、一般国民が不利益を被らないように、国としては全力を傾けて対処するつもりです。みなさんはどうぞパニックにならずに、くれぐれも冷静な行動をお願いしたい」  大臣自らテレビ・カメラに向かって、これ見よがしな笑顔でコメントする様子が、何度も画面に大写しになる。さらに、やむない緊急措置として、康和銀行に対し、翌週の月曜日から二日間の短期的な業務停止命令を出した。言ってみれば、事態の収拾に向けての、猶予期間を与えた形である。  深夜まで繰り返された各テレビ局による報道特別番組では、にわかに集められた経済評論家達によって、口々に今日の事態についての分析がなされた。 「今回の大蔵省による業務停止処分という異例な処置は、康和銀行に対し、その間に事態収拾に向けての具体策を練るようにとの、当局からの申し出だと解釈されたようですが、実際は当局自体の時間稼ぎだと思いますね」 「結局は一般国民が被る不利益に対しては、なんら考慮されないわけですよ」 「本来日本の金融業界の守り番であるべき大蔵省の役人の言が、ここまで大きく社会を混乱させたことは由々しきことです」  彼らは、批判の矛先を緩めることなく、コメントを述べ続けた。  この日の取り付け騒ぎの波紋は、あっという間に日本中に広がり、全国各地に支店網を展開する康和銀行は、午後三時の閉店間際からほんの数時間ばかりで、個人法人を含めて四千八百五十億円にもおよぶ現金の流出に対応しなければならなかった。  日銀は、銀行間の短期金融市場においても、資金を手当てできなくなった康和銀行のため、日銀法二十五条に基づく無担保の特別融資(日銀特融)を九千億円強実施したと報じられた。     3  リビングのソファから立ち上がって、芹沢裕弥はテレビのスイッチを切った。康和銀行の取り付け騒ぎのニュースは、すでに知っていたとはいえ、部屋に帰って、またあらためて深夜の特別番組の映像で見てみると、やはり冷静ではいられない。 「おい明石、おまえの銀行が潰れていくよ。なあ、おまえにも見えているのだろう?」  声に出してそう言いながら、芹沢はどこともなしに天井を見上げてみる。  肩から胸にかけてずしりとした圧迫感があった。息苦しさに、芹沢は大きく息を吐いた。まるでこの半年近くの間に、身体中に沈殿してしまった|澱《おり》のようなものを、すべて吐き出そうとでもしているようだ。実際にそれができたら、どれほど楽なことか。芹沢はまた大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。  明石哲彦と最後にマンハッタンで出会ってから、すでに半年近くがたってしまった。あの日までは、ほとんど縁のなかった康和銀行という存在も、この五カ月あまりの間、明石という男と一緒に、どんなときも自分の頭から離れなかった。  すべては、あの日から始まったのだ。二十年振りに再会し、それを限りに、もう二度と会えないと知らされたときのことを、芹沢はいまでもはっきりと思い出すことができる。  その記事を見つけたとき、芹沢はまったくの無防備だった。  十一月二十二日土曜日の朝、小雪が舞うマンハッタンの高速道路を走り抜け、芹沢の乗ったタクシーがJ・F・ケネディ空港に着いたのは、成田へ向かう飛行機の離陸予定時刻のわずか十五分前だった。  チェック・インから通関、搭乗ゲートと、ずっと走り通して、荒い息をしたまま機内に乗り込んだ芹沢は、待ちくたびれた乗客の好奇の目にさらされながら席に着いた。とにかく、なんとか飛行機に乗り遅れずにすんだのだ。そのことに安堵し、一息ついた途端、急に昨夜からの疲れがぶり返してくるのを感じた。  だから芹沢は、乗務員から配られる久しぶりの日本語の新聞にも、ただ反射的に受け取ったきり、目もくれずに眠り込んだ。どれぐらいの時間だったか、一眠りしたあと、なにげなく開いた日経新聞の第一面を見て、芹沢は思わず声をあげた。  『山一証券、自主廃業へ、負債三兆円、戦後最大』  そのショッキングな記事に、ほとんど気をとられ、関連記事だけを丁寧に読んでいたので、社会面のその小さな記事の存在に気がついたのは、さらにずっとあとのことだった。  これが帰国の機内で、ほかになにもすることのない狭い空間ででもなければ、おそらく読まずにいただろうと思えるほど、それは短い記事だった。  まさかそれが自分の友人のことだなどとは、もちろん思いもよらなかった。もう少し、心の準備ができていれば、もっと冷静に受け止め、逆にもっと素直に驚くことができたのかもしれない。  いましがた自分が後にしてきたニューヨークの街で、たしかにあの日、明石哲彦と出会ったのだ。ほんの少し手を伸ばすだけで、実際に触れることができるほどの近くに、明石は座っていた。  高校の卒業式以来、二十年ぶりの出会いなどとは思えないほど、話題は次々と広がり、あんなに夢中になって話をしていたではないか。そして、また近いうちに必ず会おうと約束して別れたはずである。あの日から、まだ四日しかたっていない。  『ニューヨークで日本人飛び降り自殺。大手邦銀のエリート駐在員、滞在中の高層ホテルから』  誰もが見過ごしてしまうほどの小さい扱いで、あっけないほど簡潔な表現と、一切の感情をはさまない説明が、よけいに現実感のない印象を与えた。  事実芹沢は、最初は気にもとめなかった。銀行員の死ではあるが、特に事件性はなく、単なる個人的な自殺にすぎないと説明されている。そういえば、昨日仕事仲間の誰かが、マンハッタンで自殺騒ぎがあったという話をしていた気もする。だが、死んだのが日本人だということも、銀行員だったとも聞かなかった。  記事では、自殺の原因には特に触れていない。どこで起きても、それなりにありそうなニュースで、めずらしくもないという印象すらあった。だが、その記事は、文面のなかに、明石哲彦三十八歳、という文字を見つけた途端、すべてが一変した。 「嘘だ──」  芹沢は自分でもびっくりするほど大きな声を出したと思った。だが、実際にはほとんど喉の奥で押し潰されて、声にはなっていない。  身体を起こして、紙面にかじりついた。新聞を持つ指が小刻みに震えてくる。それまで深々とシートにもたれ、だらしない姿勢で文字を追っていたが、それどころではなかった。頬から両腕を伝って、手の甲までうぶ毛が逆立っていく。唇が乾いて、喉がひくひくと鳴った。 「そんな、ばかな。明石はこの日の昼過ぎ、銀行の俺のところまで電話をくれたじゃないか」  思わずそう口走って、芹沢は隣りの席からの執拗な視線を感じた。どう見ても裕福な家庭の主婦グループらしい日本人女性が三人、好奇心を抑えきれないように、こちらを盗み見ている。だが、芹沢には、そんなことにかまっているゆとりさえもなかった。  明石が自殺などするはずがない。絶対になにかの間違いだ。芹沢は何度も繰り返した。明石哲彦という名前などは、あの明石以外に一人や二人いてもおかしくはないだろう。ニューヨークで起きたことなのだから、日本名に慣れない現地の人間が、他の名前と聞き間違ったか、うまく発音できなかったか、どちらにしても名前を間違うことなどよくあることだ。芹沢は強く自分に言い聞かせた。  不意に隣りの女性と目が合い、芹沢はいったん新聞を閉じた。ついでに自分も目を閉じて、大きく息を吸った。きっとこれは自分の読み違いだ。このところ明石のことばかり気になっていたから、久しぶりに読む日本語の文字を間違って読んでしまったのだ。芹沢はゆっくりと目を開け、もう一度おそるおそるページを開き、最初からていねいに記事を読み直した。  短い記事である。一字一句に注意を払い、文章の一つ一つを繰り返し確認しながら読んだとしても、たかが知れている。  だが、死んだ男は明石哲彦という名前で、自分と同じ三十八歳で、しかも康和銀行のニューヨーク支店に赴任して、この四年間勤務していたのだった。飛び降りたというホテルの名前も、明石が名刺の裏に書いたものと一致した。ミッド・タウンにあるこのホテルは一部が大掛かりな改装工事中だということも、明石自身から聞いていた。廊下をはさんだ向かいの部屋では、壁ごと大きくはがされているのだとも言っていた。 「あんな状態で客を泊めるなんて、やっぱりニューヨークだよな。エレベータが途中で止まるなんていうのは序の口で、朝、シャンプーしている最中に、シャワーが突然止まったりするんだから、たまんないよ」  そんなふうに文句を言っていた明石が、その滞在中のホテルから飛び降りたのだ。  機内の狭い空間が急に息苦しく思えた。いますぐここを出なければ、窒息死してしまいそうなぐらいだ。窮屈な椅子に縛り付けられ、拷問を受けているような気になってきた。友人の死を知らされるのに、これ以上冷酷な方法はない。  芹沢は頭上のハット・ラックを見上げた。あの中には芹沢がいつも持ち歩いているブリーフ・ケースが押し込んである。その内側の小さなポケットに、あの日の朝、ホテルの部屋に届いた明石からのファックスが入っている。明石が芹沢に送ってきたものだ。  その瞬間だった。芹沢の頭に突然甦ってくる言葉があった。 「 N.U.H.そうだ、ニード・ユア・ヘルプだ。あれは助けてくれの意味だったのだ。明石、おまえは俺にあのとき助けてくれと言ってきたのか──」  後頭部を、何かで思いきり殴られたような気がした。 「それを、この俺は無視したのか。ファックスと、それに電話。おまえは二度も俺に助けを求めたのに、俺はいまのいままで気がつかなかった──」  助けを求めるこの略語は、中学生のころ、最初は芹沢が考えたものである。ほかにもいくつものでたらめな略語を考え出しては、いろいろなときにおもしろがって使ったものだ。二人の間にだけ通用する暗号だったのだが、そのほとんどがすぐに忘れられたなかで、最後まで使われたのがこの言葉だった。明石が教師に指名されて、何かの答えを求められたとき、ノートの端をあわてて破った無造作な三角形の紙切れにこっそり書いて、芹沢に渡すのだ。ときとしてそれは、試験の最中だったりしたこともある。  明石は答えに窮すると、決まって芹沢に助けを求めてきた。小さく丸められた紙切れには、いつも『 N.U.H.』としか書かれていなかったけれど、明石がどの問題にてこずっているかはいつも必ず見当がついた。  二十年以上も前のことだ。そして、あのころの明石は、まだ自分より前を歩いてはいなかった。痩せて、女みたいに端正な顔に、不釣り合いなほど大きな黒ぶちの眼鏡をかけたあのころの明石を、守ってやらなければならないと思ったのはなぜなのだろう。だが、メモを送ってよこしたのはいつも必ず明石のほうだった。教師の目を盗んで、小さな声で教えてやったり、渡された|皺《しわ》だらけの紙切れに、小さな文字でびっしりと答えを書き込み、背中にまわした明石の手のひらに握らせてやるのは、決まって芹沢の役目だった。  不意に、耳の奥に男の声が聞こえたような気がした。夢の中で聞いたあの声だ。あの朝、名前を呼んだのは、あれは明石だったのだろうか。芹沢はあらためてあの朝のことを思い出そうとした。そして、四日前にミッド・タウンで偶然会ったときの明石の顔も、その言葉や声の表情のひとつひとつも、必死で思い浮かべようとした。  しかし、焦れば焦るほど何も浮かんではこない。高校時代よりかなり肥って、貫禄のある体形になり、眼鏡が金色のメタル・フレームになっていたことだけは思い出せる。けれど、明石がどんな顔だったかは思い出せない気がした。一つはっきりしているのは、向かいあっていた間、明石がたえず笑っていたことだ。すべてを手に入れた成功者にありがちな、どこか不遜とも言えるあの笑顔である。  明石と偶然再会したのは、ミッド・タウンのアイリッシュ・バーだった。仕事帰りに、出張先のニューヨーク支店の同僚に誘われて、どことも知らずに入った店だ。  明石は少し前からそのバーにいたらしく、康和銀行ニューヨーク支店の日本人部下と一緒だった。接待の帰りに、飲み直しに来たのだと、明石ははにかんだように話した。二十年間一度も会わなかった二人が、ニューヨークのバーでばったり出くわすというのも、思えば不思議な偶然だ。あれがもし東京の店なら、たぶん芹沢はそそくさと店を出ていたことだろう。  最初は、明石だとはまったく気がつかなかった。店の奥のテーブルに、妙に目が合う東洋人がいるのを感じてはいたが、まさか明石だとは思いもよらなかった。そのうち、男はじっと芹沢を見つめたまま、席から立ち上がった。 「裕弥。裕弥じゃないか?」  男はまっすぐに芹沢のほうへ歩いてきた。 「俺だよ、俺。哲彦だよ。明石哲彦」  その声を聞いた途端、二人を取り巻く空気は、一瞬にして二十年前に逆戻りした。 「哲彦? 本当におまえなのか。どうしてこんなところに?」  芹沢はそのあと何を言ったのか、覚えていない。 「裕弥はほとんど昔のまんまだな。学生服を着てもまだそのまま通用しそうなほど、変わってない。店に入ってきたときから、もしかしておまえじゃないかと思っていたよ」  明石から手を出され、芹沢は一瞬ためらったあと、それを両手で握り返した。明石は意外なほど暖かい手をしていた。そのことがなぜかいまも記憶に残っている。しばらくの間は四人が合流し、名刺を交換しながら挨拶を交わした。そして、連れの二人が先に帰ったあと、バーに残って二人で飲み直すことになった。 「裕弥は本当に変わっていないよ。おまえはやっぱり、いつまでもあのころのままの万年青年だな」  明石はあらためてそう言って、まぶしそうに芹沢を見た。高校を卒業して以来、ずっと会うのを避けてきた芹沢だが、そんなことには気づいてもいないようだった。芹沢のこだわりなど、明石にとっては、取るに足らない些細なことだったに違いない。 「裕弥もついに眼鏡をかけることになったんだな。昔はすごく目がよくて、いつもそれを自慢していたのに」 「まあな」  いまでも本当は目なんか少しも悪くはない。なのにわざわざ眼鏡なんかかけて、ばかみたいだろう。そんなふうに言って笑いたかったが、どうしても言えなかった。芹沢が、明石の受かった一橋大学に落ちて、翌年もう一度受験したことも、そしてそれにも失敗したことも、明石は知らないのだろうか。  十代の終わりという、人生のまだ早い時期に、見せつけられてしまった自分の限界のようなものを、目の前のこの明石は一度も味わうことなく生きてきたのだろう。  このあと、ソーダ割りのシングル・モルトを、自分が何杯飲んだかは覚えていない。それは何より芹沢の気分がよかった証拠ともいえる。二人の話は、主に一緒に過ごした中学時代や、高校の二年生までぐらいのことに終始した。  明石は|饒舌《じようぜつ》だった。ほとんど一方的に話し、芹沢が笑うのを見届けてから、確認するように自分も笑った。明石は細かいことまでよく覚えていた。明石に言われるまですっかり忘れていたことが、あまりに多いのに芹沢は驚いた。そのことはとりもなおさず、明石が常にそういうことを思い出し、温め直すようにして、誰かと語り続けてきたことの証明なのだと思えた。その誰かというのが、あの慶子だということも、もちろん芹沢にはわかっている。  そんな明石たちとは逆に、芹沢は、昔のことを忘れるために生きてきたのだ。思い出すのを拒んでいるうちに、あのころのことは次第に風化し、いまでは完全に記憶のなかから抹消されている。だが、明石と語り合ってみると、自分が消してしまった時間が、いかに快活で、豊かだったかということに、初めて気づかされた思いがして、芹沢は愕然とした。  十一時近くになって、店を出た二人は、同じタクシーに乗りあわせてまず芹沢のホテルに着き、玄関で芹沢だけを降ろして、明石は自分が住んでいる長期滞在者用のホテルまで帰って行ったのだ。タクシーから降りた芹沢を、車の中から呼び止めた明石は、もの慣れた仕草と自信に満ちた笑顔で手を差し出し、芹沢は、今度はためらうことなく、両手で握り返した。  そして、それが明石を見た最後だった。  明石が飛び降りたのは、芹沢のホテルにあのファックスを送ってきた日の夜のことだ。芹沢が深夜になってホテルに戻ってすぐ、部屋から電話をしようかと思っていたときは、すでに飛び降りたあとだったということになる。 「最初会って話したとき、なぜ言わなかった、哲彦。俺という人間には、おまえにそれを打ち明けさせるだけの度量がなかったからなのか。だからあの朝、ファックスにして俺に助けを求めてきたのだな、そうなんだな哲彦?」  できるものなら四日前のあの時点に戻って、昔よりもずっと肉付きのよくなった明石の肩を、力一杯揺さぶり、そう問いただしてみたい。それができないなら、死を選ぶほど追い詰められた明石を前にしながら、それを察してやることすらできなかった自分の無神経さを、どうやって許せばいいというのだろう。  いまから二十年前、大学受験の合格発表の日を境にして、芹沢と明石の関係は一変した。いやもっと正確に言うなら、そのおよそ一年前、あとしばらくで三年生になるという春休み中の模擬試験で、明石が驚くほどの成績をとったころから、二人の関係は逆転した。それまでずっと上位にいた芹沢の成績を、はるかに追い抜き、突然学年のトップ・クラスに躍り出たのだから、誰もがさまざまな噂をしたものだ。  あのとき何があったのかは、芹沢にはいまもわからない。そしてその日から、明石は芹沢に教室で助けをもとめることがなくなった。『 N.U.H.』の略語も、もはや二人の間では二度と使われることがなくなったのである。  確かにあのころを境に、芹沢は、自分の人生というものが、望みどおりには行かないものだということを思い知った。  明石は、芹沢と同じ志望大学にあっけなく合格した。芹沢が中学のころから必死で目指していた一橋大学に、明石にも一緒に受験するよう誘ったのは、むしろ芹沢のほうからだった。明石が受かって、自分が落ちることなどあるはずがないと、どうしてあんな無邪気に信じこんでいられたのだろう。  一橋大学を目指したのには理由があった。都心に会計事務所を開き、公認会計士をしている芹沢の父が卒業した大学であり、母方の祖父も、その前身である東京商科大学の出身だったからである。五歳違いの兄が難なく入学したように、芹沢自身が同じ大学を選び、合格するのは当然だと、家族の誰もが思っていた。  自分だけが落ちたことを知った日以来、芹沢は明石と会うことをやめた。泣きたいような気持ちで予備校の入学手続きをした帰り、芹沢はすぐに家に帰る気になれなくて、ふらふらと吸い寄せられるように眼鏡店に入った。別に目が悪くなったわけではない。店員が変な顔をしていたが、かまわず度のついていない眼鏡を買い、そのまま買ったばかりの眼鏡をかけて家に帰った。  眼鏡をかけているとなぜか落ち着いた。自分がまったく別の人間になれたような気がしたからかもしれない。  あれから二十年たったいまも、まだ眼鏡をかけ続けているが、レンズに度が入っていないことを知る者は誰もいない。  一年浪人をして、もう一度同じ一橋大学に挑戦した。大学に合格さえしたら、何もかもが元に戻ると信じたからだ。明石とも、また屈託なく顔を合わせることができる。受験を前にして、今度は自分でもなんとかなりそうだと思えた。実際、結構頑張って勉強したつもりだった。  だが、二度目の受験にも失敗し、結局二浪したのにそれでも合格できなかった。三度目の受験には、いわゆる滑り止めとして、かなりランクを落とした大学も二校受けた。なんとしても三浪だけは避けたかったのだ。そして、その滑り止めにも落ちたとき、もはや完全に打ちのめされたような気がした。  普段は決して成績が悪いほうではなかったのに、なぜかいざというとき力が発揮できない。慎重すぎて萎縮するのか、度胸がないというべきなのか、いずれにしても普段成績がいいだけに始末が悪い。簡単にあきらめられない分だけ悔しさが大きかった。合格しないかぎり、浪人生活はまったくの徒労でしかない。だが、そう言って息子の不甲斐なさを責めるには、父はインテリ過ぎた。そして、何も言われないことが、かえって芹沢自身を追い詰めた。  要するに自分は受験そのものに適応できないのだ。そのことに気づくのに、三年も無駄にしてしまったのだと思うと、やりきれない思いだけが残った。  父が、突然アメリカに行ってみないかと言い出したのは、そんな芹沢を見かねたからだろう。当時、商社に勤める兄が赴任していたこともあって、いっそ西海岸の大学に入ってみたらどうだというのだ。親や兄に言われて決めるのは情けない気もしたが、芹沢にとってはどこでも同じだった。  自分の居場所が欲しかったのだ。どこにも自分の居るところがないと思うのが、何より怖かった。とにかくこの場から逃げ出さなければ、自分には永遠に何も始まらないと思えた。もうこれ以上、無様な姿を見せたくはなかった。  芹沢は日本から逃げるようにしてアメリカに渡り、日本には名前すら知られていないような西海岸の大学に入学した。  そうして明石とは、結局その後もずっと会うことがなくなったのである。 「無理だよ明石。俺は、昔のことはずっと忘れて生きて来たんだ。だから、あんなファックスを送ってくれても、あの略語の意味を思い出すことなんてできなかったよ」  思わずそう言いそうになったが、それで芹沢の心が安まるわけではない。  それに、どう考えてみても、二十年ぶりに会ったあのときの明石は、まるで屈託のない顔で冗談を言い、腹の底から笑っていたように思えてならない。懐かしそうに昔話を語り、ニューヨーク生活を楽しんでいると、確かに明石はそう言った。その顔にはなんの翳りも存在しなかった。  だとすれば、二人が再会した直後、自殺に追い込まれるような、何か想像もつかない出来事が起きたということになる。だから助けを求めてきたのか。芹沢は、東京に帰ったら、すぐに明石の家を訪ねなければならないと思った。 「今度一度家に遊びに来いよ。東京の家のほうにさ。うちのやつも、裕弥には会いたがっているはずだから、喜ぶと思うよ、きっと」  あのとき、明石はそう言って嬉しそうな顔をした。芹沢はつとめてさりげなく、もちろん行くよと返事をしたつもりだが、あらためて自分が動揺しているのを感じた。それが、明石が慶子をうちのやつと呼んだことに対してだということも、わかっていた。あの島崎慶子が、いまは明石の妻になり、すでに明石慶子となっているのを、知らなかったわけではない。  明石とは、会ってすぐに昔に戻れたとしても、明石の妻となったあの慶子とも、同じように冷静に再会できる自信はなかった。二人が生活を共にする家を訪れ、あの慶子を交えて、昔を懐かしんで話をする日など、決してこないだろうとあのときの芹沢には思えたのだ。  だが、事態は一変した。  こうなったら、なにがなんでも慶子に会わなければと思えてくる。会って、このファックスのことを伝えなければならない。  明石は、芹沢が叶えられなかった夢をすべて実現した男だった。幼いころからの希望だった大学に難なく受かり、そのうえ芹沢にとっても憧れの存在だった慶子までも自分のものにした。その明石が、どうして自殺などする理由があったのか。それがたとえどんなに衝動的な行為だったとしても、許せない気さえしてくる。  そのことも、確かめたいと思った。明石が何から逃れたくて、助けを求めたのかも、知らなければならない。死をもってしか答えを出せなかったものを、見つけだして理解してやらなければ、明石は浮かばれないのではないか。明石のために、あのとき自分に何ができたのかわからないが、少なくとも助けてやれることがあったのだとすると、その訴えに気づいてやれなかった償いをしなければならないのだ。  慶子ならわかるはずだと思った。明石と同じ大学にストレートで合格し、そのままずっと明石と一生を共にすることを選んだ慶子は、二十年もたったいまは、どんなふうになっているのだろう。明石と同じように、いくらか肥っているのだろうか。息子が一人いると言っていたが、才気走って、勝ち気で、どんな場合も理論で攻めてくるようなタイプだった慶子は、いかにも賢母という風貌になっているのか。それとも、いま隣りの席に座っている女性達のように、豊かな暮らしに慣れきった、主婦然とした姿になっているのだろうか。  自分の知らない女になっているだろう慶子を想像すると、いまさらながら気後れを感じずにはいられない。そしてなにより、彼女をそんなふうに変えてしまったのが、あの明石なのだと確認することには、耐えられそうにもなかった。しかも、その明石はもういないのだ。  狭い機内のシートにもたれて、芹沢はまるで落ち着かなかった。その原因が、どういう形にせよ慶子に会えると思うことで、気後れと同時に、どこか気持ちが弾んでいるためだということも、否定できなかった。  頭の中を駆け巡る、堂々めぐりを断ちきるために、芹沢はわずかな機内食と一緒にバーボンのソーダ割りを飲んだ。そのあとじっと目を閉じていると、やがて浅い眠気がやってくる。どれほど時間がたったのか、隣りの席からの聞こえよがしの咳払いに、ふと目を開けると、自分がぶつぶつと口の中で何かを呟いていることに気がついた。  夢とも現実ともさだかでないまま、芹沢は何かに向かって、無意識に繰り返していた。 「本当なのか明石。おまえ本当に死んだのか?」  目の前を、慶子の顔が|過《よぎ》る。つんと顎を上げて話す癖の、高校生のころの慶子である。まだ幼さの残ったその白い顔に重なって、いつも一緒にふざけあっていた明石の顔も浮かんできた。その二人が芹沢に向かって、何かを語りかけている。その声を、必死で聞き取ろうとして、芹沢は何度も眠りから引き戻された。     4  東京はどしゃぶりの雨だった。  成田空港に着いたときは小雨だったのが、リムジンバスが、ひどい渋滞のなかを首都高速を通って都内に入るころには、窓の外は激しい雨に変わっていた。  東京駅で、タクシーに乗り継ぎ、独り暮らしの恵比寿のマンションにたどり着いたときは、すでに陽はすっかり落ちていた。ニューヨークが雪だったことに較べると、いくぶん気温は高いのだろう。だが、十一月も後半に突入した東京の雨は、マンハッタンの雪以上に寒々として心が塞いだ。  十日間の留守で冷えきってしまった部屋には、荷物だけを置いて、芹沢はそのまま着替えもせずにすぐに飛び出してきた。早く行かなければと、そればかりが頭にあった。  大通りでタクシーを止めたときも、そのまま運転手に行き先を告げたときも、すべてがまるでずっと前から全部予定されていたスケジュールのように、よどみなく正確に進んでいるような気がした。  J・F・ケネディ空港で飛行機に乗ったときには、まったく思いもしなかった展開である。だが芹沢は、とにかく一分でも早く慶子に会わなければならないという、なかば強迫観念にかられるような思いで、タクシーの運転手を急かせていた。  それにしても、激しい雨だ。  ワイパーにからみついてくるような雨脚を、むりやりひきちぎるようにタクシーは走る。  夜の第二京浜国道は、けばけばしい赤や黄色の目立つネオン・サインが続いていた。ときどきその滲んだ景色さえ消してしまうほどの激しさで、雨がフロント・ガラスに叩きつけられる。まるで前方からバケツで水をぶちまけられたようで、一瞬何も見えなくなった。 「いやぁ、まったくひどい雨だわ」  運転手は前を向いたままで、誰に向かって言うともなく、さっきから何度も同じ言葉を繰り返している。芹沢は、その言葉で初めて気づいたように、窓の外に目をやった。ほんの十日間日本を離れていただけなのに、景色に違和感を覚えてしかたがない。まるで自分がもうすでにこの国の住人ではないような錯覚に囚われる。いま走っているのは東京ではなく、旅の続きで別の国に降り立っただけのような不思議な感覚だった。 「もうそろそろですけれどねぇ。お客さん」  運転手は、こんどはバック・ミラーに映った芹沢の顔を見てそう言った。そう言われて外を見れば、道路わきの建物の灯が、少しずつ途切れ始めてきた。車線変更をしたタクシーは、右折車線でゆっくりと止まって、信号の変わるのを待つ。はね返ったしぶきのなかで、対向車のライトに照らされた道路の白線が、雨の中で時折|眩《まぶ》しく浮かんでは消えた。  芹沢が腕時計を確認しようとする前に、信号はすぐ青に変わった。直進する車の切れ目を待って右折すると、細い坂道に入り、周囲の景色は一変する。いよいよ大田区の閑静な住宅街に入って来たのだ。これまでの大通りに較べるとひどく暗い。ほとんど対向車のない道を、右手に木立の並ぶ小さな公園を過ぎ、タクシーはゆるやかな坂を登って行った。  坂の中腹あたりから、道の両脇に大きな屋敷が並び始める。道路から大きくセット・バックされた、重厚な門構えの家や、長い白壁の塀が続く。門のまわりの樹木を照らす外灯が雨のしぶきのなかにぼんやり浮かんでいた。 「たしかもうこのへんなんですがねぇ。番地はわかりますか、お客さん」  ほとんどが大きな庭のある戸建ての住宅ばかりで、とりたてて目印になるものは何もない。沈みきった夜の闇の底を、雨が激しく叩きつけていた。芹沢は大きく息を吸い込んで、やっとの思いで声を出した。 「四丁目なんだけれどね。あ、あそこに五丁目というのが見えるから、だいたいこのあたりだよ。僕も今夜初めて来たんでね。こんな雨じゃなきゃ降りて探してもいいのだけれど」 「いえいえ大丈夫ですよ。番地を見ながら、もうちょっとぐるっとまわってみましょう」  おおよそ碁盤の目のように交差する道を、のろのろと這うように車は曲がる。芹沢は、明石が教えてくれた家の住所を頭のなかで確かめていた。すでに近くに来ているはずだ。 「あれじゃないかな。あの先の黒い車の並んでいる家。たぶんそうだと思うから、このへんで降ろしてもらえますか」  十メートルもいった先に、門のあたりが|煌々《こうこう》と照らされて、人の出入りがあるのが見える。暗く静まりかえった家並みのなかで、そこだけスポット・ライトを浴びたように明るく浮かび上がっていた。道の片側に、一目で社用車とわかる数台の黒塗りの車が並び、傘をさした男達が二、三人立っていた。黒いスーツが闇に溶け込み、胸もとのシャツの部分だけが、白く浮かんで見えた。 「このままとっておいてください」  タクシーを止めさせ、芹沢は運転席を見ないままそう言って、一枚余分に紙幣を手渡した。 「すいませんねぇ。じゃあお気をつけて」  タクシーのドアが開いた途端、斜め後ろから雨が吹き込んでくる。傘をさすのにひどく手間取って、頭から首筋まですっかり濡れてしまった。だが、それさえも苦にはならないほど、芹沢は緊張していた。意を決して車を降りると、頬に吹き付ける雨の冷たさのなかに、ふと花の匂いがした。|金木犀《きんもくせい》の香りだろうか。芹沢は思わず顔をあげ、あたりを見まわした。  一見して高級な住宅街だとわかる。芹沢の住まい近くの密集したマンション街と違って、高い建物がないせいか、空が黒々として広い。  芹沢が見当をつけたところはやはり正しかった。想像していた以上に贅沢な家だ。煉瓦を模したタイルで貼られた門柱には、真新しい金属の表札がかかっている。光沢をおさえた大きめの表札は、現代風な書体で明石と彫られたモダンなものだ。しゃれたデザインの三枚の黒いフェンスは全部開け放たれ、そのまま階段を三段上ったところに玄関がある。間口の広い玄関から、葬儀屋らしい二人の男が、声を落としてなにか打ちあわせをしながら出てくるのが見えた。  声をかけようと思う間もなく、二人はまるで芹沢の姿など目にも入らないように、足早に通り過ぎていく。  背後に白いライトバンが止まった。花や供物などが続々と届けられているのだ。車のライトが闇に浮かび上がらせた光の中に、細かく繋がったガラス粒のような雨が落ちている。ひっそりと寝静まった家並みのなかで、この家だけが起きて活動していた。だが行き交う人々の間には言葉もなく、気詰まりで沈鬱な静寂があった。  玄関のドアも開いたままだ。すぐ横に「明石家仮通夜」と書かれた黒い縁取りの紙が掲げられている。これが明石と慶子の家だ。そう思ったとき、芹沢の中から突き上げてくるものがあった。この家にこんなかたちで来ることになるとは、想像することさえもなかった。抑え込んでもあふれ出ようとする、声にならない激しいものを、芹沢は無理やり飲みこんだ。  どんな顔をして慶子の前に立てばいいのかを、考えなければならない。顔を見たら、まず何を言おう。会うことのなかった年月の長さをまったく無視して、平然と挨拶をすればいいのだろうか。芹沢はいったんその場に足を止めた。  なんとしても、明石のファックスのことだけは慶子に訊かなければならない。そのことだけが、芹沢の足を前に進めさせた。意を決するように階段をあがり、もう一度深く息を吸い込んでから、一歩玄関の中へ踏み入れた。三十歳前後の黒いスーツの男が、奥から出て来るのが見えた。 「ごめんください──」  芹沢は思い切って声をかけた。名刺を出して名前を告げる。男は、明石が勤めていた康和銀行の人間らしい。芹沢の名刺を両手で丁重に受け取り、深々と頭を下げた。 「雨の中をわざわざありがとうございます。さあ、とにかくどうぞ奥へおあがりください。みなさんお揃いですから」  男は振り向いてすぐに奥のほうへ声をかけ、芹沢にもスリッパを勧める。玄関のたたきには、来客の多さを物語るように靴がいくつも並んでいた。どれもぐっしょりと雨に濡れ、まわりに水たまりをつくっていた。  男に呼ばれて、奥から若い女が出てきた。 「あっ君、奥様にお伝えしてもらえませんか。ファースト・アメリカ銀行の──」  若い男は口ごもって、もう一度確認するように名刺に目をやった。 「芹沢です。明石君と幼なじみの芹沢裕弥が来たと言っていただければ、おわかりになるはずですが」  芹沢は急いでつけ加えた。 「芹沢様ですね。お待ちくださいませ」  若い女は、男から受け取った芹沢の名刺を確認するように告げた。彼女も康和銀行の行員のようだ。 「あのう、ご遺体のほうはもう日本に?」  芹沢は濡れた靴を脱ぎながら、気になっていたことを男に訊いてみた。 「いえ、まだです。それに、いつになるかもまだはっきりとは──」  男は言いにくそうに言葉を途切らせた。それ以上は訊いてもらいたくないという顔だ。無理もない。事情が事情だけに、検死や警察の取り調べに時間がかかっているのだろう。しかも勝手の違う異国でのことだ。  それにしても、と芹沢はあたりを見まわした。新聞では自殺と断定していたので、人目を避けるような、身内だけの密葬を想像して来たのに、この人の出入りの多さには驚かされる。明石の家には、すでに銀行関係者がかなり集まっているようだ。この分では葬儀も盛大にとり行なうつもりとみえる。海外赴任中のことだから、銀行側が手伝うこともあるとはいえ、仰々しいまでの集まりだった。明石はこれほどまでの地位だったのか。  さっきの若い女に付き添われて、奥から出て来た背の高い少年を見て、芹沢は声をあげそうになった。中学生ぐらいだろうか。すでに大人の体格だが、顔立ちには妙に幼さがある。それにしても明石に似ていた。ふと斜めに相手を見上げるような仕草などは、昔の明石哲彦そのものである。  少年は芹沢の前で、ぎこちなく頭を下げた。背だけは、すでに百七十センチを超えているのだろうか、父親の明石と変わらないぐらいだ。 「長男の明石|翔武《しようむ》です。母はいま少し横になっていますので、失礼させていただきますが、どうぞなかへお入りください」  明石の息子だと名乗った少年は、顔立ちに似合わない大人びた声で言った。 「そうですか。お母さんにはご無理をされないようにとお伝えください。私は芹沢裕弥と言います。お父さんから、息子さんがおられることはお聞きしていましたが、こんなに大きくなられているとは知らなかった」  芹沢がそう言ったときだった、奥から何か物が倒れる大きな音がして、そのあと廊下を走って来る気配がした。と思うと、すぐに甲高い女の声があとに続く。何を言っているのかは聞き取れないが、ひどく早口で、ほとんどわめき声に近かった。 「帰って来たのね、あなた、あなたなんでしょう──」  ころげるような勢いで、喪服姿の女が玄関に飛び出してきた。よほど慌てたのだろう、着物のすそが割れて、足袋をはいた白い足が一瞬膝のあたりまで見えた気がした。結い上げた髪がほつれて、幾筋もの長い髪がうなじから肩に垂れ下がっている。首もとの襟合わせもはだけ、黒い帯締めの片方もほどけ落ちて、女が身体を捩じるたびに不自然に揺れていた。  その女が慶子だとわかるまでには、少し時間が必要だった。  血の気のない頬は、それでもまだふっくらとしていて、二重にたるんだ顎の線にも昔の慶子の面影はまったくない。だが、泣き腫らして充血した目と、冷たい印象を与えるほど整った鼻梁には、見覚えがあった。 「違うよ、お母さん。お父さんじゃないよ」  少年は女に向かってたしなめるように言った。言いながら、まるでその自分の言葉を、もう一度噛みしめるように繰り返した。 「お父さんじゃないよ。お父さんは、もう、帰って来ないんだよ」  懸命に感情を抑えようとする少年の声には、その分よけいに絶望的な響きがあった。慶子は、それでもまだ焦点の定まらない目で、しばらくのあいだ何かを探すように宙を見回した。  やがて、芹沢の顔に目を止めて、じっとそのまま見つめていたが、初めてわれに返ったように口を開いた。 「裕弥?」  聞き取れないほど、小さな声だった。だが、慶子が自分に向かってそう呼ぶのを聞いたとき、芹沢は自分の目の前に立っているのが、間違いなく慶子だと確信した。その声は、そして自分の名前を呼ぶときの抑揚は、昔とまったく変わっていない。 「裕弥。ねえ裕弥。あの人が、哲彦が、死んじゃったのよ──」  そう言ったまま、慶子はいきなり両手で顔を覆い、そのまま身体ごとぶつかるように芹沢の胸に飛び込んできた。周囲の人間の存在など、何も目には入っていないようだ。慶子のほつれた髪が芹沢の頬に触れる。慶子がここにいる、と裕弥は思った。自分の腕のなかで、なりふりかまわず|嗚咽《おえつ》をもらす慶子の肩に、芹沢はおそるおそる手を添えた。  ずっと昔、こうやって一度だけ慶子を抱いたことがある。もう二十二年も前になるだろうか。芹沢の腕に、そのときのことがはっきりとした触感となって甦ってくるような気がした。慶子から発せられる体温を感じながら、芹沢はいま慶子に何と声をかけるべきか、必死で言葉を探していた。  しっかりしろと言えばいいのだろうか。本当は、会いたかったよとも言いたい。だがこんな状況では、どんな言葉も空々しい気がした。ましてや、慶子の目の前から、突然何も言わずに姿を消した二十年前のことを、この場で言い訳するわけにもいかない。  慶子の様子はすっかり変わっていた。細くて|強靭《きようじん》なバネを思わせるようだった身体には、いまはどこもふっくらと柔らかそうな肉がついている。肥ったというより、歳相応な風貌になったと言うべきなのだろう。息子の存在を見るだけでも、慶子と芹沢を隔てていた時間の長さを、嫌でも見せつけられるように思えてくる。  もしもこの場に人がいなければ、しっかりと抱きしめて、せめて思う存分泣かせてやっただろう。芹沢はそんな自分の思いが、慶子の肩に置いた両手から密かに伝わってくれることを願った。 「びっくりしたよ。ニューヨークから帰る飛行機の中で知ったんだ。新聞を見て、すぐに駆けつけてきた」  言葉の途中で、慶子がキッと顔をあげた。化粧のはげ落ちた顔には、目の下にいくつもの細かな茶色のしみが見える。 「ニューヨークですって? あなたまでニューヨークなのね?」  まるで|敵《かたき》を見るような目だった。 「いや、出張していただけだ。実はあっちで哲彦と会ったんだ。つい四日前のことだよ。いや時差があるから、正確には五日前になる。偶然バーで会って、遅くまで一緒に飲んだ」 「五日前ですって? そのとき、あのひとは元気だったのね」 「え? ああ」  あまりに強い慶子の目に、たじろぎながら芹沢は告げた。まるで尋問を受ける罪人のような気分だった。 「どんなふうだった? 何を話したの? ねえ、何か言っていなかった、あの人」  慶子は、矢継ぎ早に質問を並べたて、血走った目で睨み付けるように詰め寄って来る。 「お願い。裕弥、教えて。あの人は最後にどんなことをしたの。あなたに何を言ったの。五日前までは、あなたが会ったときまでは、確かに哲彦は元気だったのよね」  涙というものは、声とはまったく別の感情の回路を通って出てくるものなのだろう。慶子の、語尾まではっきりと発音するような言い方とは別に、涙が新たにあふれて、慶子の頬をいく筋もころがり落ちた。 「哲彦は……元気、だったよ」  芹沢はかろうじてそれだけ言いながら、そう答えることが、ひどく残酷な仕打ちのように思えた。だがあのとき、自分のすぐ目の前で屈託なく笑っていた哲彦は、確かに元気そのものだった。 「あの人とは、もう何カ月もろくに話さえしていなかったの。自分からは、電話もしてくれなかったのよ、あの人。三カ月ほど前に、ちょっとだけ私のほうから銀行に電話をしたことがあったんだけど、そのときも、忙しいから別の日にしてくれとしか言わなかったわ。それだけなのよ。ねえ、本当にあの人、間違いなく元気だったのね?」  芹沢は、もう一度ゆっくりうなずくしかなかった。 「ねえ裕弥。本当に、あの人は死んだのよね?」  慶子はじっと芹沢の目を見据えた。静かな、それでいて聞いている者の心にまで迫ってくるような声だった。芹沢は今度は、うなずくことさえもできなかった。 「裕弥──」  慶子の声は、長く尾を引くように続き、やがてうめき声に変わった。そして、片手で芹沢の上着の襟をわしづかみにし、もう一方の手で何度も芹沢の胸を叩き続けた。 「ねえどうして、どうしてあの人は死んだのよ? なんでホテルから飛び降りたりなんかしなくちゃいけなかったの? 私になんにもいわないで、手紙一枚残しもしないで──」  芹沢は両手をだらりと下げたまま、叩かれるままにしていた。そして、慶子がいま叩いている胸の内ポケットに、あの朝哲彦から届けられたファックスが入っているのを思い出した。 「慶子、実はそのことで話したいことがあるんだ」  芹沢が、そう言って慶子の目を見た。 「何? 哲彦のこと、何か知ってるの?」  慶子は反射的に顔をあげた。化粧がとれ、やつれた顔のなかに、目だけが挑むような光を放っている。その目だけは、やはり昔のままだと芹沢は思った。 「いや、ただ、実はこれを──」  慶子の剣幕にたじろいで、あわてて芹沢は胸の内ポケットに手を入れた。明石からのファックスを取り出そうとしたとき、すぐ背後から慶子を呼ぶ声がした。黒いスーツの、さっき芹沢を玄関に出迎えた男だ。 「すみません奥様、ちょっと」  慶子はすぐに芹沢から離れ、乱れた髪に手をやって姿勢を正した。男はそこで声を落とし、慶子の耳元に顔を近づけた。 「いまニューヨークからお電話が入りまして、支店長からです。課長のご遺体の移送のことで、ちょっとお聞きしたいことがあるとのことです」  それだけ言うと、男はちらっと芹沢を見て目礼をした。 「お話し中に申し訳ありません。奥様にちょっとおいでいただきますので」  男は慶子に代わって、丁寧な言葉遣いでそう告げた。 「ごめんなさい、芹沢さん。私、電話に出てきますので、少しここでお待ちいただけます?」  とりつくろうような咳払いをして、慶子は芹沢に向かって言った。すでにさっきまでの慶子とは別人のように毅然としている。素早い指の動きで喪服の襟元を整え、髪のほつれを直すと、まるで完璧なまでに冷静な、喪服姿の未亡人の顔になる。芹沢は不思議なものを見るような目で、慶子を見つめ直した。 「あの、ご紹介しますわ。芹沢さん、こちらは明石がニューヨーク支店でお世話になっていた、康和銀行の|道田《みちた》さんですの。今回のことでは、すっかり何もかもやっていただいて助かっているんですよ」  慶子はそう言って男を芹沢に紹介した。そのあと慶子はことさら落ち着きはらった顔を道田に向けて、芹沢を明石の子供のころからの親友だと告げる。道田は、物慣れた仕草で上着のポケットから名刺入れを出し、一枚抜いて芹沢に差しだした。 「さきほどは大変失礼いたしました。私、ニューヨーク支店の道田|均《ひとし》と申します。明石課長には入社以来ずっとお世話になっておりました。ご挨拶はのちほどゆっくりと。いまニューヨークと電話がつながっておりますので、申し訳ございませんがちょっと失礼させていただきます」  そう言って道田は頭を下げる。その丁重な言葉遣いや、礼儀正しい仕草とは裏腹に、目だけがどこか頼りなく、落ち着かなく見えるのは、きっと彼の若さのせいだと芹沢は思った。突然の上司の死で、この男も動揺しているのだろう。こういう非常事態に直面し、なんとか慶子を支えようと、若いなりに無理をしているのに違いない。  職場での上下関係が、私生活まで深く関わってくるという、明石がいた邦銀の人間関係を垣間見たような気がして、芹沢はじっと道田を見た。そういう芹沢の視線を察知したのか、道田は急いで慶子の背中を押すようにして、一緒に奥の部屋に消えて行った。  芹沢はいったん胸ポケットから取り出した封筒を、もう一度もとに戻した。このファックスのことを慶子に話すのは、日を改めて、もっとゆっくり落ち着いてからにしたほうがいいだろう。  慶子が行ってしまったあとも、花輪や供物が引きも切らずに届いていた。芹沢はあらためて周囲を見まわしてみた。送り主は、康和銀行の頭取や役員達を筆頭に、銀行関係者や取引相手らしい企業が軒並み名前を連ねている。それにしても、明石が銀行の役員だったわけでもないのに、大層な扱いである。  たとえ明石にどれほど人望があったとしても、彼の突然の死が自殺であるということを考えれば、これほど盛大に葬儀を行なうのは不自然に思えなくもない。そしてそう思った次の瞬間、芹沢はあわてて自分を戒めた。  そんなふうに感じること自体が、これまでずっと自分のなかにはびこっていた明石や慶子に対する劣等意識と、敗北感ゆえのことではないかと思えたからだ。これだけの土地に一戸建ての家を構え、妻と子供に囲まれた何不自由ない暮らし。そして、これほど丁重な扱いを受けている仕事上の地位。そんな明石を、自分と無意識に較べてしまうことを芹沢は心から恥じていた。  明石の死の理由が何だったのか、いまの芹沢には想像もつかないが、まだ遺体も帰らないこの明石の家で、せめて穏やかに見送ってやりたいと思えてきた。銀行の人間が、これだけ集まっていることを、明石のために喜んでやるべきなのだろう。  芹沢は、勧められるままに廊下を進み、リビングに入った。広い庭に面した二十畳ほどの部屋には、壁に沿って革張りのソファが置かれている。リビングに続く和室のふすまが開け放たれているので、かなり広々とした空間に感じられた。  その和室には、急いで用意されたらしい祭壇があった。大きな白い花籠が二つ両わきに飾られているが、棺もなく、まだ葬儀用の遺影が間に合っていないのか、壇の上には小さなスナップ写真が置かれている。  芹沢は、祭壇に手だけ合わせて、とりあえず今夜は帰ろうと思った。ソファに座っている何人もの顔ぶれには、誰一人見覚えがない。学生時代の友人達には、まだ連絡がされていないのだろう。和室に入って祭壇まで進み、線香を手に取った。スナップ写真の明石は、ニューヨークで会ったときと同じ顔をして笑っていた。  ふと見ると、線香の箱の横に、いくつかの品物が並べられているのが目に止まった。明石が普段愛用していたものらしい。きっと、慶子や家族の誰かが明石のためにと供えたものなのだろう。使い込んで角がとれた黒い革の眼鏡ケース、黒い万年筆、そしてその隣りに、古びた英和辞典があった。  芹沢は急にこみあげてくるものを感じた。この辞書には、はっきりと記憶がある。高校生のころ、芹沢が使っていたこれと同じ辞書を見て、明石がどうしても同じものがほしいと言って買ってきたのだ。この古い辞書を見つけた途端、芹沢はそこにはっきりと明石の意志を感じるような気がした。  鮮やかな煉瓦色だった革表紙が、いまはすっかり色も褪せ、ぼろぼろに擦り切れ、破れた箇所に内側から何度も貼り直したセロハンテープまでもが、すでに茶色く変色している。  芹沢は思わず辞書を手に取った。真ん中あたりに、なにかが挟まれている。開いてみると、それは古びた写真のようだった。明石が|栞《しおり》がわりに使っていたのだろうか、何気なく表に返して、芹沢はあっと息をのんだ。まだ高校生の明石と芹沢が、学生服姿で肩を組んで笑っている。  こんなものを、明石はいまだに大切に残していたのか。芹沢がずっと昔に捨ててしまったものだ。この写真を撮ったころ、明石はいつも芹沢と一緒だった。学校が終わったあとも、何かといえば芹沢の行くところについて来て、どこまでも行動を共にしたがった。  その明石は、もうどこにもいない。芹沢はその事実を、いまはっきりと目の前に突きつけられる思いがした。  命を絶つほんの数時間前、明石は最後の助けを求めてきた。それなのに、自分はそれを深く考えもせず無視してしまった。もしかしたら、救えたかもしれないものを、いとも簡単に見捨ててしまったのだ。この写真を簡単に捨ててしまったように、明石の命の叫びも無視したのだ。取り返しのつかない思いが、芹沢を打ちのめしていた。  このどうしようもない憤りを、何にぶつけたらいいのかわからないまま、芹沢は明石の残した古びた辞書を震える両手で握りしめていた。 [#改ページ]  第二章 その女     1  女とすれちがったのはほんの数秒のことだった。  恵比寿ガーデン・プレイスにあるウェスティンホテル東京。その夜、芹沢裕弥は、野々宮証券の債券営業部長、斉藤|良治《りようじ》に夕食に招かれて、ホテルのロビーに足を踏み入れた。  二月十九日木曜日。早春の浅い夕暮れのなかを、思い出したように通り抜ける風に、かすかな梅の薫りを感じて、芹沢は立ち止まった。明石哲彦が死んだ日から、ちょうど三カ月がたとうとしている。  斉藤とは、これまでも仕事上の付きあいはあったのだが、こうやってあらためて接待に応じるのは初めてのことだ。たまに、仕事の帰りにちょっと一杯という感覚で、気軽に居酒屋に飲みに行き、その際の三回に二回ぐらいの割合で、勘定を持ってもらう程度だった。 「僕なんかに、わざわざ接待費使ってもしかたないですよ。大して営業成績の足しになんかならないんだから」  あらたまって夕食への招待を申し出た斉藤に、芹沢はすぐにこう答えた。 「そんなこと言わないでくださいよ」  今回の斉藤は引き下がらなかった。芹沢にしても別に皮肉を言っているわけではない。芹沢の担当は、ドル建てと円建ての資金繰りが主なもので、その延長として国債の売買に手を出している程度である。大口の取引を期待できる機関投資家と違って、斉藤のような大手証券会社のベテラン営業マンが、高級な寿司屋を予約して接待するほどの上客ではない。 「うちも、いろいろありましたからね。みなさんにもご迷惑をおかけしましたから、まあそのお詫びということも兼ねて──」  斉藤はひたすら低姿勢に誘ってくる。前の年に総会屋との癒着が明るみに出て、幹部経営陣が一新されたばかりなのに、今度は日本道路公団の起債の主幹事選定に関する汚職事件と続いたのだから、営業の最前線としては面目がないというのである。  かなり大幅な組織の編成替えが断行され、その際、顧客との関係の再構築と、不祥事後の信頼関係の回復を目標に、顧客への新たなアプローチを始めたようだ。おまけに、最近は外資系企業の攻勢が目立ち、営業担当者間の競争も激化してきたからだろう。芹沢がいつものように、大げさな接待は辞退したいと言うと、斉藤はことさら困惑した顔を見せた。 「お願いします。一度ぐらい私の顔を立ててくださいよ」  普段なら、証券会社やブローカーの接待からは極力逃げに廻っている芹沢だが、長年の付きあいになる斉藤の立場も理解できるだけに、そうむげにも断わりきれず、出かけて来た。  斉藤とホテルの一階のロビーで待ち合わせた芹沢は、そのまま並んで階段を上り、二階にある寿司屋に向かった。そして、長い通路に続く、入り口の白い麻の暖簾をくぐったところで、その女とすれ違ったのである。  女は、背の高い中年の白人男性と、なにやら楽しげに話しながら、こちらに向かって歩いて来た。少し遅れて、後ろからさらに二人の男がそれに続く。一人は五十歳なかばぐらいの日本人で、もう一人はやや小柄な同年代の白人だった。  狭い通路で女とすれ違う瞬間、空気の温度がそこだけ変化したような気がして、芹沢は思わず振り返った。  変わったのは温度ではなく、香りだと気がついたのはそのときだ。甘いだけではない。芯にしっかりとした主張を持つ、どこか東洋的な強さのある匂いだ。その香りは、女がつけている香水の匂いというよりも、あたかも女の身体そのものから発散される、強烈な存在感のように感じられて、なぜかひどく動揺した。  芹沢は|惹《ひ》き寄せられるように女を見た。  ほとんど白に近い、明るいベージュのタイトなスーツに、青みがかった濃いグレーの柔らかいシルクのブラウスが、喉から胸もとへかけての肌の白さを際立たせている。続いて芹沢の目についたのは、形のいいふくらはぎと、締まった足首だった。ベージュの、高いヒールのパンプスは、女の伸び伸びと育った健康的な体格を、ひときわ高く見せていた。肩からは小さめのショルダー・バッグ、左手にはかっちりとした上質の革のブリーフ・ケース。いかにもウォール街あたりを闊歩している、女性エグゼクティブの風格を感じさせる。  芹沢は反射的に女の横顔に目を移した。支払いを済ませている日本人を待っているらしく、少し離れたところで白人男性二人と並んで立っている。何が楽しいのか、笑った拍子に、片手を隣りの白人の肩にさりげなく添わせ、少し背伸びをして、長身の男の耳にそっと顔を近付けた。  肩の少し上のあたりで切り揃えた、艶やかでまっすぐな黒い髪は、茶色に染めた最近の若者の髪を見慣れた目には、新鮮に見える。歳は、三十代なかばはすでに超えているだろうか。外観だけならもう少し若く見えなくもないが、中から滲み出るような自信に満ちた仕草が、女を実際の歳より少し上に見せているのかもしれない。  くっきりとアイ・メイクされた大きめの眼と、存在感のあるまっすぐな鼻梁が、顔全体にいかにも利発な女といった雰囲気を作りだしている。背筋を伸ばし、胸を突き出すようにして、自分の存在を強烈に誇示するような歩き方だ。  無遠慮に見とれていた芹沢は、一瞬女と目が合った。女の眼には、おどろくほどの強い光があり、芹沢はわけもなくたじろいだ。女の眼から放たれる強烈な光のなかに捕らえられ、まるで身動きができなくなるような息苦しささえ感じられた。  女は、いったんその挑戦的な視線のなかに芹沢を晒したあと、すぐに目元を緩め、軽く会釈を返してきた。ほんの軽く微笑んだだけで、どんな男も釘付けにできるのをよく知っている眼だと、芹沢は思った。 「芹沢さんご存知なんですか? 彼女」  すぐ耳もとで、斉藤が囁いた。 「いえ。でも一緒にいたあの日本人はモーリス・トンプソンの東京支店長の|疋田《ひきた》さんですよね。その横にいたのは、たしかモーリスのニューヨーク本社の|最《C》高経|営《E》責任|者《O》じゃなかったかな。ずいぶん親しげでしたけれど、あの女性は何者なんですか?」  好奇心を隠しきれない自分の気持ちを、斉藤に見抜かれないように、さりげなく訊いた。 「例の凄腕女史ですよ。今週初め、ニューヨーク本社から赴任してきた、モーリス・トンプソン証券のトップ・セールスの女性です。なんでも、いまもっぱら注目を浴びているさまざまな|金融派生商品《デリバテイブ》を組み合わせた仕組み債券の営業セクションにいたとかで」  斉藤は声を落として耳打ちした。 「へえ、モーリス・トンプソンのストラクチュアード・デット・ディストリビューションの女性ですか?」 「確かそんなふうなセクション名でしたよ。私はどうも、英語はちょっとねえ」  斉藤はちょっと顔をしかめながら、続ける。 「なんでも異例の抜擢とかで、五年前にモーリス本社の役員に昇格したんだそうです。当時向こうではずいぶん話題になったらしいですよ。なんせそのときはまだ三十代だったっていうんですから凄いですよね」 「モーリスの本社ともなれば、社内の競争だって並みじゃないですよ。日本人で役員になるだけでも大したものなのに、三十代で、しかも女性の身でなったのですか?」  そのあたりの事情は斉藤よりも身近なだけに、芹沢は驚きを隠せなかった。 「債権の流動化っていうんですか。いま流行りの、貸出し債権の証券化関連のビジネスでも、会社にとんでもない収益をあげさせたそうです。われわれのような昔気質の営業には、なかなかついて行けない分野なんですが、とにかくそれで一躍役員ですよ。それに、ほらもう一人隣りにいるでしょう。あの背の高いほうの白人。彼が例の有名なジョン・ブライトンです。ブライトンはご存知ですよね?」  斉藤は目だけで、女の隣りの白人を示した。 「そりゃ知ってますよ。だけど、顔は知らなかったなあ。そうか、あれがブライトンか。ここ何年か、エコノミストとしては、全米で信頼度ナンバー・ワンだっていうんでしょう。米国連銀やワシントン筋への強力な陰のネット・ワークを持っているらしいですよね。エコノミストとして定期的にコメントを発表するだけでなくて、モーリスの特別の顧客に対しては、投資戦略にまで深く関わった市場予測を提供するそうです」 「自分でも、実際にいくらか資金運用をしているっていう話ですよ」  エコノミストとして相場予測を発表するだけでなく、自分でも実際に相場に参加する人間がいるのは、芹沢も聞いたことがあった。 「そうなんですか。だから彼のコメントはいつも実戦に強いと言われるんですね。雑誌や通信社に発表されたコメントで名前だけは知っていたけれど、こんな近くで直接顔を見られるとは思わなかったなあ」 「彼はアメリカを決して出たがらないことで有名でしたでしょう」  斉藤は同意を求めるように芹沢を見た。 「そうそう、そんな噂聞いたことありますよ。でも、ついに東京には来たわけですね。さすが全米トップのモーリス・トンプソン証券だけのことはある」  芹沢は、斉藤に向かってうなずき返し、ブライトンのほうに視線を戻した。 「世界中のどこから|招聘《しようへい》されても、絶対にニューヨークを離れたがらなかったミスター・ブライトンが、今回初めて来日したっていうのもニュースですけれど、彼女のことはそれ以上に噂になってますよ。どうやら、ブライトンが重い腰をあげて東京にまでやって来たのも、実は彼女の手柄だというもっぱらの評判です」 「へえ、彼女があのブライトンを連れて来たというのですか」  芹沢は、もう一度女のほうに目をやった。 「つまりは、そのぐらいの力があるということですかね。本社からわざわざ社長もついて来て、敵はいよいよ東京に役者を揃えてきたわけです。日本の金融界が、ガタガタしているうちに、いっきに攻め込んでくるつもりでしょう。この調子では、うちもかなり気合いを入れていかなきゃなあ。うかうかしてると日本のお客を全部取られてしまいますよ」  斉藤は冗談めかしてそう言ったが、声の調子とは裏腹にその表情は硬い。芹沢は彼の立場が思ったより深刻なのを実感した。斉藤は、さらに声をひそめて話を続けた。 「彼女はここ数年、モーリスのニューヨークでも、ずっと営業成績ではトップ争いをしていたそうですよ。世銀とか、|年金《ペンシヨン》ファンドや投資信託とか、ヘッジ・ファンドやなんかを担当して、われわれとは二桁も三桁も違う取引ボリュームをこなしていたって言いますから」  どこで調べたのか、斉藤は女が担当していたという顧客の名前を並べたてた。それらは、どれも世界中で一、二を争う大手機関投資家というだけでなく、巨額の資金を動かすことで、最近話題になっているところばかりだった。 「日本の金融法人はまったく相手にしていなかったってわけですか?」  大手企業を担当する日本人の女性セールスも最近は増えてきたが、たいてい日系企業を担当するか、円建ての商品を担当する場合が多い。 「日本勢はこのところずっと商いのボリュームが減っていますからね。しかもめっきり慎重になっていて、せっかく投資チャンスがあっても、昔のようにはなかなか飛びつかないですからね」  斉藤の言葉には、どうしても愚痴っぽさが混じる。 「ジャパン・プレミアムで、資金調達も難しい時代ですからね。まあしかたないですよ」  芹沢はなだめるようにそう言った。 「ほんと、バブルの時代よいまいずこ、です。モーリス側としても、彼女にはとびきりの大口客ばかり担当させていたようです。なんでも子供のころ、しばらくアメリカに住んでいたらしくて、言葉のハンディもないそうですから」 「ニューヨークには世界中の投資家が集まりますからね。その分競争も激しいわけだ。だけど彼女、日本に来て何やるんですかね?」 「そりゃあ当然ビッグバン狙いでしょう。なんといっても国民全体の個人金融資産が一千二百兆円もある国なんですから。しかも、そのうちの五十五パーセントにあたる六百六十兆円が、現金や預貯金として、ほとんど金利ゼロで眠っていると聞いては、誰だって攻め込みたくなりますよね。やっと日本でも彼女の出番が来たというんじゃないですか」 「かつての、大口企業相手のホール・セール・バンキング一辺倒から、個人取引重視に移行しつつあるのは、いまや世界的な流れですからね」  芹沢は去年の秋にニューヨークで受けた研修を思い出して言った。斉藤は大きくうなずいて、さらに芹沢の耳元に口を近付けた。 「モーリスの対日戦略の強化は本格化していますよ。山一証券の元社員を大量に採用して、新たに個人金融部門を中心にした新会社を作る話もあるそうです。彼女自ら東京に乗り込んできたのも、きっとそのあたりのところなんでしょう」  彼らの強力な日本進出計画を、業界全体で怖れているといった口ぶりだ。 「しかし、彼女はそんなに凄いんですかね。斉藤さんみたいな、いくつも修羅場をくぐってきた海千山千の営業マンにとっては、そう怖がることもないでしょう。見たところただの若い女じゃないですか」  斉藤があまりに深刻そうなので、元気づけるつもりでそう言った。斉藤は、とんでもないというように顔の前で手を振った。 「ああ見えて、四十二なんですよ」 「へえ、てっきり僕より年下かと思いました」 「しかもまだ独り者です。まあ、自分であれだけ稼げれば、結婚なんてばかばかしくてやってられないんでしょう。とにかくビジネス最優先のようですから、たぶん今後は日本の客に猛烈にアタックを開始するのでしょうな。そのうち芹沢さんのところにも、間違いなく現れますよ。私もうかうかしていられないなあ」  斉藤は探るような目で芹沢を見た。 「とんでもない、よく言うよ斉藤さん。僕みたいな小口の客ごときを、相手になんかするわけないですよ」  芹沢はもう一度女のいたほうに顔を向けたが、すでにその姿は暖簾の外に消えていた。  二人は案内されてカウンターに並んで腰をおろした。おしぼりを使い、最初のビールで喉をしめらせたあと、斉藤はまた話を続けた。 「でも、さっきの|辣腕《らつわん》女史、ちょっといい女でしたよね」  斉藤は、口もとに意味ありげな笑いをうかべている。 「そうかな。僕の趣味じゃないですけどね。なんだか高慢そうな女じゃないですか」  努めてさりげなく言ってはみたものの、芹沢は女の姿が目に焼きついているのを感じた。自分の魅力を十分に意識しているような、傲慢とさえ言える表情と、逆に、それをふと緩めたときの、柔らかい笑顔がよみがえってくる。  あんな女を一度自分の下にねじ伏せてみたらどうだろう。身体中から滲み出るような女の自尊心が、もし粉々に打ち砕かれるときがあるとしたら、そのとき女はどんな顔をするのだろうか。一瞬芹沢はそんな残酷な妄想に囚われた。どうしてそんなことを思ったのかわからない。そんなことを考えたこと自体が、不思議に思えた。  斉藤が芹沢の目をのぞきこむように見ている。芹沢は反射的に目をそらせた。不意に自分の中に起きた衝動を、斉藤に気づかれてしまったような気がしてならなかった。芹沢は意味もなく咳払いをした。 「すなみ、っていうんですよ彼女」  突然斉藤が言い出した女の名前を聞いて、芹沢は思わず声をあげた。 「え? すなみ?」 「州に波と書いて、すなみ。つまり陸と海という意味なんだそうですよ。ずいぶんグローバルというか、名前からして国際的だと思いませんか」  斉藤は、手に持っていたビール・グラスをいったんカウンターに置いて、空中に指で漢字を書きながら女の名前を説明した。 「すなみって、もしかして彼女、有吉州波という名前なんですか?」 「なんだ芹沢さん、彼女のこと、ご存知だったんじゃないですか。隅に置けないなあ、あっそうか、この前ニューヨークに出張されたとき会ったとか?」 「いや、そういうわけじゃないんですが、ちょっと別なことで名前だけは聞いたことがあったものですから」  明石から聞いたのだなどとは、言えるわけがない。 「ひょっとして、もしかしたら例の筋ですか?」  斉藤は思わせぶりに声をひそめた。芹沢の様子に、何かを感じ取ったようである。 「例の筋って?」  まだ何かあるのかと芹沢は思った。 「いや、違うのなら別にいいんですが──」  今度は斉藤のほうがとぼけようとする。 「嫌だなあ、水臭いですよ、斉藤さん、そこまで言っておいて。例の筋って何ですか。何か知っているなら教えてくださいよ」 「まいったなあ。本当にここだけの話にしておいてくださいよ。いや、ちょっとした噂を聞いたもので。州波女史、実はさるお方の忘れ形見だとか、どうとか──」 「どういうことなんですか、その忘れ形見というのは」 「いや、私も本当のことは知らないんですよ。ただ、なんだかすごい訳ありの娘だなんていう噂があるらしくて。だから日本では育てずに、乳母ごとアメリカに送って、英才教育をしたんだとかなんとか。まあ彼女の存在については、われわれもちょっと気になるところですからね。どんな話にも、まことしやかな尾ひれがついて、どんどん噂だけが先行してしまうというわけですよ」  斉藤は急に気のないそぶりになった。自分は浮わついた話を広めているわけではないのだと、牽制したい様子である。芹沢はもうこれ以上追及できないことを悟った。 「そうか、どちらにしても、あれが有吉州波なんですね。そうですか、モーリス証券でセールスをやっているんですか──」  もう一度確かめるようにそう言いながら、芹沢はひとつの記憶をたどっていた。  有吉州波という名前は、簡単に忘れるわけにはいかない。ニューヨークでの再会の日、明石の話のなかに出てきた女の名前だったからだ。あれはもう夜も更けて、酔いのまわった二人が、一緒にホテルに帰るときのタクシーの中だった。少し照れたような顔をして、だが嬉しそうに、明石は有吉州波の名前を芹沢に教えた。 「いまの俺を、ずっと支えてくれている人がいる」  確か、最初明石はそういう言い方をした。 「女か?」  芹沢が訊くと、明石は、はにかんだような笑顔を見せた。特別な人だと、明石は言葉を足した。芹沢はそんな明石の顔を見ていて、高校時代に戻ったようだと思った。 「大陸という意味合いの州と、大洋の意味の波の二文字で、すなみと読むんだ」  印象深い名前だったので、芹沢はずっと忘れなかった。明石にとっては、妻の慶子とは別の、特別な関係の女性なのだ。少なくとも芹沢はそう理解した。だがいまになってみれば、それも芹沢のひとりよがりな思い込みだったのかも知れない。州波が明石にとってどういう存在だったのか、いまとなっては、もう確かめるすべもなくなってしまった。 「嫌だなあ、芹沢さん。まったく隅に置けないんだから。彼女のこととっくに知っているくせに、いろいろ聞くんだから」  少し酔いのまわり始めた斉藤に肩を叩かれて、芹沢はわれに返った。あわてて顔の前で手を振って打ち消す。 「違いますよ。本当に名前を聞いただけで、ほかには特別に何も知らないんです」  芹沢は意図的に話題を変えた。 「それで、彼女はニューヨーク時代も、日本の客なんかはまったく担当していなかったのですかねえ? たとえばどこか都銀のニューヨーク支店のファンド・マネージャーとか、|金融派生商品《デリバテイブ》のトレーダーとか」  芹沢は、はっきりとは銀行名を出さずに斉藤にさぐりを入れようと思った。あれが明石の言っていた女と同一人物なら、少しでも多くのことが知りたいからだ。ニューヨークで州波が明石を担当していたことも考えられる。もしかしたら、二人のこともどこかで噂になっているかも知れないと思えた。 「詳しく確認したわけじゃないですけれどね、州波女史の担当は、|青目《あおめ》の客ばかりだと聞いていますよ。もし一件や二件ぐらい|黒目《くろめ》の投資家を持っていたにしても、よっぽどの大口じゃないと相手にしないでしょう。都銀のニューヨーク支店ぐらいじゃ、ボリュームから言っても彼女の獲物にはならないでしょうからね」  斉藤の答えも、もっともだった。 「そうですか」  芹沢は、州波のことについてもっと聞きたかった。明石から聞かされた当時は、ただの火遊びの相手か、単身赴任生活にありがちな、淋しさを紛らすだけの存在程度にしか考えなかった。  だが、彼女が明石の自殺になにか関係していることも考えられる。なぜこれまでそのことに気付かなかったのだろう。そう思うと、すっかり記憶から消えていた州波の存在が、急に別の意味を持ってきたように感じられた。 「とにかく、凄い女性らしいですからね。男顔負けの頭脳と分析力。そのうえ、女なのに度胸もあって、かなりしっかりした相場観も持っているらしい。いまさら言うまでもないですが、やっぱりニューヨークというのは、世界中で一番大きな市場ですからね。そんなところで、世界の大物投資家を手玉にとってビジネスをしていくには、それなりに本物の実力がないと無理でしょう。そのうえあれだけの美形ですからね。女の武器ってやつですか? まあ、普通の男ならあれだけの女性がそばにやって来たら、ちょっと落ち着かないでしょう」  斉藤は、カウンター越しに板前から渡される刺身の皿を受け取り、次々と芹沢の前に並べていった。その間もほとんど話を途切れさせることなく、しかもちょうどよいタイミングで芹沢の盃を冷酒で満たしていく。相手の気をそらさぬように、しかも適度にリラックスさせながら、斉藤は小気味よいテンポで話を進めていく。さすがは日系大手証券の熟練の営業マンである。 「それに関しても、これまたいろんな憶測が飛び交っていますけれどね」  斉藤は自分の盃にも少し口をつけてから、そう続けた。 「へえ。いろんな憶測ねえ。たとえばどんなですか?」  芹沢は、斉藤の口調に興味をそそられたようなふりをして、それとなく質問を重ねていく。 「いや、本当かどうかは知りませんよ。知りませんけど、もっぱらの噂では、なんでも政界の大物と特別の信頼関係というか、大層気に入られているらしいということです。ですからワシントン筋にも、永田町にもかなり有力な情報ネットワークがあるそうで、それもどうやら日本の陰の大物と、アメリカの表の大物の両方だそうで」 「なるほどね。女の武器というやつですね。つまりは、男と女の関係で、強力なネットワークを作っているってことか」  芹沢はありそうな話だと言わんばかりに、唇をゆがめた。明石のためにも、失望を隠せない。 「と、思いますでしょう。普通ならそうなるところですよね。ところが、まったくそういうことではないらしいんです」  斉藤は顔の前で、手をひらひらと振りながら続ける。 「そのあたりはすごく潔癖すぎるぐらいらしくて、なんせ育ちがいいですからね。たぶんいろいろと言い寄る男は多いでしょうが、とにかくやたら堅いらしいんです。それがまた彼女の魅力というか、評価を高くしているところで──」 「へえ、そうなんだ」  斉藤の意外なぐらいにきっぱりとした否定の仕方に、芹沢はかえって興味を覚えた。 「聞くところによると、マンハッタンのアッパー・イーストっていうんですか、高級住宅街にあるマンションと、コネチカットには二千坪ほどもあるウィーク・エンド・ハウスを持っているんだそうです。そこで彼女が開くパーティに招かれて来る客というのが、とにかくすごい面々で、アメリカの政・財・官の名士が顔を連ねるんだそうですよ」 「斉藤さん、ずいぶん詳しいですね」 「もっぱらの噂ですよ。もっとも、実際に行った人の話を聞いたというわけではありませんがね。彼女を通してその仲間入りをして、情報ソースやネットワークを開拓しようと思う人間は多くて、いろいろアプローチするらしいんですが、中途半端な人間では、なかなか仲間に入れてもらえないのだとか。最近は、日本女性も凄くなってきたもんですよ」  アルコールのせいか、斉藤の説明にも熱がこもってくる。 「どっちにしても、僕らとは無縁の世界の話ですね。それにしても、さっき言ってた彼女と親しい日本の政界の陰の大物って誰のことでしょうね? アメリカの表の大物というのも、どの大物のことなんだろう?」 「まあ芹沢さん、だからこういう話は、全部が本当かどうか私は知りませんって。ただの噂だけかも知れないんですから。だけど、そのせいでいろんな大手の投資家たちが、極秘の情報や特別のコネ欲しさに、さらに彼女に群がるという構図になっていることだけは確かなようですよ。同じように質の高い情報が得られるのなら、むさくるしい野郎からより、美形の女性からのほうがいいに決まってますからね。世の中にいる大手の投資家なんて、だいたい男に決まっているし、そういう意味では、彼女が女であることは確かに強力な武器ですよ」 「まあ、それは確かにそうかも知れないけれど。女の武器ねえ──」  そう言って芹沢は、グラスに半分ほど残っていたビールをいっきに飲み干した。もしかしたら明石哲彦という男も、彼女の持つ、その女の武器に捕まったということなのだろうか。そう思うと、さっきすれ違ったときに感じた、あの女の身体から匂い立つ香りが、芹沢の周囲に、まだかすかにまとわりついているような気がするのだった。     2  ウェスティンの玄関を出たところで、有吉州波はまだ少年のような顔をしたベル・キャプテンに向かって、タクシーを止めてくれるようにと頼んだ。  すぐにタクシーを誘導し、うやうやしいほどの仕草で後部座席のドアを開けてくれた、ベル・キャプテンに礼を言って、州波はジョン・ブライトンと一緒に乗り込んだ。  モーリス・トンプソン証券の東京支店から、今夜の四人をこのホテルまで運んできた黒塗りの二台の社用車は、すでにそれぞれニューヨーク本社の|最《C》高経|営《E》責任|者《O》と東京支店長を乗せて帰ってしまった。 「今夜の公式スケジュールは、ここまでですべて終了しましたわ。ミスター・ブライトン」  州波は、深々とシートにもたれてそう告げた。ここ数年のあいだ、アメリカの主要経済誌で発表する人気エコノミスト・ランキングで、トップの座を守り続けているジョン・ブライトンは、今回日本の投資家のためのセミナー開催にあたって、モーリス・トンプソン証券から特別に招聘され、初めて来日した。 「ありがとう。君がニューヨークから同行してくれたおかげで、初めての東京もよけいに楽しく思えるよ」  ブライトンは州波の目をのぞきこむようにして、微笑んだ。 「そう言っていただけると、私も嬉しいですわ。今回のセミナーの責任者を務めるために、うちの|社長《CEO》と一緒にニューヨークから同行させていただいたことが、私の東京での初仕事になったのですもの、とても光栄に思っています」  ブライトンにそう答えたあと、州波は運転手のほうに向いて日本語でこう告げた。 「横浜のインターコンチネンタル・ホテルまでお願いします」  この瞬間からは、完全なプライベートの時間になるのだ。これまでの州波の仕事上の顔は、ここからまったく別のものに変わる。州波はそれを強く意識した。だから州波は、会社がブライトンのために用意した、このホテルの彼の部屋に入るつもりもなかったし、これから向かう目的地への移動にも、会社の車を使うつもりはなかった。  東京から出ようと州波は思った。  二人きりになるとき、まず最初に必要なのは、相手のテリトリーから離れること。それは州波のいつもの鉄則だった。相手を完全に日常空間から逸脱させること。州波は今夜もセオリー通り進んでいることに満足だった。  横からブライトンの手が伸びてきた。手の甲まで金髪が生え、細かいしみの目立つ大きな手は、わずかに湿り気を帯びている。この瞬間を、長い間待ちかねていたようなブライトンの意図が、この雄弁な指の動きに託されているのを州波は感じた。  順調だ。州波は自分に向かってうなずいた。  ここに至る時間までもが、まさに計算通りである。州波はすべてが自分の思うままに進行していることを確認した。だが、もちろんそんなことはかけらも表情には出さない。ブライトンの目に映る自分の姿は、緊張と、恥じらいのために、落ち着かない様子でなければならなかった。初めて二人きりになり、はっきりとした目的と、それに向けての確かな決意を持って、いま次の場所へ移動しているのである。  ブライトンの手は大きいが、労働者のそれでは決してなく、細くて長いきれいな指をしていた。爪の先まで手入れが行き届いているのがわかる。几帳面で神経質そうなブライトンの指が、強固な意志を持って、州波の指を捕らえようとしている。  州波は当惑したような素振りを見せて、自分の手を胸元に戻し、用意していた恥じらいの目をブライトンに向けた。  ブライトンは無言のまま、これ以上望めないまでに笑みをたたえた顔で、じっと州波の顔を見つめ返す。遠慮のない目だった。社長達と四人で寿司屋にいたときまでは、かろうじて保っていた|怜悧《れいり》なエコノミストの目も、いまはもうすでにどこにもない。州波の眼をとらえていた彼の視線は、耳に移り、唇の一点にしばらくとどまっていたかと思うと、喉から胸元へと移動を始めた。  その濃密な視線を十分に意識しながら、州波も顎を引き、上目遣いにブライトンを見る。 「ミスター・ブライトン」  州波は声に、少しだけ、たしなめるような響きをこめた。 「ジョンと呼んでくれ」  ブライトンはすかさず言った。視線はずっと州波の口許にそそがれ、いままでとは声の調子が変わっている。 「オーケイ、ジョン」  ほとんど聞こえないほどの小さな声で、微笑みながらそう呼んだ。恥じらいの表情は、できるかぎり長く保っていなければならない。州波はそのことを意識して、ことさらためらいを見せたまま、ついに自分の指先にまで到達したブライトンの手の中に、自分の手を預けた。温かい手だった。州波はその感触を確かめながら、自分の心のずっと奥深いところでつぶやいた。 「さあ、ジョン。これが、私からのスタートの合図よ」  寿司屋ではあんなに饒舌だったブライトンが、いまは何も声を発しない。けれど州波には、ブライトンの心中が手に取るように見えていた。されるがままに、自分の指をブライトンの手にゆだね、州波は首をまわして窓の外を見た。  陽はすでに落ちている。  車の音だけが低く聞こえていた。その安定した連続音すらも、やがて闇に吸い込まれていくかのように、長い沈黙が車の外側からすっぽり二人を取り囲んでいる。車は混雑した首都高速を抜け、順調に海に向かって進んでいた。  横浜のベイ・エリアに入るあたりから、林立するビル街が見えてきた。みなとみらい地区に近づくと、新しい高層ビルの群れが、洗練された夜景を作り出している。その突端に、海に向かうヨットのスピンネーカーに似た白い建物が見えてきた。  すぐにタクシーが玄関に着き、二人は黙ったままで車を降りて、まっすぐにロビーに向かった。軽く州波の背中を押すようにしてエスコートしてきたブライトンが、州波をラウンジのソファで待たせて、ひとりでフロントに歩いて行く。チェック・インの手続きをするためだった。  ひとり残された州波は、ソファで待ちながら耐えていた。部屋の鍵を受け取りに行った男を待つあいだ、女はどんな顔をしていればいいのだろうか。州波には自分がさらしものにでもなったような屈辱感があった。できるものなら早く部屋に入ってしまいたい。かと言って、それを望んでいるわけでは決してなかった。  四十二歳の自分と、もう五十歳を直前にしたジョン・ブライトン。旅行中らしい荷物も持たず、横浜のシティ・ホテルにチェック・インする二人が、他人の目にどう映るかなどといまさら気になるわけではない。だからつとめてゆったりと足を組み、背筋を伸ばし、無理にもまっすぐ顔を上げて、目の前にひろがる海を睨み付けるようにして座っていた。  海に張り出した小さな建物が見える。濃い緑の屋根と純白の壁のその建物は、海の上で食事ができるレストランになっているらしい。すでにすっかり暮れた海の上を、明かりをつけた遊覧船がゆったりと出ていくのが見える。視界の右端で、ベイ・ブリッジがぼんやりと青いライトに染められていく。  すぐそばを人が通り抜けて行った。すぐに新婚のカップルだとわかる若い二人連れは、寄り添って、快活な笑い声をふりまいている。州波は思わず二人から目をそらせた。 「お願い、早くしてよジョン」  ブライトンが立っているフロントは、州波のソファからちょうど真正面にあった。カウンターの前に立ち、手続きをしているブライトンの後ろ姿が見える。前からだと気づかなかったのに、この位置から見ると、頭頂部がかなり薄くなっているのがわかる。  薄くなっているのはブライトンの頭髪なのに、州波はまるで自分自身の年齢をつきつけられているように感じた。待っている時間が、耐えがたいほど長い。一瞬州波は、このまま黙ってこの場を去り、ホテルを出て行ってしまいたい衝動にかられた。  だからよけいに顎を上げて、州波は毅然と顔をさらしたまま、ただ待ち続けていなければならないと思った。 「ソーリー、待たせたね」  やっと、ブライトンが大股でやって来た。これ以上できないというぐらいの笑みを浮かべている。州波もあわてて笑顔を作った。 「さあハニー、行こうか。海が一番よく見える部屋にしてもらったよ」  ブライトンが州波の肩に手をやって、もの慣れた仕草でエレベータまでエスコートする。  部屋は最上階に近いスイート・ルームだった。ドアを入ると、すぐに海に向いた広い窓が目に飛び込んでくる。海の景色そのものが、なによりのインテリアだというのだろう。  州波は引き寄せられるように窓際に立った。レースのカーテンを全部開け放つと、部屋の壁いっぱいに、夜の海が広がった。  海面が遠く下にある。さっきラウンジから見たレストランの屋根が、いまは小さく模型のように見えた。港の周遊から帰った遊覧船が、桟橋につながれたまま闇に浮いている。ブルーに染まったベイ・ブリッジも、さっきより少しだけ小さく見えた。  黒い海に見とれていると、背後からブライトンに抱きすくめられた。磨き上げられたガラス窓に、自分の姿が映っている。そのすぐ後ろにブライトンが重なっていた。  後ろから両腕をまわして、州波の肩を包みこむように抱いたブライトンは、そのまま顔を斜めに傾け、州波のうなじに唇を寄せた。 「ハニー、来てくれてありがとう」  聞き取れないほどの低い声で言って、ブライトンはゆっくりと州波の身体を回し、自分の方へ向きなおらせる。 「ミスター・ブライトンのほうこそ、私のために日本まで来てくれてありがとうございます」  州波はためらいがちに、ブライトンの胸のあたりに目をやった。 「頼むよ。ジョンと呼んでくれって言っただろう」  ブライトンはまるで、大層な頼みごとをするように言う。 「オーケイ、ジョン」  ブライトンは、小さな男の子のような目をして、州波を見ていた。やがて、近づいてきた唇が、州波を捕らえようとする。 「ねえ、ジョン」  そう呼んだ自分の声が、どこか違うところから聞こえているような気がした。自分はいつからこんな声を出せるようになったのだろうか。 「何だい?」  ブライトンは州波の唇から目をそらさずに、返事をする。 「私が、いつもこんなふうだとは思わないでね」 「もちろんだよ。君が決して男の誘いにのるような人じゃないことなど、よく知っている」  ブライトンは、目を細めるようにして州波を見る。 「私、きっとどうかしているんだわ。だから私、少し怖い」  州波は精一杯戸惑いをこめてブライトンを見つめ返す。怖いと思うのは、だが嘘ではなかった。ただ、それはブライトンをではなく、こういう言葉をためらわずに口にできる自分自身に対してだった。 「大丈夫だよ」  ブライトンは両腕にすっぽりと州波を包みこむ。その仕草は自信に満ちていた。自分が州波を支配しているという顔だ。それでいいのだ、と州波は思った。  回した腕を緩め、ブライトンは州波のジャケットのボタンに手をかけた。あわてているせいなのか、それとも意外に緊張しているからなのか、州波のジャケットを脱がせるのに手間取っている。州波は、まるで重大な決心をするような顔をして、ゆっくりと自分からジャケットを脱いだ。ジャケットの下は、シルクのノースリーブだ。青みがかった濃いグレーが、州波の剥き出しになった肩先や喉元の白さを際立たせている。 「スナミ──」  もう耐えきれないとばかりに、ブライトンは強く州波を引き寄せた。そして顔といわず、うなじといわず、性急な唇を押しつけてくる。州波は、ブライトンの唇を受けながら、小さく息を吐いた。もう、あとには戻れない。 「嬉しいよ、スナミ」  ブライトンの声は、すでに言葉にはなっていなかった。州波は目を閉じた。  そして、自分の背中の向こうに、黒の絵の具をそのまま溶かしたような、艶のあるとろりとした海の存在を感じていた。  ブライトンが腕に力をこめるたびに、州波は自分が今とまったく同じ言葉を使ったことを思い出した。ほんの先週末のことだ。ニューヨークを発つ前の夜、州波のために出張先のロンドンから自家用ジェットを飛ばして、ミッド・タウンのホテルまで来てくれたアブドラマ・ハニーフに言った言葉である。 「アビー、私が、いつもこんなふうだとは思わないでね──」  州波の胸の奥に、何かが刺さった。 「わかっているよ、ハニー。君が決して男の誘いにのるような人じゃないことは、僕が一番よく知っている」  あのときのハニーフも、いまのブライトンと同じことを言った。ハニーフの誘いに応じたとき、彼は鍛えぬかれた|贅肉《ぜいにく》のない身体を、イタリア製のソフト・スーツに包み、強い体臭を隠すために特別に調合したコロンを使っていた。  その手入れの行き届いた浅黒い腕のなかで、スパイシーな香りに包まれながら、州波はいまと同じように窓の外を見ていた。州波のために、予約をいれたミッド・タウンの高層ホテルのペント・ハウスで、やはり息苦しいほどに州波を抱きしめながら、ハニーフは何度も囁いた。 「スナミ、やっと君に会うことができて嬉しいよ。君は実際にこうして会ってみると、僕が電話で何度も声を聞いて、密かに想像していた以上に素敵な人だった」  ハニーフの声も、いまのブライトンと同じように語尾がかすれ、上ずっていた。 「いつも大量の注文を出してくれて感謝していますわ」 「いや、礼を言うのはこっちのほうさ。君が父の会社を担当していたころから、父もずいぶん儲けさせてもらったそうだからね。ずっと以前から、君のことは父から何度も聞かされている。めったに人を褒めない父が、君のことだけは別格扱いしているのも、実際に仕事をしてみてよく理解できたよ」 「お父さまには、ずいぶんお世話になりました」  州波は丁寧に礼を言った。 「これからは、うちもさらに積極的なビジネスを展開することになると思う。大掛かりな取引量になるものに関しては、僕もずっと君に任せようと思っている。君はこのあと東京に行ってしまうけれど、僕にできることがあったら、何でも言ってほしい」  州波の髪に手を触れながら、ハニーフはうっとりとした声でそう言った。そして州波は、その言葉を確かめるようにハニーフの目を見つめ、もう一度こう繰り返したのだ。 「ありがとう。でもアビー、私本当にどうかしてるわ。だってこんなこと、初めてなんですもの……」  そして、たぶん来週の週末も、州波は自分がもう一度この言葉を繰り返すのを知っていた。来週は、香港の李家からチャールズ・リーが州波に会いに東京にやって来る。州波は、あと何度、この同じ言葉を繰り返すことになるだろうかと、冷徹なまでに覚めた頭で考えていた。そのたびに、また一本、小さな刺のような何かが自分に刺さる。 「ああジョン、本当よ。あなただけなの」  州波は、そのかすかな痛みから注意をそらすかのように繰り返した。ブライトンに回した腕に、自分から力をこめる。刺でも矢でも、何本でも刺さればいい。それを望んだのはこの自分なのだから。  何かが、背後から自分を見ている。横浜の黒い夜の海か、あるいはもっと別の存在なのか、それが何かを知るすべはないが、自分の背中の向こうから、自分のしていることをすべて見ている存在がある。州波はその視線から逃れるように、ブライトンの胸に顔を埋めた。     3 「だけど、日本人ってどうもわからないなあ」  乱れたベッドを抜け出したあと、白いタオル地のバス・ローブを着たジョン・ブライトンは、冷えたシャンパンを二つのフルート・グラスに注ぎながら首を|傾《かし》げた。  少し前、州波がシャワーを使っている間に届いたルーム・サービスのワゴンには、オードブルの皿の隣りに、赤い薔薇の一輪挿しが添えられている。  皺になった白いシーツを胸元まで引きあげ、枕を立てて、上体を起こした州波の手に、ブライトンはシャンパンのグラスを届けてやる。 「なにがわからないの?」  州波は、グラスに軽く口をつけたあと、ためすような顔で訊いてきた。 「信じられないぐらい馬鹿なのか、鈍くて無知なのか、あるいは盲目的に柔順なのか。それとも、もしかしたらものすごくしたたかで賢いのかって思うんだ。でなければ、あんなふうにじっと黙って我慢していられるわけがないだろう」  |気怠《けだる》さのなかに浸りながらも、州波はブライトンが何について話しているのかが、すぐに理解できたようだ。初めて東京にやって来て、ここ数日かけて日本の機関投資家達のもとをまわり、いくつものセミナーや講演を重ねてきた異邦人にとって、いちばん原始的で素朴な実感なのだ。 「日本人が何に対して我慢しているっていうの?」  もう一度ワゴンのところに戻るブライトンの背中に、州波は訊いてきた。 「すべてに対してさ。あらゆることに対してだよ。政府に対しても、金融政策に対しても、|歪《ゆが》んだ金融システムのなかで、不当に処理されている多くの銀行の問題点に対しても、社会のとても重要なメカニズムが、実は闇の組織と密接に癒着していた事実を知らされたことに対しても、一般市民をまったく無視した、官僚だけのルールですべてが処理されている現実に対しても、あげればキリがないぐらいだよ。そんなあらゆることに対して、日本人はどうしてあんなに平静でいられるのか、私にはどうしても不思議でしょうがない」  グラスを持ったまま、オードブルをつまんで口に入れ、その指先を軽くなめながら、ブライトンはベッドに向かって歩いた。 「そうね。一万ドルを一年預けて、たった二十ドルほどしか利息がつかないと知っていながら、日本の国民は、ひたすらその不安定な銀行へ預けているんですものね。ただ我慢しているとしかいいようがないかもしれない。そんな状況下においてさえ、その預貯金の保有が六百六十兆円、個人の金融資産がトータルで千二百兆円もあるなんて、日本の外からみたら、本当に信じられないことだわ」 「しかもそうやって、国が、ただ同然の低い金利で銀行に国民から資金を吸い上げさせ、その資金を運用した空前の利ざや収益で、せっせと不良債権の穴埋めをさせているだろう。そんな国に対しても、国民は何も抗議をしないっていうんだからな」  ベッドに腰を下ろしたブライトンに、州波はふっと笑いを浮かべた。 「日本人を見ていると、私はいつも魚を思い出すの」 「魚? どういう意味だ?」  ブライトンは、思わず州波に向き直った。 「魚群っていうべきかしら。ほら、魚の群れって、みんな同じ方向を向いているでしょう。海の色が変わるぐらいに大群でも、まるで何かのルールがあるみたいに、みんな同じ方向を向いて泳いでいるじゃない」  まっすぐにブライトンの顔を見ながら、州波は続けた。 「一匹一匹は優秀なのよ。経済力がついたおかげで、小さな|鰯《いわし》の群れから、肥った|鰺《あじ》や|鯖《さば》ぐらいに大きな魚にはなったかもしれない。それでも行動形態はやっぱり同じ。ほら群れの外から、たとえばサメが来たとか船が来たとか、なにか刺激が与えられるとするでしょう。そんなとき群れは一瞬くずれそうになるけど、でもすぐにまたみんなで同じ方向を向いてしまう。イエスと言えば、みんなイエス。誰か権威のある人がノーと言えば、一人残らずノーなのね。本当は右を向くのが正しいのか、左を向くのが安全なのか、あの群れのなかの一匹ぐらい、自分自身で迷ったり悩んだりしている魚がいてもよさそうな気がするんだけど」 「おもしろい|譬《たと》えだね。しかし、君の言うように、日本人が何も考えずに同一方向を向いてしまうような、無知で愚かな人種なのかどうか、私にはわからないな」 「なんならジョン、試してみたら?」  州波は誘うような目をして言った。 「どうやって?」 「簡単よ。明日あなたがセミナーを開くのは、大日生命でしょう? 日本ではトップの会社ですもの、有価証券の運用担当セクションに関係する人間たちだけでも、きっと百人近くは集まるでしょうから」  州波が何を言っているのかが、すぐに理解できた。 「おいおい、君は彼らの前で僕に実験をしてみろと言うのか? たとえば、そうだな。これまで、繰り返してきた市場予測とまったく逆のシナリオで講演をしてみるとか?」 「そう。そして、みんなの反応を見てみるのよ。彼らが本当に相場のプロである孤独なライオンの集団か、それとも魚の群れにすぎなかったか」  州波は身をのり出してくる。このところ数日間、一緒にいくつもの講演会場をまわっていたから、ブライトンの市場予測は、完璧に記憶しているはずだ。アメリカ経済の現在の状況、短期と中長期にわたる今後の金利動向。為替市場の予測。アジア経済に関する関連的な予測。  それらのすべてに対して語られる現在のブライトンのコメントは、どの会場でも日本の投資家たちが、熱心に耳を傾ける内容だ。それらの論旨を、まったく逆転させて話してはどうかと、州波は言っているのである。 「それは、興味深い実験だね。僕としても、もういい加減何度も同じ話を繰り返すのには疲れたことだしね。このあたりでまったく逆のことを言って、みんなをアッと言わせてみたい心境だ。参加者はともかく、関係者がどんな反応を示すかも見てみたい」  ブライトンは、そう言うと、これまでの予測とはまったく正反対に意見を組み立てなおし、即興でコメントをまとめあげて話してみせた。まるで実際のセミナーで講演するときと変わらないように、説得力のある表現を使い、よどみない口調で続けたのだ。 「──こんなところでどうだい?」  州波は予想以上に顔を輝かせた。その賞賛に満ちた州波の眼が、こうやって自分に向けられている。ブライトンは、そのことを素直に喜んでいる自分をはっきりと感じた。 「すばらしいわ、ねえ、明日はそれでいきましょうよ」  すでにセミナー用として、分厚い資料が作成され、参加者に配布するため、あらかじめ千部近い枚数が印刷されている。世界中の市場関係者が熱い視線を寄せる人気エコノミストの初来日ということで、今回のセミナーはどの会場でも満杯の盛況だ。  それなのに、手元に配付された資料の内容とまったく正反対のコメントを講演し、世界経済はまったく逆の方向へ進むと予測したら、人々はどんな反応を示すだろう。 「こんなことをコメントしたら、会場は大騒ぎで、当然質問の嵐だろうな。どうして解釈を急に転換したのか。その理由に整合性があるのか、論旨に矛盾はないかとね」  ブライトンは愉快でたまらない気がした。 「そうかしら。案外どっちにころんでも、ジョン・ブライトンはかく語りき、ということでありがたがって、そのまま信じたり、受け入れたりされるのじゃないかと私は思うわ」  州波の言葉は意外だった。ブライトンを招聘し、今回のセミナー主催者として、顧客への直接的で絶大な効果を期待しているモーリス・トンプソン証券側だけは、ブライトンの気まぐれに目を剥くことだろう。だが、めったにニューヨークを離れないことで有名な自分のコメントを、一度でいいから直接聞いてみたいと集まった参加者たちは、ただ盲目的に話を聞いているだけのような気がしないでもない。州波はそのことを告げたかったのだ。 「たぶん、あなたが何を言って聴衆を翻弄しても、愚かなまでに柔順に、忍耐強く、そして感謝をこめて聞き入るのではないかと思うわよ。それが日本人なのよ。あるがままに受け入れ、なんの疑問も反論も持たずに、自分で判断することを最初から放棄してしまう。自分が、膨大な侮辱と忍耐を強要されていることにさえ、気づこうともしない。たぶんあなたはそれを自分の目ではっきりと確かめることになるでしょうね」 「君はなんていう人なんだ」  ブライトンは食い入るように州波を見つめた。この女には、いつも知らない間に挑発され、試される。どんなときも自分に向かって挑んでくるのだ。ブライトンは、サイド・テーブルにグラスを置いて、シーツの間にすべりこんだ。そして州波の髪に、ありったけの情熱をこめて指を埋めた。 「たとえ冗談にしろ、こんなことを僕に言った人はいままで誰もいなかったよ。不思議な人だ。仕事のことでも、ほかのことでも、話がたとえどんな話題に及んでもお互いを満足させられるまで深く議論ができるんだから」  ブライトンの指の間から、州波のまっすぐな髪がするするとほどけ落ちる。まるで州波そのもののように、艶やかで漆黒の髪。この女を組み伏せなければならない。自分の下に征服したい。頭の片隅で、囁きかける声があった。そうしなければ、おまえは間違いなく骨抜きになる。 「おお、ハニー。君は私よりずっと若いくせに、びっくりさせられるほど大人びていて、そうかと思えば小さな少女のように健気だったりもする。知れば知るほど、君に惹かれていく自分を、私は止めることができるのだろうか」  ブライトンはそう言ってじっと州波を見つめた。 「そうだ、もうひとつ忘れていた」  自分が有利になれることが一つあったのを、思い出した。 「なに?」  州波は短く訊き返す。 「びっくりするほど大胆だということだよ。特にベッドのなかでね」  ブライトンは愉快そうにそう言って、州波の胸を覆っていたシーツを剥ぎ取った。 「ねえ、君はいったい何を考えているの?」 「あなたのことよ」  州波がブライトンの乱れた髪に手を伸ばした。すでに薄くなった明るい色の頭髪は、柔らかく腰のない絹糸の束のように州波の指にからみつく。ブライトンはその手を取り、指先を口に含んだ。 「嘘だ。君はいま別のことを考えている」 「そんなことないわ」  ブライトンは笑みを浮かべた。 「|大蔵省《MOF》のミヤジマに会わせてほしいんだろう?」  このことはいまのブライトンには貴重な武器だった。 「ええ、お願い」  州波はすぐにうなずいた。州波はミヤジマになんとしても近づきたがっているのだ。ハーバードのビジネス・スクール時代の友人でもある、大蔵省銀行局審議官の宮島秀司は、ブライトンが一言声をかければ、決して断われないのを、この女はよく知っている。 「いいとも。君のためなら何だってしてあげるよ。だけど、ミヤジマに会って、どうするんだ?」 「特にどうするっていうわけではないのよ。ただ、私はこれから日本で仕事をするわけだから、大蔵省のキャリアの人と知りあいになっておくと、なにかと便利でしょう。日本の金融システムのなかで仕事をするには、これは不可欠なことなの。あなたからの紹介なら、きっといざというとき便宜を計ってくれて、仕事がしやすいと思うのね。だからあなたにお願いしたいの。ほかにこんなことお願いできる人なんていないのですもの」 「ミヤジマは切れ者だ。これからの|大蔵省《MOF》を動かしていくキー・パーソンになることは間違いない。彼は現在日本の銀行を掌握し、それぞれの銀行について、その将来のシナリオを書いている人間だからね」  彼に目をつけたあたりはさすがだと、ブライトンは思った。この女の嗅覚の鋭さには、いつも驚かされてきた。上目遣いに見上げる州波に、ブライトンは満足そうな顔を向けた。そしてすぐに、いたずらを思いついた子供の目になって、言葉を続けた。 「それにね、ミヤジマはハンサムな男だ。だから、私としてはよけいに心配だ。君を東京に残して、私はまたすぐに帰るのだからな」  冗談には聞こえなかっただろうか、とブライトンは思う。 「心配って、何が心配なの。私が彼に期待しているのは、純粋に仕事上の助けだけにきまっているでしょう」 「君はそのつもりでもね、ミヤジマのほうがどうかな。いくら|大蔵省《MOF》の人間でも、ミヤジマだって男だから、やっぱり紹介するのはやめておいたほうがいいかも知れない。私としてはちょっと考えてしまうな──」  ブライトンは思わせぶりな目で州波を見て、さらになにか言おうとする彼女の唇を、自分の唇でふさいだ。そして組み伏せるようにして上から見下ろし、女の細い両手首を、自らの手で押さえこんだ。その表情は、女のすべてが自分の意のままであることを誇示しているようだ。支配力に満ちた目は、しだいに別の色を宿していく。  女はしばらくそのままで男の唇を受けていたが、突然抱きあったまま身体を回転させ、何かを決意したように、男の上に重なった。  男は、女の予想外の行動に、驚いたように目を見開く。  今度は女が男を見下ろしていた。威厳に満ちた眼。唇には、勝ち誇ったような笑みがあった。やがて女はたくみに身体を動かし、男の上に馬乗りになる。優しく、しかし毅然とした動きで、男を手なずけ、そして焦らす。  女は、すでに激しく勢いづいた男を、みずからの手を添えて深く招き入れた。その瞬間、こらえきれないようにもらした女の小さな息と、さらさらと流れるような髪から匂いたつ、かすかな甘い香りとが、男をさらに煽り立てた。  男は、自分の両肩を押さえつけるようにして自由を奪い、白い喉元を見せて天を仰ぐ女の肢体を、はっきりと目に焼きつけたいと思った。そして、すべてを掌握され、ひたすら無抵抗にされていく自分自身を、見せつけられた女の若さとともに実感した。  次の瞬間、男は意を決して抵抗を試みる。女を受け止めたまま上体を起こし、その胸に吸い寄せられるように、唇を寄せる。  なんと柔らかいのだろう。男はそう思った。  窓からさしこむ月明かりに晒した女の肌は、|仄白《ほのじろ》く、まるで闇に溶けはじめたように柔らかかった。何度も何度も、その存在を確かめるように、男は女の乳房を求めた。そして、男がそれを口にふくむたびに、女はまた小さく声をあげる。  声は、男の顔に降りかかり、しだいに激しさをおびていく。  そのたびに、男を奥深く捕えた女の身体は、まとわりつくように、男をその中に包みこむ。まるで、男の存在そのものを封じ込め、決して逃がさないとでも言うように、男の中心を執拗に|搦《から》め捕る。男は自分がまったく無防備で、支配されるままになっていくのを知った。  こんな女は初めてだ。  男はそう思った。慎み深く、普段はどんなときも姿勢を崩さない女が、ひとたび明かりを消した途端、変身する。男は、熱いほどに昂揚した女のなかで、何度も抗い、すぐにも果てそうになり、そのたびに女を強く抱きしめた。  州波は、暗闇のなかで、ブライトンを見下ろしていた。  自分の身体が、正直に反応する。それは、驚きでもあった。はっきりとした意図と、限りない義務感をもって臨んだつもりの自分の身体が、進んで男の動きを受け入れている。州波は当惑していた。そんな自分の身体が疎ましくもあった。  触れられるたびに、嫌悪したはずの生暖かい男の手の動きを、いまは求めてさえいる。  これが自分なのか。そう思ったとき、州波は知らない間に、自分がどれだけ渇していたかを見せつけられる思いがした。  ともすれば引きずりこまれそうになる感覚に、州波は身を任せることを強く拒んだ。拒まなければならないと思った。これは謀りごとであり、確かな目的を持った戦いである。  ブライトンを支配すること。この男のなかに深く入り込むこと。それが州波の使命であり、そのことに集中しなければならないと言い聞かせた。身体の奥深く衝き上げてくる感覚に、消されてしまいそうな自制心のなかで、州波は声にならない言葉で必死に叫んでいた。 「そうよブライトン、もっと私を欲しがって。もっともっと私にのめりこむのよ。求めてきたのは、あなたのほうだということを、忘れないために──」     4  インターコンチネンタル・ホテルを出るとき、有吉州波はジョン・ブライトンとは別行動をとることにした。  自分で掻き立てたはずの激しさのなかに、相手ばかりか、みずからも流されてしまったような一夜が明けた。眠りとは言えないような浅い闇のなかから、州波が目醒めたのはまだ朝の四時半だった。それでも一時間あまりは眠ったのだろう。  州波はブライトンの腕から離れ、静かにベッドをすり抜けた。もう一度シャワーを使い、手早く身仕度を整えると、まだベッドにいるブライトンのところに近づいた。目だけは開けていたが、起きるつもりのなさそうなブライトンに軽く頬を寄せて、先に部屋を出ることを告げる。  このまま直接仕事に出るわけにはいかない。広尾の自分の部屋に戻って着替えを済ませ、朝のミーティングに間に合うように出勤しなければならなかった。 「君は完璧だな。もうすっかり隙のないもとのスナミに戻っている。不思議な女性だよ」  ブライトンは州波を見て、目を細めた。 「そうやって完全に外の顔に戻った君が、またベッドに引きずり込まれるとどんなふうに変わるか、それを知っているこの世でただ一人の男の特権を、もう一度行使させてもらいたくなる」  ブライトンはそう言うと、州波をスーツの上から強く抱き寄せた。 「だめよ、ジョン。もう行かなきゃ遅れるわ。あなたはまだもう少しゆっくりしていてもいいのよ、会社にはうまく言っておくから。でも、今日のセミナーは午後二時からですからね。三十分前までには間違いなくオフィスに来てよ」  微笑みを絶やさず、口調はあくまで優しいが、しかし大事なことを命令するのだけは忘れないとでもいう州波の態度が、あまりに完璧すぎてブライトンは苦笑した。 「オーケイ。二人だけのときは君が私のボスだ。わかりましたよ。遅れないようにするから」  そういって笑いながら、もう一度名残り惜しそうに州波を抱きしめてから、ブライトンは腕を緩めた。 「じゃあ、あとで」  州波はそっとホテルの部屋を出た。二月の夜明けはまだ遅く、敷き詰められたカーペットの廊下を歩く、州波のかすかな足音以外は、まだすっかり寝静まっている。エレベータの前まで来ると、壁の窓から空が見えた。空はびっしりと濃い雲で覆われ、朝日が顔をのぞかせる隙間すらない。  身体中に昨夜の余韻が残っている。ブライトンが残した感触だった。下腹部にほんのわずかな引き攣れを感じた。よほど注意しないと気づかないその感覚に、州波は意識を集中した。雨になる。そう思った。いつものことだ。そして誰もいないことを確かめてから、州波は小さくあくびをした。気怠さが全身に立ち昇ってくる。できればタクシーのなかで、少しは眠れるといいのだが。  驚くほどの大きな音がして、エレベータが州波のいる階に止まった。すぐに乗り込み、フロントの階まで降りると、ロビーは閑散としていた。ラウンジの奥の大きな窓から、空と同じ色をした暗鬱な海が見えた。  フロントには二人のホテル・マンが立っていた。なにか忙しそうに手を動かしているのが見える。だが、広いフロアに、あとは誰もいない。ラウンジの照明も消えたままで、まだここには朝が来ていないのだと州波は思った。  階段を降り、まっすぐ玄関まで歩くと、ベル・キャプテンの小さなカウンターの前で、一台だけタクシーが待っていた。助かった、と州波は思った。すぐに乗り込むと、運転手が妙な訳知り顔で微笑みかけてくる。州波は広尾のマンションの住所を告げ、シートに沈み込むようにもたれこんだ。  やっと解放されたと思うと、身体中からあふれるように疲れが沁み出してくる。頭頂部から首筋にかけて、鈍い痛みが走った。両肩が押さえつけられるように重い。考えてみれば、この一週間、あまりに多くのことが重なりすぎた。州波は大きく息を吐き、目を閉じた。  不意に、一人の男の顔が浮かんできた。誰だったろうか。州波はしばらく記憶の糸口を探しあぐねた。その男が、昨夜ブライトンとまだ恵比寿のホテルにいたとき、寿司屋のところですれ違った男だと思いあたるまでに、思いのほか時間がかかった。  そうだった。あの男の顔には、一目見たときからどこか見覚えがあった。どこで会ったのだろうか。それがどうしても思い出せない。向こうもこちらを知っている様子ではなかった。だが、目が合ったとき、ひどく懐かしい気がしたのはなぜなのだろう。  もう一度、|反芻《はんすう》するように記憶のなかの男の様子を再現してみる。痩せた男だった。髪は短く、年齢は四十歳の少し手前といったところだ。細くて黒いメタル・フレームの眼鏡をしていた。黒に近い濃紺に、極細のピンストライプのダブルのスーツは、細い身体によく似あっていた。  金融関係の人間だろうか、だから以前どこかで会った記憶があるのかもしれない。だが、もし仕事関係の人間なら、州波が忘れるはずはない。一度でも会ったことのある人間なら、その名前と会社や所属部署まで、必ず記憶に焼き付けるようにしてきたはずだ。そんなことは、営業を専門とする自分にとっては当然のことだと信じてきた。  おそらく、これまであの男と会ったことはないのだろう。だが、確かにどこかで見た顔だった。州波は少しばかり苛立ちを覚えた。男が誰なのか思い出せないことよりも、なぜあんなに懐かしさを感じたのか、そのことのほうが気にかかった。  だが、いまはそんなことに時間を使うより、少しでも眠ったほうがよい。そう思った州波は、バック・ミラーの中から何度も自分に視線を送ってくる運転手に向かって、口を開いた。 「すみません、天現寺の交差点あたりまで着いたら起こしていただけますか。少し眠りたいので」 「あ、どうぞどうぞ、近くまで行ったらお声をかけますから」  運転手からは愛想のよい返事が返ってきた。朝帰りの事情はよくわかっているとでも言わんばかりの口ぶりだ。州波は、気にせず深く足を組みなおし、規則的な車の振動に身をまかせて眠ることにした。もう一度目を閉じると、身体中に疲れが重く居座っているのがわかる。この疲れを少しでもなだめておかないと、また今日も一日息を抜く暇などないのだ。  眠らなければと思えば思うほど、目が|冴《さ》えてくる。頭のなかで、いくつもの思いが次々と渦を巻き始めた。  ここ数日間は、あまりにも慌ただしかった。なにもかもが最初の予想をはるかに超え、加速度的に進行した。すべては州波が望んだことである。忙しさのなかに自分を埋めることができれば、何も考えなくて済むと思ったからだった。何も考えずに、目の前のことに流されている間だけは、少なくともつかのま、すべてを忘れられる。  ニューヨークを発ったのはつい先週末のことだ。身のまわりの始末も、留守中の住居のことも、中途半端のまま業者に任せっきりにして、赴任の決定がおりるとすぐに、東京に来ることになった。しかもその際には、ニューヨーク本社の|最《C》高経|営《E》責任|者《O》やほかに役員二人だけでなく、ブライトンまでもが同行するという。こういう出張には慣れてはいたが、気疲れだけは何度経験しても軽くならない。  明石哲彦が死んで、そのことを受け入れるのに長い時間がかかったけれど、明石のために日本に来ることを決めてからは、州波の行動は早かった。明石が死んだのが十一月十九日だったから、もう三カ月がたったことになる。  明石があんなかたちで死ななかったら、州波が日本に戻ることなど、おそらく二度となかっただろう。それを思うと、いまでも皮肉な思いがしてならなかった。  ボスに直接東京支店への転勤希望を出したとき、驚いた顔をされたけれど、会社自体の日本市場への進出計画も予定されていて、希望はすぐに聞き入れられた。ビッグバンを念頭に入れた日本への積極的なアプローチは、すでに本社の方針として始まっていたからだ。  もとより本社から適任者を東京支社に送る計画があったので、州波の出した希望はちょうどタイミングがよかったというわけだ。  まさか、こんなふうに東京に帰ってくることになろうとは思わなかった。  成田空港に降り立ったとき、州波は長い間自分の奥深いところで、ずっと静まっていた古い痛みが、不意に甦ってくるのを実感した。痛みは完治していたわけではなかった。意図的に目を背けていた間に、すっかり治癒していると思っていたのは錯覚で、実は不自然なまま眠らされていただけなのだ。  通関を終え、空港ロビーの人込みのなかで、州波はこみあげてくるものをこらえるだけで精一杯だった。決して帰るまいと決めた日本に、州波は自分から戻ってきたのだ。みずからの手で、麻酔を打ち切り、痛みと向きあう道を選んだのだ。 「これしかなかったのよ。これしか」  州波は、自分の心のなかを覗くように繰り返した。  明石の死から、なんとしても立ち直らなければならなかった。自分は、どうあっても生きていかなければならないのだ。明石を死なせてしまったこと。それを、州波はこれから一生悔やみ続けることになるに違いない。その呪縛から自分自身を解き放つには、これよりほかに方法がなかったのだ。  昨夜のジョン・ブライトンとの一夜のことが浮かんでくる。その前のアブドラマ・ハニーフとのことも、|米国《フ》|連邦《エ》|準備《ツ》|銀行《ド》や上院議員の男達のことも、すべては計画どおりに実行したことだ。そしてこれから州波が始めようとしていることも、すべては州波がたった一人で選び、自分で下した決断なのだ。 「そうよ州波、あなたは正しい選択をしたのよ」  州波は、自分に向かって、もう一度言ってやりたかった。 「あなたができることは、これしかほかになかったのよ」  明石哲彦の笑った顔が浮かんでくる。目の奥がじんと痺れた。州波は車の振動に身をまかせながら、目を閉じたまま涙をこらえた。東京に戻りたいと、いつか明石が言った言葉が聞こえてくるような気がした。州波はずっと目を閉じていた。目を開けると、明石の顔が消えてしまいそうに思えたからだ。  車が左に大きく揺れて、州波の身体がドアに押しつけられた。その瞬間、突然別の顔が浮かんできて、明石の顔に重なった。  あの男だ。  思わず州波は声をあげ、目を開けた。バック・ミラーの中からこちらを見ている運転手と目が合った。運転手はあわてて目をそらし、前方に向き直った。  もしかしたら、あの男だったのだろうか。  明石が言っていたあの男だ。名前は何度も聞いたはずなのに、いまはもう思い出せない。  いつだったか古ぼけた辞書の間から、明石が大事そうに取り出して、何度か見せてくれた写真の男だった。角がとれて、すでに変色してしまった一枚の写真には、黒い詰め襟の学生服を着て、肩を組んで立つ二人の少年が写っていた。一人は高校二年生の明石哲彦で、その隣りに、もう一人の少年がはにかんで立っていた。  たった一人の親友だったと、明石は懐かしそうな目をして言った。恵比寿のホテルで見かけたあの男は、あの少年にどこか似ていた。  写真の中で笑っていた明石少年は、その後すっかり容貌が変わり、州波の知っている明石に、写真の少年の面影はすでにない。だがそれとは正反対に、恵比寿で会ったあの男は、まったくと言っていいほど写真のままのように思えた。顔全体が少し細長くなり、髪形も眼鏡をかけたところも違っているはずなのに、なぜかあの写真のなかの男に間違いないと、州波は確信めいたものを持った。  だから一目見ただけで、あんなに懐かしい思いがしたのだろうか。明石が何度も語ってきかせた、昔の親友だという男に、こんなに早く、しかもまったく思いがけないかたちで会ってしまったのだろうか。州波には、まるで明石が親友に姿を変えて、自分に会いに来てくれたのではないかとさえ思えてくる。  そうであったらどれほどいいだろう。もし本当にそうなら、彼ならわかってくれるだろうか。ふとそんな考えが州波の頭をかすめた。  だが、おそらくもう二度とあの男に会うことなどあるまい。それは、州波がもう二度と明石の顔を見ることがないのと同じぐらい確かなことに思えた。いや、仮にもし偶然会えたとしても、あの男が本当に明石の言っていた親友だという確証すら何もない。  州波はいまさらながら、自分が独りで東京にいることを感じた。  もとより、誰の力も借りるつもりはなかった。けれど州波には、自分がたった一人で下したはずの決断が、とてつもなく無謀なものに感じられてくるのだった。     5  芹沢裕弥が二度目にその女の噂を聞いたのは、恵比寿のホテルで初めて女を見かけた日から、ちょうど一週間後のことだった。  同僚の児玉実が、一年間の任期を終えて、ニューヨーク支店から東京へ帰ってきたのを歓迎するため、久しぶりに二人で飲んだときのことである。  ファースト・アメリカ銀行では、芹沢が地味な資金繰りや短期金利市場のディーリングを担当しているのに較べて、児玉は、債券市場や|金融派生商品《デリバテイブ》などという、派手な値動きを追うディーリングを担当している。だから、今回の児玉の赴任は、研修を兼ねて、ニューヨークという巨大な市場の空気に、生で触れて腕を磨くためのものだった。  芹沢は児玉を小さいカウンターの小料理屋に誘った。各地の地酒と田舎料理を中心とした和食が、児玉の好物なのは知っていた。 「一年いないと、東京支店もずいぶん顔ぶれが変わっているから、浦島太郎の心境だよ」  気取らない店でくつろぎながら、児玉は久し振りに日本語で話す同僚との会話を、心から楽しんでいるように見えた。 「児玉がいないあいだ、何人もの新顔が増えたからな」 「そう言えば、今日の昼、食堂でボブからおまえのことをいろいろ訊かれたよ」  芹沢の新しい上司として、ボブがニューヨークから赴任してきたのは、三カ月前のことである。 「何か言っていたか?」 「芹沢は優秀な男だと言っていた。おまえ、自分が提出する年間の業務計画を、毎回みごとに九十パーセント以上は達成しているんだってな」  芹沢が何も答えずにビールを飲み干しているのを見て、児玉はかまわずに先を続けた。 「たいていの人間が、三回に一回は失敗するのに、毎回一度もかかさずクリアするのはすごいことだと僕が言ったら、ボブは不満そうな顔をしていた。で、どうしてなのかと理由を訊いたんだ」  芹沢はグラスを置き、黙って児玉のほうを見た。 「前任者がボブに言っていたそうだ。芹沢は七十パーセントの男だって」 「七十パーセントの男?」 「ああ、自分の力を七十パーセントしか出したがらない男なんだって。つまりは、おまえの立てる目標値自体が、毎回低すぎるのだと言いたいらしいよ。どんなときも、絶対的な安全圏内でしか戦おうとしないというんだな」  芹沢は軽く笑い声をあげた。 「だから僕は、こう言ってやったんだ。そうは言うけど、自分の目標を能力の五割増しにも十割増しにも提出して、さもよくできる人間のようにアピールし、高い報酬を得ておきながら、失敗するとなんのかんのと理由をつけて、できなかったことを正当化する人間より、よっぽどましではないですかとね。実際うちの銀行には、そういうやつばかり揃っているじゃないか」  児玉はめずらしく憤慨している。 「それで、ボブは何だって?」 「その通りだと言ったよ。だけど、ボブはこう訊いたさ。それで芹沢はハッピーなのかってね」  芹沢は、児玉の言いたいことがわかっていた。 「で、児玉は何て答えたんだ?」 「それは僕に訊く質問ではないでしょうと言っておいたよ」  児玉は笑いながら言った。その顔を見ながら、いい男だと芹沢は思う。 「七十パーセントの男か」  芹沢は自嘲をこめてつぶやいた。たしかにその通りかもしれない。骨惜しみでもなんでもない。ただ臆病なだけなのだ。それは自分でもよくわかっている。 「おまえな、笑っている場合じゃないぞ。僕もいつか言おうと思ってたんだ。芹沢はもっと自分を売り込まなきゃだめだ。僕らが働いているのは米銀なんだから、どうしてもっと自己アピールをしないんだよ」  酒がすすむにつれて、児玉は声が大きくなった。 「おまえには実力があるんだ。それは僕がよく知ってる。なのに、おまえみたいにおとなしくしていたら、損するばかりじゃないか」  自分を売り込むことにやっきになっている人間が多すぎると、ほかの仲間を批判していたばかりなのに、児玉は芹沢に対してだけは逆のことを言う。 「いいんだよ、俺は」  芹沢は気のない声で言った。 「どうしてなんだよ。おまえはアメリカの大学を出てるんだろう。だったら僕よりもっとアメリカナイズされていてもいいはずなのに。どこか違うんだよな。人を押しのけて前へ出ようなんていう気持ちが、さらさらない。なんでそんなに遠慮ばかりするんだ」 「だめなんだよ。俺みたいなのは」 「信じられないね。あれだけ成績あげてて、そんなこと言うかよ。僕らが働いているのは邦銀じゃないんだよ。謙遜なんていう言葉は死語なんだから。いくら頑張っていても、自分からこんなにできますとアピールしないかぎり、無能みたいに見なされてしまう。おまえの金利の読みや、|資金繰り《フアンデイング》の腕はピカイチだと僕は思うね。ずいぶん利ざやがとれているんだってな。ボブも言っていたよ」 「そうでもないさ。いまはたまたまうまく行っているだけで、そんなの長く続くはずはないよ」 「おまえなあ、やめろよそんな言い方。コツコツと着実に成績をあげてるくせに、いつもどこか否定的で、自分からわざと目立たないようにしているみたいだ」 「そうかな」  芹沢は苦笑しながら児玉のグラスにビールを注いだ。 「そうさ、いまどき女だってもっと自分の売り込みをするよ。いや、最近は女のほうがずっと凄いかもしれん。そうだ、凄い女と言えば、ニューヨークで本当に凄い日本人の話を聞いたよ」  児玉が言うのを聞いて、芹沢は思わず身を乗り出した。もしかしたら有吉州波のことではないかとすぐに思った。自分のことより、そのほうがずっと訊きたかったのだ。  野々宮証券の斉藤から噂を聞いて以来、州波のことが頭を離れなくなっていた。彼女のことをもっと知りたいと思いはしたが、その後斉藤に会う機会はない。たとえ会ったとしても、州波のことを訊ねる口実も思いつかない気がした。 「ともかく凄い女性なんだそうだ。ニューヨークで働いている日本人の女って、なんだか独特の雰囲気あるだろう。ちょっと生意気というか、自信たっぷりっていう感じでさ。だけど、彼女だけは別格なんだって。僕は直接彼女と会ったことも話したこともないんだけど、もっぱら同業者の話題を独占しているって感じだったな」  児玉の顔を見ながら、それは有吉州波のことではないかと詰め寄りたい気はしたが、明石のことを考えると、自分からは言い出せなかった。 「有吉さんっていうのだけど、いま日本に来ているらしい。芹沢おまえ知ってる?」 「ああ、名前だけは聞いたことがあるよ」  芹沢は、|逸《はや》る気持ちを隠してそう答えた。ニューヨークにいた児玉になら、州波のことが聞けるかもしれないという期待があったからこそ、今夜は児玉を誘ったのだなどと言うわけにはいかない。芹沢は、さして興味のない顔を装って、児玉に話の続きを促した。 「モーリスのニューヨーク本社でさ、どでかいサイズの客ばかり相手にして、仕組み案件のセールスをやっている女性らしいんだけれど、彼女が追っかけている客をみれば、次の相場のスター・プレーヤーが誰だかわかるって言われているぐらいでね。超大物投資家以外には目もくれない。そのへんが実にはっきりしているんだ」  児玉は、まるで自分の知りあいを自慢でもするように言った。 「へえ」  芹沢は冷ややかに答えた。 「大物の客ほど、狙っている同業者のライバルも多いだろうから大変だと思うよ。実は知りあいの男から聞いた話なんだけど、何年も前、ある日系大手の生保のファンド・マネージャーが、彼女のところに行ったんだそうだ。ちょうど探している銘柄があって、結構大きな金額だから、彼女とぜひ取引をしたいと思ったそうなんだな。まだ彼女はいまほど有名ではなくて、ほんの駆け出しの営業だったので、そのファンド・マネージャーも簡単に考えていたんだそうだ。つまり、彼女が日本人の若い娘だから、日本語も通じるし、無理が言いやすいと思ったのだろうな」  児玉は、身体ごと芹沢のほうに向きを変えて話を続けた。 「ところが彼女どうしたと思う?」 「そりゃあ、営業の人間としては、客のほうから来てくれて、しかも取引の金額が大きいとなれば、当然喜んでやるんじゃないの?」  当たり前のことだと芹沢は思った。米系の証券会社では、客と約定した取引の総額に、一定の乗率をかけたものが、コミッションとして営業担当者の収入の基本になるセールス・クレジットのシステムを採用しているところが多い。自分が成立させた取引の金額が、そのまま自分の成績であり、収入の基盤となるわけだ。だから、新人の営業だった州波が、どんなに喜んでその客に対応したか、芹沢にも想像できるような気がした。 「と、思うよな。ビジネスが成立したほうが、絶対いいものな。ましてや若い日本人女性が、慣れないアメリカ人の腕利きセールスのなかで孤軍奮闘していたはずだから。客のほうからわざわざ出向いてくれて、自分は何もしないで成績があげられるとなると、棚からボタ餅っていうところだろう。こんないい話はめったにないと、誰だって喜ぶはずだよな?」  児玉は、何度もくどいぐらい繰り返した。 「違うのか?」 「なんと、そのとき彼女は、十歳以上も年上のベテランを相手にノーと返事をしたのだそうだ。どうあっても、売りたくないと言ったんだよ」 「どうして?」 「どうしてだと客も訊いたさ。そしたら彼女、わからないんですか、としか言わなかったらしい」 「何だそれ。彼女はみすみす自分でチャンスを捨てたってことか。で、客はどうした?」  芹沢は、無関心を装うのも忘れて、児玉の話に思わず引き込まれていく。 「もちろんずいぶん怒ったらしいよ。『失礼だ。日本人同士だと思うからこそ来てやったのだ。小娘のくせに何を偉そうに言うか。われわれをばかにしている。けしからん』とね。若いんだからもっと謙虚になれとか、おまえなんかと取引しなくても、証券会社はいくらでも他にあるんだとか。ついには、だから女はつきあいきれないとかなんとか、もう二度と来てやらないって、彼女に向かってそれはひどい言葉を並べたそうだ」 「まあ、客が怒るのも当然だろうな」  芹沢は、その日本人客の気持ちもわからないではないと思った。 「ところが、そのすぐあとに、とんでもないことが起きたんだ」  児玉は、答えを先に知っている者だけが持つ、得意気な表情を浮かべた。 「何だ、とんでもないことっていうのは?」 「暴落さ。しかもその銘柄の下げ幅がいちばんひどかったらしい。そのまま買っていたら、担当の人間の首が二、三人飛んでいたほど、大きな損になるところだったそうだ」 「彼女はその暴落を予測していたっていうのか?」 「らしいね」 「だから、彼女はどうしても売らなかったってわけなのか?」  芹沢は、どうも話が出来過ぎのような気がした。たぶんこの話は、全部が嘘ではないだろう。だがおそらく、語り継がれるうちに誇張され、尾ひれがついた伝説になってしまったのだ。たとえそうだとしても、そんなふうに伝説化されること自体が、有吉州波という女の評価を象徴しているような気がした。 「その客は喜んだだろうな」 「ああもちろんさ。さっそくわざわざ礼に行ったんだそうだ。そしたら、彼女はまたそのベテランのファンド・マネージャーに向かって答えたそうだ。あのとき、そんなこともわからなかったなんて、あなたは相場なんかやめたほうがいいですよ、とね。実に堂々として自信たっぷりな言い方に、その日本人は一言も返せなかったらしいよ」 「へえ、彼女も言うもんだねえ。凄い自信だよな。十歳以上も年下の新米の女にそんなこと言われて、さぞ悔しい思いをしただろうな、そのベテラン日本人も」  芹沢は、再度日本人ファンド・マネージャーに同情したくなってきた。 「でさ、その二度と顔も見たくないと言った日本人のファンド・マネージャーが、いまでは彼女が担当する、数少ない日本人客になったというわけなんだって」  芹沢は、児玉の言葉に身を乗りだした。 「彼女、日本人の客も担当しているのか? だったら、たとえば都銀のニューヨーク支店のトレーダーなんかもカバーしているかな」 「それはないさ。日本の都銀っていえば、本店と違って独立採算制なんだから、|資金調達《フアンデイング》も向こうで独自にやっているわけだろう。取引額も当然ぐっと限られてくる。そんなちゃちな客を彼女が相手にするわけないよ」  当然のことじゃないかという顔で、児玉は否定した。 「やっぱりそうだよな」 「どうしてそんなこと訊くの?」 「いや、別に」  芹沢は、児玉になら正直に言ってもいいかと思った。事情を話してみれば、わかってくれるに違いない。だが、そのためには明石のことも自分のこともすべてを打ち明けなければならない。そのことに、芹沢はまだためらいがあった。 「僕が向こうにいた一年間、ニューヨークで知りあった業界人のなかでは、彼女の話は実によく聞かされたよ。すごく褒める人もいれば、ものすごく嫌う人もいる。はっきりと二分された感じだね。ちょっと日本人離れした女性みたいだな」 「ちょっときつそうな顔だしな」  思わず漏らした芹沢の言葉に、児玉はびっくりしたような顔をした。 「なんだ、おまえ会ったことあるのか?」 「いや、一度だけすれ違っただけだ。あのジョン・ブライトンと一緒だったから、誰なんだろうと思って、その場に一緒にいた野々宮証券の人に尋ねてみたのさ。そしたらモーリス・トンプソンの本社から来た、凄腕の女性セールスだっていうから印象に残っていたんだ。つい一週間前のことなんだけれど」 「へえ、ジョン・ブライトンが初めて東京に来たことは聞いていたけれど、彼女が連れてきたってわけだな。で、どうだった。結構美人なんだろう?」 「まあな」  あのときの州波が見せた、挑戦的ともいえる笑顔が浮かんできた。 「なんでも最初のころは、化粧もしなければ、着るものにも構わず、仕事一途で、完全に女を捨てていると言われていたんだって。ところがここしばらくで急に女らしくなったそうだ。そうか、おまえ彼女に会ったのか。僕も一度顔を見てみたいと思っていたのにな。なんといっても話題の人だから」  児玉は本気で悔しがっていた。児玉ほどの男でもそれほど言うのかと、あらためて州波の存在を認識させられるようだ。それにつけても、明石がそんな女とどんな関係だったのかということが、ますます気になってくる。  恵比寿で会ったときの州波の様子を、児玉に詳しく話して聞かせた。その説明の仕方に、勘の鋭い児玉は何かを察したようだった。 「そうか。芹沢もついに彼女に一目惚れをしたか。おまえはまだ独身だったものな」  児玉からそんなことを言われるとは思いもしなかった。 「そんなんじゃないよ。ただな──」  芹沢が急に真顔になったので、児玉も笑うのをやめて芹沢を見た。 「なんだよ、急に深刻な顔して」  まっすぐに児玉の目を見つめ、芹沢は心を決めて切りだした。 「なあ、児玉もニューヨークにいたのだから、康和銀行の明石哲彦の自殺のことは知っているだろう?」 「ああ、あのときは驚いたよ」  話が予想外だったためか、児玉は姿勢を変えて芹沢に向き直った。  明石の自殺のニュースは、東京ではほとんど話題にされなかった。遠いニューヨークでの出来事で、しかも事件性がないという発表だったせいか、人々の関心は最初から薄かったようだ。  それ以上に、総会屋との癒着の発覚により、幹部経営陣の大幅な逮捕劇が起きたり、相次ぐ経営破綻騒動が重なったりで、日本の金融業界がこれまでにないほど揺れた時期である。人々の目がもっぱらそちらのほうに向いてしまったことも当然だった。  そのことは、明石本人にとっても、残された慶子やその家族にとっても、むしろ救いだったと芹沢は思う。興味本位に話題にされて、無責任に騒ぎたてられなかったことだけでも、喜ぶべきなのかもしれなかった。 「明石とは中学からの友人だった。それに、あいつが飛び降りた日の前日に、俺は偶然にもニューヨークで会っているんだ」  芹沢は、明石と二十年ぶりに再会したときのことを、詳しく児玉に話した。慶子との関係や、死の直前のファックスのことには触れなかったが、明石の死がどれだけショックだったかを児玉にもわかってもらいたかった。 「ほんの一日前に会って、以前とまったく変わらない調子で元気に話していた男が、突然自殺をするなんて信じられるか? あのとき、あいつは俺にそんな様子をこれっぽっちも見せなかった。ものすごく元気だったし、向こうの暮らしも楽しそうだったんだ。だから俺は、いまもあいつが自殺したなんて、納得できないでいる。なんとかして、あいつの自殺の原因を知りたいと思っているんだ」  ずっと黙って聞いていた児玉は、静かに口を開いた。 「そうだったのか。芹沢が康和銀行の明石さんと同級生だったとは知らなかったな。世間は狭いよね。彼の自殺のニュースには僕も驚いたよ。僕自身は彼とは直接面識はなかったんだけれど、ニューヨークに住む日本人で、しかも銀行員同士というのは、わりと横の関係があってね。だから僕の向こうでの知りあいも、明石さんのことを知っていて、彼の話をしてくれたことがあったんだ。いい人だったらしいね。本当に気の毒なことをしたよ」  児玉が心から同情しているのが芹沢にもわかった。 「だがな芹沢、僕もうまくは言えないが、明石さんのことはもう過ぎたことだよ。彼と自殺の直前に会っていながら、おまえがどうして気づいてやれなかったかと悔やむ気持ちはわかるけど、それはしかたがないことだよ。自分を責めることはない」  児玉はしみじみとした口調で言う。 「いや、それだけじゃないんだ。実はな、こんなこと児玉にだから言うんだし、ここだけの話にしておいてほしいんだけれど──」  芹沢のあらたまった面持ちに、児玉は表情を硬くしてうなずいた。 「明石と最後に会ったとき、あいつは、さっき言ってた有吉州波のことを打ち明けてくれたんだ。つまり、なんていうか、彼女とは特別のつきあいだったような口ぶりだったんだけれど」  そこまで聞くと、児玉はすぐにかぶりを振った。 「それはどうかな。明石さんのことを僕に話してくれた友人の話だと、家族一緒に向こうに住んでいたときは、ずいぶん仲のいい夫婦だったようだよ。そいつはときどき明石さんの家まで行っていたらしくて、そいつの奥さんが、明石さん夫婦に会うたびに、理想の夫婦だといって羨ましがるんで困ったなんて言っていたぐらいだから」  芹沢は自分の頬がぴくりと動くのを意識した。明石があの慶子と一緒に、何不自由なく睦まじい暮らしをしていたと聞かされるのは、慶子のためには喜ぶべきことだ。それなのに、こういうことにこだわる自分が情けなくもあった。そんな芹沢の心中など知るはずもなく、児玉は話を続けた。 「それに、こう言っては明石さんに失礼だが、あの有吉州波が、都銀のニューヨーク支店の課長程度の男を相手にするとも思えない気がするんだ」  児玉の話を聞いていると、そうかも知れないという気がしてくる。だが、あのとき明石が嬉しそうに州波のことを話したことには間違いがない。そのときは、州波がどんな女性なのか知らなかったので、疑問も持たずに明石の言うことを信じたのだ。  州波のことは、明石のひとりよがりだったのだろうか。州波という話題の女性と少しばかり仲良くなったことを、ただ自慢気に話して聞かせただけなのだろうか。 「明石の自殺のことで、ニューヨークでは何か噂を聞かなかったかい?」  どんなことでも聞かせてほしかった。あのファックスのことについて、少しでも何かがわかるならという思いだった。 「康和銀行の明石さんといえば、凄い花形トレーダーだったからね。康和の儲け頭だったわけだろう。銀行の年間の収益の何割かを、ほとんど市場売買の利益でカバーしていたというんだから、考え方によっては怖い話だよね。つまり、会社からそれだけの期待が彼の双肩にかかっていたという解釈もできる。彼の自殺の直後は、なにかとてつもない大きな損を出したんではないかとか、それとも会社からの期待にプレッシャーを感じすぎて、発作的に飛び降りたのではないかとか、いろいろ噂は飛び交ったんだ」  芹沢は、初めて聞く児玉の話に驚いた。明石が同じ国際金融市場の世界に身を置いていたことは、ニューヨークで再会したとき、本人から聞いて知っている。だがあの日の二人は、お互いの仕事のことなどについてはあまり詳しく語り合わず、ほとんど懐かしい昔の話に夢中だったのだ。  だから、明石がそんなに有名なトレーダーだったことは、いま初めて知った。だからこそ、明石の葬儀があれほど盛大だったのだと、芹沢はいまさらながら理解できる気がした。 「明石さんは、まさに都銀のエリート・コースを行く見本みたいなものだった。かといって家庭的な問題をかかえていたわけでもない。それにその後、康和が相場で失敗したなんていう話も出てこないところをみると、彼が仕事で大損を出し、その責任を感じて自殺したということでもないらしい。となると、自殺の原因は別のところにあるわけか。そうなると、なあ芹沢、もしかしたら、さっきおまえが言っていた有吉さんが何か関わっているのではという考えも、あながち否定できないのかも知れないな。たとえば、真面目一方で生きてきた明石さんが、受験の子供と奥さんを日本に帰国させ、単身赴任の独り暮らしになった途端孤独感に見舞われ、まるでこれまで彼を律していた|箍《たが》がはずれたように、一人の女にのめりこんだとしてもおかしくはない」  児玉は自分ではさっき否定したばかりの明石と州波の関係に、いまは自分で納得していた。 「おまえもそう思うか」 「ああ。もし明石さんに別の女性が存在したというのが本当だとして、しかもその相手が、あの有吉女史だとなると、明石さんがアプローチして翻弄されたとしても不思議ではないよな。とにかく普通の女性でないことだけは確かだから。それに、明石さんはニューヨークでもかなりの金額を動かしていたみたいだったから、彼女の客だった可能性も皆無ではない」  児玉はさらに自分の考えを飛躍させていく。いったん明石と州波のことを事実だと想定すると、すべてがそれを裏付けるように思えてくるものである。児玉に言われるまでもなく、芹沢自身も自分が抱いていた懸念があたっているような気になってきた。  明石が最後に芹沢に残した『 N.U.H.』の意味は、どうにも身動きができなくなった男が発する、女から逃れたいための悲痛な叫びだったのか。  既存の家庭生活と並列して、男が別の女と作りあげたエゴイスティックな時空の重みが、さらに仕事上の関係とも重複してしまう。そんな三層にもなる重圧に耐えられず、明石は死を選んだのだろうか。それほど、あのときの明石は追い詰められていたというのか。  それが事実なら、一人の男を死に追いやっておいて、何も感じずに平然と東京に乗り込んできた州波という女に、芹沢はいまさらながら嫌悪感が芽生えるのを感じた。いやそれは、脅威に近いのかもしれない。恵比寿のホテルで、偶然見かけたあの顔の、どこか人を捕らえて離さないような強い眼の光のなかに、明石の苦悩の影が投影されて見えるような気がした。真実を確かめたい。それが自分にできる明石へのたったひとつの|贖罪《しよくざい》なのだと、芹沢は思った。 「なんとしても、明石の自殺の原因を突きとめたいんだ。児玉、俺に力を貸してくれないか」  芹沢は必死だった。どうしても明石の自殺の理由をつきとめて、あのファックスの訳を知りたかった。 「わかった。僕がもしおまえの立場だったら、きっと同じことをすると思うよ。だから僕にできることはなんでも協力するよ。ニューヨーク時代に知っていた人間で、明石さんに近いところにいた人とか、逆に有吉州波を直接知っている人をあたってみるから」  児玉はそういって協力を約束した。このときの二人の決心が、あとになってどんな結果を招くことになるか、このときの二人にはまだわかるはずはなかった。 [#改ページ]  第三章 密 約     1  頬に触れる風が、かすかな雨の匂いを含んでいた。薄曇りの空のせいかそれほど暖かくはない。だが、どことなく緩んだ空気が、はや春の気配を伝えてくる。  三月二日、月曜日の朝。芹沢裕弥は身体中から沁み出してくるような、気だるいあくびをかみ殺しながら、通勤電車のなかで、持っていたブリーフ・ケースから朝刊を取り出した。  恵比寿の自宅マンションを出て、丸の内にある職場へ向かうJR山手線のなかで、芹沢はいつも経済紙と金融専門紙の二種類の新聞にざっと目を通す。特に月曜の朝は、いつもより早めに自宅を出て、まだラッシュ前の車内で、ゆっくりと座って読むことにしていた。週末にすっかり|弛緩《しかん》した自分自身を、ディーリング・ルームというテンションの高い世界に順応させるためには、そうした直前の十分なウォーム・アップが不可欠なのである。  その朝の芹沢は、ちょうど一人分だけ空いていた席に腰をかけ、四つ折りにして持っていた金融新聞をおもむろに開いた瞬間、その大きな見出しに目を奪われた。康和銀行と米国系の大手投資銀行メイソン・トラスト銀行の資本提携が報じられていたからである。  バブル時代の無謀な業務展開の結果として、邦銀はどこも膨大な額の不良債権を抱え、ここ何年もその処理に苦慮してきた。しかし長引く低金利時代が、一般預金者に多大な忍耐を強いている一方で、銀行側には異常ともいえる低い金利での資金調達を可能にし、その業務純益は史上空前とも言われるレベルに達している。  全国銀行ベースで年間六兆円とも七兆円とも言われる利益によって、少しずつ不良債権処理が進んできたなかで、康和銀行だけは例外だった。思うように処理が進まず、ここ二、三年にわたって厳しい経営危機が取り沙汰されていたのである。なかには経営破綻寸前で、康和銀行の|X《エツクス》デーはいつかなどと、無責任な噂が水面下で囁かれるぐらいだった。  そんななか、ついに米銀との資本提携に踏み切ったとのニュースである。芹沢は眠気もいっぺんに吹き飛んだように、記事に見入った。 『業務および資本の両局面において包括的な提携を結ぶ二行は、資本力や経営基盤を強化したい康和銀行と、来るべき|日《ビ》|本の《ツ》|金融《グ》|大改《バ》|革《ン》を前に、日本でのさらなる本格的な事業展開をめざすメイソン・トラスト銀行との、相互のニーズが一致したものである』と、記事には速報としての簡単な解説が加えられていた。  このニュースの、市場への影響が気になるので、芹沢は東京駅の階段を駆け下り、職場へ向かう足を速めた。  ディーリング・ルームのデスクに着くと、思ったとおり、このニュースで騒然としていた。朝の挨拶もそこそこに、デスクのモニターを立ち上げ、ブルームバーグの画面を呼びだした。通信社のレポートで、まず先週末のロンドン市場や、ニューヨーク市場の動きをチェックするためである。 「おい、康和のことどう思う?」  隣りの席の同僚が声をかけてくる。こういうニュースは一瞬にして世界をかけめぐり、市場への影響も少なくない。芹沢が担当する、マネー・マーケットと呼ばれる短期金融市場では、株式市場ほど大きな反応はないとは思うものの、準備をしておくに越したことはないのだ。 「しかし、なんだかよくわからない発表なんだよな」  芹沢は正直な感想をもらした。 「康和とメイソンは、業務提携と同時に資本提携もすると言っているよな。新聞の記事だけ読んでいると、ほとんど合併か、メイソンが康和を吸収するような色合いが濃いけど、そういう一面を強調するわりには、提携の内容が要領を得ないだろう」  あえて幾通りにも憶測を呼ぶような表現がとられているようで、市場がどういった反応をするのか、まずは様子を見ようということに、二人の意見は落ち着いた。  ところが、東京株式市場が開いて数分後には、このニュースを好感した気の早い投機筋の買いが入り、康和銀行の株価が大幅に値上がりを見せたのである。買いは買いを呼び、昼前には急激すぎる価格上昇の結果、売買の途中でストップ高を招く結果となった。  康和銀行株を買いそびれた投資家達は、そのかわりに他の銀行株にまで手を伸ばした。同じように経営危機が心配されていた他の邦銀数行にも、康和銀行に追随して、米銀からの資本援助を得る動きが出るだろうという噂が流れたためである。長い間低迷していた日本の銀行株が、軒並み連鎖的な値上がりを見せたのだ。  おかげで株式市場全体が買い一色となり、結果的には、その日の日経平均株価を千円近く押し上げる推進力となったのである。  昼食時になって、芹沢が銀行のランチ・ルームに行くと、同じように昼食のトレイを持った児玉実が、芹沢を見つけて近づいてきた。 「前場の康和銀行株の上げは凄かったみたいだね。ついに、日本の都銀がアメリカの銀行に救済合併されてしまう時代が来たということか」  児玉は芝居がかった声を出した。 「少なくとも八〇年代には、まず考えられなかったシナリオだよな」  芹沢も感慨深い顔で言葉をついだ。 「あのころの邦銀と米銀の関係は、いまとはまるで正反対だもの。強い経済と強い円を武器に、大蔵省の護送船団行政に守られながら、どんどん米銀を追い抜いたんだものな。あの康和銀行だって、一時はトリプルAに|格付け《レーテイング》されていたんだぜ。それが最近はトリプルBマイナスにまで格下げされたんだからな。天と地の違いだ」 「へえ、康和銀行って、昔はトリプルAだったんですか? そんなに力のある銀行だったなんて信じられないみたい」  同じテーブルで食事をしていた二人の若い女子行員が、いきなり横から芹沢達の会話に加わってきた。事務職のセクションでたまに見かけるが、まだ入行して間がないらしく、二人とも名前すら知らない。屈託なく会話に入ってくる二人に、芹沢は少し面食らったが、児玉は気にしていない様子だった。 「そうだよ、八六年のころは、世界中の銀行のトップ・テンのなかに、邦銀が七行も入っていた。そのなかでも康和は上位三行には入っていたかな」  児玉がそう答えてやると、彼女達から嬌声があがった。 「八六年っていうと、私まだ十歳でした」  目の前でコロコロと笑う二人を見て、芹沢は児玉と顔を見あわせた。自分達がこれまで経てきた歳月と、時代の変遷をつくづく見せつけられるような思いがするのは、たぶん児玉も同じだろうと思う。 「逆に当時の米銀は、いまの邦銀みたいに不良債権に悩んでいたんだよ。米国株式市場の大暴落、いわゆるブラック・マンデーの悲劇を味わったあと、個人投資家の株離れによって株価の低迷が続いたうえに、七〇年代の末期からメキシコやブラジルなどの中南米向け債務危機が表面化したからね。融資残高が積みあがっていた米銀は、かなりのダメージを受けたんだ。おまけに、米国内では不動産価格の下落で、全米に散らばる|貯《S》|蓄貸し付け組《&》|合《L》という日本の信金みたいなところが、次々と潰れて大変だった」 「まるでいまの日本と同じですね」  彼女達の顔から笑いが消えた。大学の友人が邦銀に勤めているせいか、他人事とは思えないのだという。 「そうだよ、当時はアメリカの政府も公的資金の導入をやったし、厳しい自己資本比率の規制も行なった。だから、米銀は本店を売却したり、経営建て直しのために貸し渋りが発生したりしたんだ」 「へえ、アメリカも金融機関の救済に公的資金を使ったんですか。それじゃいまの日本と同じですよね」 「ただし日本と違うのは、徹底的にパージを行なったことさ」 「組織の|浄化《パージ》ですか?」 「ああ、経営破綻を起こした原因の究明とか、責任追及を徹底したわけさ。日本みたいにただ公金を入れるだけじゃなかった。腐った細胞を残さず外科手術で切除したわけさ」 「ねえ、アメリカでも貸し渋りが起きたと言いましたよね? どうして貸し渋りなんか起きるんですか? いま日本ではそのことがよく問題にされていますよね。銀行が貸し渋りをするから、景気がますます悪くなるって」  相手の素朴な質問に、嫌な顔もせずに芹沢は説明を始めた。 「それはね、国際業務を行なう銀行というのは、|国《B》|際決済銀《I》|行《S》によって、総資産に対して八パーセント以上の自己資本を保持することが義務づけられているからなんだ。自己資本の中には、株式の含み益の四十五パーセントが組み入れられているから、株価が下落すると自動的に自己資本が目減りするわけだよ」  若い女子行員達にわかりやすく説明をしてやる芹沢を、児玉は隣りで微笑ましく見ていた。 「つまり、このところの株価の低迷で、自己資本が増やせないから、資産のほうを減らすしかないわけですね」  相手のうちの一人が納得顔で言った。 「その通りだ。自己資本比率を八パーセントに保つためには、分母である総資産を圧縮するしかない。つまり、単純に貸出しを減らそうという発想だよ。だから本当の意味では貸し渋りではなくて、融資の回収というわけだな。最近の邦銀は、軒並み大手の企業からでも、すごい勢いで融資を引き揚げようとしている」 「じゃあ、今日みたいに株価があがるのは大歓迎ですよね」 「そうだよ、特に三月末は決算期だから、月末の株価水準で、どれだけの融資の圧縮が必要か、数字が出てくることになるのさ」  今度は児玉が芹沢に代わって答えた。 「じゃあ、今回の康和銀行の米銀との提携は、銀行界にとっては歓迎すべきことなんですね。とにもかくにも、銀行株が急上昇したことは、いいことですもの。メイソン・トラストは邦銀の救世主というわけですね。それにしても、日本の経済って、アメリカが通った道を十年後同じようにたどっているみたい」 「まあ、そう言えるのかもしれないな。両国の立場はここ十年ですっかり逆転してしまったのだからな。なんせ、康和銀行の経営再建に、メイソン・トラストの力を借りようとする時代なんだからね。僕らをとりまく環境も、この十年間ですっかり変わってしまったよ。なあ芹沢」 「ああ。だけど、ここから先はもっと凄いと思うよ。|金融大改革《ビツグバン》を経て、日本の金融システムはいったいどんなふうに変わっていくのか想像できないぐらいだものな。きっとこのあと十年して、この三年間ぐらいを振り返ってみたら、こんなに変わってしまったのかと、また懐かしさをこめて思い出すのかもしれないな」  芹沢はしみじみとした顔で言う。 「わあ、十年後って言えば、私たち三十を超えていますよ。嫌だわ」 「あ、ほら、いまテレビで康和銀行のことやってるみたいですよ」  女性の一人がランチ・ルームの隅にあるテレビのほうを見て言った。今朝の新聞発表に続いて、康和銀行頭取の櫻井偉平が、急遽記者会見を開いているらしい。報道陣が押し寄せた銀行の大会議室で、まぶしいほどのフラッシュを浴びている櫻井の、自信たっぷりの笑顔が、何度も大写しになる。  食事を終えた芹沢も児玉も、テレビの画面にしばらく目をやったが、すぐにまたデスクに戻っていった。  その夜のテレビのニュース番組でも、この記者会見の模様が繰り返し流された。突然の新聞発表については、マスコミも両者の実態を詳しく知りたがったが、メイソン・トラスト側は一切の取材を拒否しているようだった。一方の康和銀行は、それとは対照的で、テレビ映像や次の日の新聞記事を多分に意識したようなコメントを発表した。  芹沢は帰宅後すぐにテレビのスイッチを入れ、深夜のニュース番組で取り上げられたこの記者会見の模様に注目した。 「提携先のメイソン・トラスト銀行からは、どのぐらいの規模の資本提供を受けるのですか」  画面では、集まった記者たちの鋭い質問が飛び交った。 「|大 口 取 引《ホール・セール・バンキング》に強いメイソン・トラストさんと、|個人金融《リーテール》部門に歴史のある弊行とが、双方の得意分野を組み合わせた巨大銀行として、日本の金融業界に風穴をあけることになるわけです。数字的なことについては、今後協議を重ねたうえで決定していくことになりますなあ」  頭取は満面の笑顔で、ところどころでさらに高笑いを挟みながら、言葉を継ぐ。しかし肝心の記者の質問に対しては、相変わらずのポーカー・フェイスでうまく矛先をかわし、詳しい内容について触れることは、たくみに避けている。 「メイソン・トラスト銀行から康和銀行への役員の送り込みなども、今後は当然起きてくるのでしょうか」  記者の質問はなおも続く。 「それは当然考えられることです。そのうち、うちにも青い目の頭取が誕生することもあるかも知れませんなあ」  櫻井頭取は白髪頭に手をやって、またわざとらしく大声で笑って見せた。 「今回の提携が、将来の吸収合併ということを念頭に入れて考えたうえでのことだとしたら、康和銀行の名前がなくなることもあるのでしょうか」  記者の質問が、こと名前に触れてくると、櫻井の顔色が変わった。 「いや、それはありえない。伝統ある康和銀行の名前がなくなるなどということは、断じて起きてはなりませんからな。今回の提携の目的は、あくまで提携二行における両者の相互メリットを生かすという点にあるわけです。今回のことは、来るべき金融新時代に向けての、他行に先駆けた一歩であると自負しております。皆さまに長年ご愛顧いただいている康和の名前を未来永劫に引き継ぐため、断行した最善の策であると信じているのです」  櫻井のわずかな顔の動きに連動するように、カメラのフラッシュが光る。ますます芝居がかってきた仕草の櫻井は、さながら舞台の中央に立つ主役のように、無邪気なまでの笑いを浮かべていた。 (なあ、明石。おまえの銀行は、やっと生き延びる道を見出したぞ)  芹沢はテレビを見ながら、自然に明石に向かって語りかけている自分に気がついた。 (おまえは、どこかでこれを見て、喜んでいるのだろうか)  明石が逝ってから三カ月あまり、なにかにつけてつい明石に語りかけてしまうのが、芹沢の習慣になってしまった。     2 「ばかばかしい!」  吐き捨てるようにそう言って、有吉州波は、自宅のリビングに置いてあるテレビのスイッチを切った。夜更けになって帰宅したあと、テレビのスイッチを入れるとすぐに、康和銀行の櫻井頭取の顔が大写しになった。  その|驕《おご》った口ぶりも、その自信満々の顔と同じぐらい吐き気がする。今日一日、州波がどこへ行っても、相手はすぐにこの話を持ち出し、そのたびに耐えてきた。  映像が視界から消えたあとも、櫻井の脂ぎった額や、高笑いの中に潜む卑屈さが、苦々しく目の奥に残っている。米銀との業務提携にこぎつけたことを、ことさら強調することにより、これまでの経営危機を回避できると、世の中にアピールしたつもりに違いない。そしてそれが何よりの手柄だと思っているのだろう。思わぬ援軍を得て信用度が回復され、それにより、各方面からの資金調達が可能になるのである。頭取の笑いは、これで首が繋がったのだという安堵からくるものだと、州波は見抜いていた。 「こんな人間たちを、あなたは守ろうとしていたっていうの、明石さん」  州波は、いまはもういない明石哲彦に向かって叫びたかった。できるものならあのときに戻って、その肩を力一杯揺さぶってもう一度目を開かせてやりたい。州波はそれができないことがなによりもどかしかった。 「あなたが生命と引き替えにさせられたものを、こんな人たちは何もわかっていないわ。あれだけのことをしておきながら、康和銀行の名前だけはなんとしても死守するですって。まだそんなことを言っているのよ。明石さん、あなたはいったい何を守りたかったの。あなたの生命は康和銀行という名前の前では、そんなに無意味な価値のないものだったの」  そう言って、明石に問いかけてみたかった。この無能な頭取の、虚勢を張っているだけの笑い顔を見せつけて、答えを迫ってみたかった。そうすれば、州波自身も、この救いようのない迷路から抜け出せたかもしれないではないか。 「許せないわ、絶対に許してはいけないのよ」  州波は怒りをぶつけるように、口走った。 「あんな銀行なんて潰れればいい。康和の名前なんて消えてなくなればいいのよ。そうよ、こんな銀行をなんとしても存続させようとするから、いろいろな悪が生まれてくる。潰れかけているものを、どうしてこんなに無理をしてまで建て直そうとするの。続けることに無理が生じたのなら、もうそれだけで存在の意味を失っているはずじゃない。無理な細工はよけいに問題を大きくするだけ。それならばいっそ勇気を持って、康和銀行なんて潰してしまったほうがいいのよ」  州波は耐えきれない思いに、声をあげていた。もし明石がどこかで聞いているのなら、この声を聞き届けてほしいと思う。 「ねえ、明石さん。そうでしょう?」  州波は思わず宙を見上げた。自分が間違っていないことを、誰かに確認したかった。それが正しいことなのだと、誰かにうなずいてもらいたかった。これしかほかに道はないと、州波が選んだこの手段が、残された唯一無二のものだと言って、安心させてほしかった。  そうすれば、なんのためらいもなく、|呵責《かしやく》も感じず、州波は堂々と踏み出すことができる。振り返ることも、もうこれ以上悔やむこともなく、自分を信じて足を踏み出せる。  だが、州波は自分で決めなければならなかった。誰も何も答えてくれるものはいないし、問い掛ける相手すらいない。  背中が寒かった。いくらエアコンの調節をしても、寒さは身体の奥から這いだしてくる。州波は自分で自分の両肩を抱き、顔を埋めた。  たとえ誰もいなくても、もうここから引き返すことはできないのだ。州波は小刻みに震える身体を、自分の手で抱きしめながら、見えない何かに向かって、大声で叫び出したいような思いを、必死でこらえていた。     3  皇居を目の前に見るメイソン・トラスト銀行ビルは、この春大々的な改築が終わったばかりである。その十八階の真新しいディーリング・ルームに立ち寄った東山理一郎は、整然とデスクの並ぶ広い部屋の奥に目をやって、岸本|和生《かずお》にねぎらいの声をかけた。 「相変わらず遅くまでやってるんだな」  岸本は、部下である|金融派生商品《デリバテイブ》のトレーダー、サイモン・グレイと話に熱中しているのか、やっとひと呼吸おいてから頭をあげる。 「ああ、東山さんこそ、まだいたんですか」  頭を上げたついでに岸本が壁の時計を見ると、すでに夜の九時十分を指していた。考えてみればここ三カ月あまり、連日ほとんど深夜まで帰宅できない日が続いている。 「岸本の細君は、アメリカ人女性にしてはめずらしいほどおとなしい人だからいいけれど、そうそう調子にのって家を空けてばかりいると、そのうち離婚されるぞ」  東山は、冗談とも本気ともわからない口調でそう言った。  メイソン・トラスト銀行のアジア・オーストラリア地域を統括する、極東部門代表の肩書を持つ東山理一郎は、東京支店はもちろんのこと、香港、シンガポール、台北、シドニーの各支店の総括責任者である。半年前、米系大手証券会社から岸本和生を引き抜き、子会社のメイソン・トラスト・アジア証券の東京支店長に就任させ、業界内の話題を呼んだ男だ。  バブル経済の崩壊直後、長引く株式市場の低迷期を迎えて、多くの外資系証券子会社が次々と業績不振に陥り、撤退を余儀なくされた。だが、そんな苦難の時代を生き残り、いまなおかなりの業績をあげながら創立十年目を迎えるメイソン・トラスト・アジア証券の東京支店長というポストは、もとより岸本にとっても魅力のあるものだった。  だが、それよりも彼に転職の決心をさせた大きな要素というのは、東山が岸本と同じ東大の二年先輩だということに加えて、卒業後一度邦銀に就職し、そこから外資系に飛び出してきたという似た者同士の連帯意識だった。  同じような都銀で働き、同じような転職の経験を持つ者の共通の了解も、初対面のときから二人の距離を縮める大きな要素だった。邦銀の体質も欠点もよくわかっている。互いにもたれ合える気楽さや安心感、それゆえの甘えの構造や弱さも知り尽くしたうえで、そこから敢えて飛び出し、一匹狼として外銀に飛び込んで来た身である。  初めて米国系の銀行に転職したとき、すべてがあまりに違っているのに驚いた。仕事に対する取り組み方や、周囲の人間の意識、仕事そのものに対する考え方の根本がまるで違うのだ。野球で譬えれば、アマチュアの草野球のメンバーが、いきなりプロのチームに入団したようなものだと、岸本は東山と話したことがある。  邦銀時代には考えられなかったほどの徹底した実力主義、やりとげた分だけ、はっきりと年俸や昇進という形にして、目に見える評価を与える明快さも享受できた。とにかくビジネス最優先で、馴れ合いやかばい合いのない組織。儲かると見た相手に対しては、情け容赦のないほど攻めていく企業体質ゆえに、逆に社員同士に|育《はぐく》まれる、ある種の強い連帯感と愛社精神。そういった相反する不思議な要素について、戸惑いを感じながらも、受け入れてきた。 「いやあ、まいったよな。今日は朝一番から電話がほとんど鳴りっぱなしだったよ。マスコミの取材依頼や、取引先からの問い合わせの対応で、ほとんど一日が潰れてしまった」  東山は芯から疲れはてたという声を出した。 「そちらもですか。僕のほうも同じですよ。普段めったに電話なんかしてこない客まで電話をよこして、康和銀行との合併について詳しく説明をしろだとかなんとか、うるさいと言ったらなかったですよ」  岸本は秘書に居留守を使わせ、よほどの上客以外には電話に出なかったと、東山に漏らした。 「しかし康和の櫻井さんもいい加減だよね。メイソン側の人間が同席していないのをいいことに、テレビで好き勝手なコメントをしたらしいじゃないか。まったく、よく言えるものだと思うよ。午後からの僕の電話は、おかげで朝の倍ぐらい鳴った。櫻井さんの話を聞いていると、今回のことはすっかり康和の救済合併にまで発展してしまっているんだからあきれるよ。うちからどんな役員を出すのかとか、康和銀行の株をどれぐらい買い上げるのかとか。あげくは、僕自身が康和の頭取に就任するのかとまで言う人間もいたりして、あんまりばかばかしくて、答える気にもならなかったよ」  東山はそのときのことを思い出して苦笑した。 「櫻井さん、青い目の頭取が誕生するかもしれないなんて、見えすいたことしゃあしゃあとした顔で言ったんです。大した役者ですよ」  岸本はテレビの会見を見逃したという東山に、そのときの模様を語って聞かせた。 「康和にしてやられたというところかね。こういう事態になっては、なんだかあいつらにうまく利用された感が起きなくもないなあ。株式の相互持ち合いなんて、まだわれわれとの間では詳しく詰めてもいないことじゃないか。なのに、そんなことまでマスコミに匂わせて、まことしやかに資本支援を受けるようなことを印象づけるとは、はっきりいってこれは背信行為だよ」  東山は本気で憤慨していた。 「いえ、大丈夫です。康和側の目的は、この記者会見までで十分達成されたことになりますが、本当の勝負はここからです。この先はうちの独壇場ですよ」  岸本は自信に満ちた顔で、そう答えた。     4  もともとの起こりは、まだほんの二カ月ほど前のことだった。そのころのことは、いまもはっきりと岸本の脳裏に甦ってくる。  あれは、クリスマスから新年に続く休み気分も消え、ようやく平常心が戻ってきた一月のなかばのことである。東山は今夜と同じように、ディーリング・ルームのサイモン・グレイのデスクまでやって来た。そこに行けば、必ず岸本がいるのを知っているからだ。 「なんだか忙しそうだけど、いま何をやってるの?」  いつものようにサイモンのそばに立ち、端末機のモニター画面を覗き込んでいる岸本に声をかけた。 「例の|仕組み《ストラクチユア》ですよ。スワップ取引で米ドルの変動金利に変換して、完全に|調 達《フアンデイング》とマッチさせると、かなり|利ざや《スプレツド》が抜けますから。しかもほとんどリスクなしです」  岸本は自分が持っていた資料と、デスクの上のモニターの数字を交互に指さした。  広くて使いやすい支店長室があるのに、岸本はこのところ一日の大半を階下のディーリング・ルームで過ごしている。静まりかえった役員フロアの|個室《オフイス》で、秘書をそばに置いて、背もたれの高い革張りの椅子に座っているよりも、ディーリング・ルームのモニターの前で、まだ二十代の若いアメリカ人スタッフたちとディスカッションをしているほうが、はるかに性に合っていた。 「また、康和銀行の貸出し債権を買ったのか」  東山は驚きの声をあげる。大きな声ではあるが、非難の色は含まれていない。 「はい」 「ここ半年ばかりずいぶん積み上がっているんだろう。大丈夫なんだろうな、あの銀行は。不良債権の処理もなかなか進んでないようだし、昨日は、|ス《S》タンダード・|ア《&》ンド・|プ《P》アーズが|格付け《レーテイング》を下げただろう。ムーディーズも近々格下げをすると匂わしている」  東山は、岸本を見込んで支店長を任せたのだから、具体的な仕事のことにとやかく口をはさむようなことはしない。ただ、ここ半年ばかり岸本が買い続けている、康和銀行の不良債権化した資産については、その母体の信用度を示す世界的な格付け機関の発表が、軒並み大幅な信用不安を訴えているのを、無視するわけにはいかない。なにより、ニューヨークの本部に向けて説得しなければならないのは東山の仕事でもあった。 「大丈夫ですよ、康和銀行は絶対潰さないと大蔵省自身が言っているわけですから、こんな確かなことはないですよ。だったら|買い《ヽヽ》でしょう。格下げになれば、彼らの保有資産はさらに安くなるので、うちにとっては好都合なくらいです」  岸本はあくまで楽観的な声だ。 「しかし──」 「大丈夫ですよ。どんどん買ってはいますけれど、うまく料理したあと、次々と客のほうに|売《は》|却し《め》ていますから。うちのリスクは大したことないですよ。こんなに旨味のある|資産《アセツト》はここしばらくなかったですからね。ジャパン・プレミアムのせいで、ドルの調達レートが高い日本の金融機関じゃ無理ですけれど、米系や欧州系の客なら喉から手が出るほど欲しがります。本当はもっと日本の客にも勧めたいところですけれどね。次は、不動産担保ローンのほうにも手を出すつもりです」 「まあ、おまえがやっていることだから心配はないと思っているがね。単純な現物資産の売買じゃなくて、独自のノウハウを生かした新しい仕組み案件を創り出すことこそ、うちの得意とするところだからな」 「まあね。ところで、なんですか今夜は?」  東山が、わざわざそんな褒め言葉を言いに岸本のところに来たとは思えない。岸本は前置きなど必要ないから、早く本題に入ればいいのにと思った。 「一段落したら、ちょっと僕のところまで来てくれないかな。聞きたいことがある」  あらたまって話とは何だろう。東山にしては、いつになくもってまわった言い方だ。どんな話をするときでも、たとえ人がそばにいようと、大して気にはしない男である。そこまで言っていいのかと岸本がたびたび心配するぐらい、東山は周囲に頓着しない男だった。それが、今夜の東山はどこか違う。いつもなら決してこんな言い方はしないのだ。岸本はそれが気になった。 「わかりました。あと五分で終わります」  岸本はあえてどんな話だとは訊かなかった。東山が言わないには、言わない理由があるはずだ。 「すまん。じゃあ、あとで」  東山はそう言って岸本に背を向けた。それだけで十分だった。岸本が何かを察してくれたことだけで満足だ。こういうときの岸本の反応を見るだけで、東山は岸本を引き抜いてきた自分の判断が正しかったことを、あらためて確認できたような気がする。  エレベータを待たずに、東山は久し振りに十九階の役員フロアまで階段を上った。踊り場をぬけ厚いカーペットを敷き詰めた長い廊下の突き当たりに、メイソン・トラスト銀行の極東代表の部屋がある。すでに役員も、秘書達もほとんど帰宅したあとのフロアは、コトリという物音すらしない。ドアを開け、広い部屋の中央に置かれた、大きすぎるほどのデスクに着こうとしたとき、ノックの音が聞こえた。 「おう来たか、早いな」  東山が言い終えるより早く、岸本は部屋に入ってくる。 「一分でも早いほうがいいのじゃないかと思って。それに、こっちにも聞いてもらいたいことがあったものですから」  岸本は、手に持った分厚い資料のファイルを少しだけ持ち上げてみせた。 「相変わらず、無駄がない男だな」  あきれたような顔をして見せはするが、東山としては最大の褒め言葉だった。こちらの気持ちをすばやく察し、言われなくても欲しいものを用意してくるようなところがある。東山は、岸本のこういうところもまた、高く買っていた。 「何かうるさく言われましたか? 康和の債権のことですよね?」 「まあそういうところだ」  東山はあいまいにうなずいた。 「ニューヨークのスワップ・デスクからですね? |信 用 枠《クレジツト・ライン》が一杯だとかなんとか言うんでしょう。ここにリストを持ってきましたが、このとおり期日の調整をうまくやっていますからね、残高自体は大したことないんですよ。取引件数だけをみると凄い数字になるので、彼らはびっくりしているだけです。何回も説明してやっているのに、わかってないんだな。彼らにだって結構儲けさせてやってるんですよ。何にもしないで利益を出させてやっているんだから、感謝こそすれ、文句を言われる筋合いはないはずですがね」  岸本は資料の中から、関係する数字を指さして東山に見せる。 「いや、違うんだ。言ってきたのはうちのニューヨークではない」  東山は、岸本の先走りに小さな苦笑を浮かべた。 「本店のやつらじゃないと言いますと?」 「|大蔵省《MOF》だよ」 「え? なんで|大蔵省《MOF》が言ってくるんですか。あんな、康和みたいな危ないところの|凝《しこ》った債権を買ってやっているんですよ。言うなれば不良債権の処理に協力してやっているんじゃないですか、それをなんで|大蔵省《MOF》が文句を言うんですか?」  岸本は憤慨して声を荒らげた。 「取引の記録を出せというんだ」 「うちがやった康和銀行関係の取引の記録ですか。どの程度ですか?」 「過去半年間分、全部だ」 「口先介入ですね。大蔵のよく使う手だ。裏になんかあるんですね」 「ああ」  そう言ったきり、東山は口を閉ざした。岸本は、東山のもの言いが気になった。どうもはっきりしない。まったくいつもの切れがないのだ。当局が、突然ある特定の取引記録の提出を求めてくるということは、何を意味するのか。答えは明白である。同じ邦銀勤務の経験のある東山なら、すぐにわかる常識のはずだ。  つまりは、当局がその取引の自粛を求めているのである。何らかの特別の背景や思惑があり、公然と通達の形をとれないだけで、その意図するところはただひとつ、岸本たちがそれ以上同じような取引を継続することが気に入らない理由があるのだ。 「何ですか、康和を買うなといってくる理由は?」  勘のいい岸本を見ながら、東山は次の言葉を言い出しかねていた。 「どうしたんですか。なんだかいつものあなたらしくない」  岸本がそう言おうとしたとき、ついに東山が重い口を開いた。 「買うなと言ってきたんじゃない。その逆だ」 「逆って?」 「少々やっかいな話なんだ」  それでもまだはっきりと言わない東山の口調に、岸本はただならぬものを感じ始めていた。 「康和銀行を救ってくれと言ってきた」 「救えって、あの不良債権の固まりみたいな康和銀行をどうやって救えっていうんですか。周囲がこれほど心配しているのに、当の本人たちには危機意識が薄いのか、ただ手をこまねいて見ているだけだ。自分達の手で腐った部分を削る勇気も、|膿《うみ》を出す知恵もありはしない。同業の邦銀たちも、吸収合併の手を求められながら、こぞって協力を拒否しているんですよ。いまは自分に降り掛かってくる火の粉を払うだけで精一杯ですからね。まさか大蔵省がうちに対して、康和銀行を吸収合併してくれと頼んだわけじゃないでしょう?」  そんなことはあるはずもないと笑いながら、岸本は言った。だが、言い終わらないうちに真顔になった。東山の目がにこりともしていない。 「まさか、そうなんですか?」  岸本の言葉に、東山は黙ってうなずいた。 「驚いたなあ。康和というのは、こういうことにだけは手回しが早いですね。さすがに頭取自身が大蔵省からの天下りで、副頭取が日銀の出身というだけある。ちゃっかりと大蔵に手をまわして、東山さんに打診させたわけですね」  岸本の反応に、今度は東山が声をあげる番だった。 「おまえのところにも、すでにアプローチがあったのか?」 「ええ、実は康和のほうから、僕のほうにも直接話があったんです。彼らにしてみれば、いまはワラにもすがりたいときですからね。昔のよしみで、僕にまで声をかけてきたのだと思うと、ちょっと痛々しいぐらいでしたね。しかしここまで本気だったとは」 「そういえば、岸本は若いころ康和銀行にいたんだものなあ」 「はい。大学出たてのころほんの三年ばかりですけれどね。ですから、もともと康和には昔からの知りあいも多いのですが、今回康和の債権をずいぶん買ったことで、新しい顔見知りもずいぶん増えまして、その連中から呼び出しが来たんで気軽に出かけていったんです。そうしたら、いきなり向こうの役員達が出てきたので、びっくりしましたよ。実はその中に、昔の上司がいたもので二度びっくりというわけです」  一度詳しく状況をまとめてから、東山にも報告するつもりだった。だがすでに大蔵省まで巻き込んで、東山に話をもちかけているとは、予想もしていなかったのである。 「康和は必死だから、いまとなってはなりふりかまっていられないのだろう。最後は大蔵省がなんとかするとはいうものの、どういうかたちで生き残るかは、おそらくここ一年が勝負だろう」  東山のほうは、むしろ康和に対して同情的に見えなくもない。 「合併という段階まで言うと、うちにはメリットないですよ。あんな贅肉だらけの肥満児を抱え込むのはごめんです。この件については、もうニューヨークには報告されたんですか?」 「いや、まだだ。康和の目的は、経営再建へ向けての世間へのアピールだろう。康和銀行がこの先資金の調達について、何か活路を見出せるという確かな材料さえ提供してやれば、金を出すところはすぐにも出てくるさ。なにもうちが金を出すまでもない。むしろ大蔵がうちに望んでいるのは、そのあたりの役どころじゃないかと思うんだ。どこかに強力な救世主があると見せかけて、再建への足掛かりになる出資者を説得できればいいわけだ。だからもしうちがそのあたりに協力してやる姿勢を示せば、こちらとしてはその見返りを要求できる。そうなれば、うちとしてもまんざらメリットがないわけではない」  東山はにやりとした。岸本はそんな顔を見て、それでこそ東山だと納得した。 「それはそうですね。彼らにとっての不良債権は、命を脅かす皮下脂肪か、もっと言えば癌細胞かもしれませんが、われわれにとっては料理次第で美味い素材になりますからね。この先も商売の種が確保できることを考えれば、メリットになります。提携行ということになれば、うちとしては材料を仕入れる専属ルートを確保するようなもの。彼らの|凝《しこ》った|玉《ぎよく》をどんどん叩いて安く仕入れ、うまく料理してから別の客にはめていけば、これ以上うまい話はないですからね」  なんといっても|取引 優先 主義《トランザクシヨン・オリエンテツド》だと岸本は思った。儲かればいいし、儲からないとわかればすぐに撤退すればいい。臨機応変に行動すればいいわけで、表面的には康和銀行の救済に一役買っているという印象を与えるのも、まんざら悪い役まわりではないのだ。 「とにかく検討の余地ありということか。両者にとって共通のメリットを確認できればの話だし、それにもっともふさわしい形をとればいいわけだからな」  東山の気持ちも固まったようだった。 「もう一点、康和銀行といえば日本の|小口金融《リーテール》業務に精通しています。古くから日本の事業法人にはかなり深く食い込んでいますし、悪名高い不動産関係の融資から、企業融資など、彼らが長年かかって集めた顧客リストや顧客の内部情報は、なんといっても宝の山ですよ。そのあたりも提携行という名のもとに、こっちのものにできるわけです」  岸本の言葉に、東山は大きくうなずいた。 「ビッグバンを視野に入れて、持ち株会社制度が認められたあとの市場の寡占化は、もう目の前に見えているからな。資本力のある銀行が、系列の生命保険会社や損保をはじめとして、同じ系列の信託銀行や証券会社をどんどん吸収合併していくことになるだろう。異なる業態同士でお互いの縄張りを侵食しあい、地域に密着した地銀も配下に置いていく」 「まるで昔の財閥の時代に逆戻りですかね。しかし、日本勢が不良債権処理にてこずったり、やれ信用縮小だのビッグバンだのと頭を悩ましているうちに、世界はもっと先を行っていますからね。欧米の業界再編のほうは最近とみに過激になってきました。ここ一、二年だけでも、ウォール街を舞台に、金融の一大再編劇が進行中ですからね」  事実、米金融業界での大型M&A(企業の合併・買収)の件数は、ここ一年ばかりで過去最高を記録した。かつて「ウォール街の王者」と呼ばれたソロモン・ブラザーズの親会社を買収した、総合金融サービス会社のトラベラーズ・グループは、傘下の証券会社スミスバーニーとソロモンを合併させ、新生ソロモン・スミスバーニー社を誕生させた。さらには、米国銀行持ち株会社シティ・コープとの合併を発表し、秋には、銀行と証券会社の双方にまたがる、資産規模約七千億ドルもの、世界最大の総合金融機関が誕生することになる。  クレジット・カードを中心とする|小口《リー》|金融《テ》|業務《ール》に強い商業銀行と、保険や証券業務を中核とする大手総合金融サービス会社とのこの合併は、東山と岸本が予言したとおり、業態を超えた金融機関の世界的な再編劇の始まりを示唆している。 「いや、ウォール街だけじゃなく、欧州でも同じことさ。スイス・ユニオン銀行とスイス銀行との合併は、世界でも最大級だったし、引き続き欧州の大手金融機関が、ウォール街での買収攻勢をかけている。逆に、米国勢の欧州市場への進出も加速するだろう。もはや国境を越えた再編劇が始まっているんだ」  東山はいったん言葉を切って、まっすぐに岸本を見た。 「おもしろい時代の幕開けになるな」  東山はぼそりとそう言った。この男の頭の中には、すでに康和銀行の存在の向こう側に、日本におけるメイソン・トラストの大きな未来図が描かれつつある。岸本はそのことを強く実感した。 「実際のところ外為法が改正になれば、一千二百兆円にのぼる個人の金融資産が海外の銀行口座を使ってどんどん国境を越えられるようになるわけですからね。ほかの外資もどんどん日本を狙ってきます」 「現在アメリカやイギリスでは、|通貨供給量《マネー・サプライ》の七、八パーセントが外貨預金や外債購入のかたちで国外に流出しているだろう。ドイツなどのように十七パーセントにも達しているところもあるのに、日本はわずか一パーセントにも達していない。これが改正外為法実施後には、五、六パーセントにまで達するとも言われている」 「円高是正が始まった九五年の七月から、九六年の末までで十二兆円の円資金が海外に流出したと言われていますが、今後は三十兆から四十兆もの円資金が流出することもあり得ますからね。げんにそのあたりを先取りして、外国為替業務のアジア地域の拠点をこれまでのシンガポールから東京に移して来たところもありますよ」 「ああ、バーニー・ブラザーズ証券だな。外為とデリバティブは東京支店を中心にするらしい。東京のオフィスの賃貸料が下がって以前より事務所経費を抑えられるからだろう」  東山も東京を地盤にした他の同業者の動きには、ことさら敏感だった。 「今後は、ほかの外資系の金融機関も同じように追随するところがたくさんあるでしょう。ただし日本で|小口客《リーテール》を相手にするとなると営業店網が必要になる。となると、康和銀行の支店網も利用価値がありますね」 「ただし、人間はほとんど総入れ替えする必要があるけれどな」 「いっそ、康和が完全に潰れてくれたら、安く買い叩けるんですがね。そうすれば、不良債権化した不動産担保ローンの買取りも、さらに安く仕入れられますよ」 「おいおい」  東山は、岸本をたしなめた。二人だけだからいいものの、他に聞こえると支障がある言葉だ。 「実際、現在うちはすでに潰れたところから、一〇〇の額面のものをわずか六・五で買っていますからね。それをもとの債権者に一〇で転売して、利ざやを抜いています。これも、転売のほうに手間がかかりすぎますからね、リーテール相手の営業網が欲しいところです」 「十億円のローンを六千五百万円で買っているわけか」  東山が、あらためて驚きの声を発した。売り手の銀行にしてみれば、もともと回収不能な債権なのだから、たとえ六パーセント強の資金でも回収できるのならと飛び付いてくる。そして、転売先の債権者にとってみれば、もとの額面の十分の一で買い戻せるのだから、喜んで買うのだという。 「こういうことが可能なのも、邦銀というのは、いつもみんなが同じ方向を向いて横並びのことしかしないからです。どこかがだめと言えば、みんながだめだと思って見向きもしなくなる。誰かがいいといえば、なぜいいのか、本当にいいのか|吟味《ぎんみ》もしないで、みんなそれを買いたがる。単純というか、浅はかというか──」  本当の価値も理解しようとせずに、全員が残らず一方向に突進するから、市場がバランスを失い、価格がいびつに動く。その隙を狙い、逆手にとって、メイソン・トラストのような外資系が、いとも簡単に有利なビジネスを展開できるのだと岸本は解説した。 「よしわかった。では康和の件は前向きに検討してみるか。うちのメリットだけ取って、だめならいつでも切り捨てればいいのだからな。日本でも、中途半端な銀行が下手なことをやっていたら、すぐにはじき出されてしまう時代になるのは間違いがない。これまでみたいに、力のない金融機関でも必ず守ってもらえたという、甘い時代はもう完全に終わりだと、康和の人間にもいい薬になるさ」 「まったくです。銀行や銀行以外の企業の枠組みとか、日系や外資系の壁を超えて、本当に実力と資本力のある企業が力を発揮する時代ですよ。つまり、ますますプロ集団の出番というわけです。東山さん、これはおもしろくなりそうですよ」  岸本は、東山の目の奥に何かが妖しげに|蠢《うごめ》くのを見たと思った。その正体が、自分のなかにあるものと同じものであることもよく知っている。 「出番だな、岸本。ついに、俺たちの本当のゴールが見つかるかも知れん」  岸本は大きくうなずきながら、頼もしい思いで東山を見た。     5  康和銀行が、メイソン・トラスト銀行に先駆けて、資本提携の折衝に入ったことを公表し、大揺れに揺れた一週間が終わった。  三月初旬にしては汗ばむほど、穏やかに晴れた土曜日の昼下がり、都心の巨大ホテルにある新館七階のテニス・コートでは、すでに一時間にわたる白熱したプレーが終盤を迎えようとしていた。  ダブルスのゲームは、片方が男性二人のチームであるのに対し、もう一方は男女のミックス・チームである。本来ならば、歴然とした体力の差が生じるところだが、このミックス・チームにはまるで遜色がない。遜色がないばかりか、むしろ女性のほうが男性パートナーのミスを完全にカバーしているのである。  相手からどんなに強烈なショットを打ち込まれても、軽快なフット・ワークで必ず正確なリターンを返し、逆に相手のミスを誘っていく。ましてや、相手が少しでも油断をすれば、すかさず死角をついて攻め込むという、完全な頭脳プレーだった。  華麗とも言うべき女性のプレーに、奮起した男性チームは、途中から巻き返しを図り、ついに最終セットの最終ゲームを迎えた。競りに競った試合は、レシーバー側の女性のブレイク・ポイントを迎えるにあたって、両者一歩も譲らぬ場面となっていた。言い換えれば、この一球が勝敗を決めるというわけだ。  パートナーがミスしたボールをうまくカバーし、エンド・ラインから猛烈なスピードで返球された真新しい黄色のテニス・ボールは、運悪くネットの白いコードに当たったかと思うと、そのまま真上にバウンドした。まるでスロー・モーションの映像を見ているように、ボールは空中でほんの一瞬停止したかに見えた。コートのなかの四人だけでなく、コートの外でゲームの行方を見つめていたギャラリーも、目を見開いたまま、まばたきもしないでボールを追った。  次の瞬間、黄色いボールはもう一度ネットの白いコードに当たり、そのまま失速して、鮮やかな緑に塗られたハード・コートの地面に、ぽろっところげ落ちた。  コートの最後部、エンド・ラインからさらに三歩ほど後ろに立った有吉州波は、激しい呼吸に肩を上下させていた。自分の打ったボールが落ちたのがネットのこちら側なのか、それとも向こう側だったのかすぐには判断がつかないのだ。そのとき、コートの中から拍手がわき起こった。 「ナイス・カバー。完璧なショットだ。勝ったよ、有吉さん」  ネット際でボールの落下地点を見守っていた州波のパートナーが、勝利の握手を求めて州波に近づいてくる。ボールは相手のコート側に落ち、州波達のチームの勝利でゲーム・セットとなったのだった。州波もすかさず右手を出しながら男のほうへ走って行く。  白いショート・パンツに黒のタンク・トップ。それに白と黒のコンビネーションのテニス・シューズをコーディネイトした州波は、額にうっすらと汗を滲ませ、上気した頬が薄紅色に光って見えた。大きく出した肩先に、薄い細かなそばかすが散っている。 「ありがとうございました。宮島さん」 「いやあ、こちらこそありがとう。みごとなプレーでした。さすがアメリカ仕込みだけのことはある。ジョン・ブライトンが自慢していた通りでしたな。おかげで僕は大蔵省のテニス仲間の中で、長年の宿敵に対して悲願の雪辱をはたせましたよ。いや実に嬉しい」  宮島秀司は州波の手を固く握りながら|相好《そうごう》をくずした。ネットをはさんで、相手の男性チームからも握手の手が差し伸べられる。州波が宮島と組んで戦った相手チームの一人、相馬|憲暁《のりあき》というのは、歳は宮島と同じ五十一歳で、痩せ型の宮島とは対照的にがっしりとしたスポーツマン・タイプの男だ。大蔵省の高級官僚というよりも、プロ・ゴルファーとでも言いたいほど浅黒い。 「宮島、どこでこんな強力な隠し玉を見つけてきたんだい。おまえも隅におけないよな、まったく。有吉さんっておっしゃいましたよね、実に素晴らしいプレーでした。僕も今日ばかりは久しぶりに真剣になりましたよ」 「おいおい、そんなことを言ったら、これまで僕とやってきたゲームは真剣じゃなかったということになるじゃないか」 「もちろんだよ。おまえだけなら、真剣になる前に勝負はついてきたものな。しかし、みごとな腕前でした。いかがですか有吉さん、宮島みたいな男は放っておいて、次からは私と組みましょう」  相馬は握手の手を離さないまま、じっと州波の目を覗き込んだ。 「しかし、宮島のような堅物に、こんな素敵なテニス・パートナーがいるとはまったく驚きでしたな」  恥じらいの笑みを浮かべる州波の手を、相馬はまだ離そうともしない。見かねたように、宮島が無理やり割って入った。 「だめだめ、彼女は僕の専属パートナーなんだから、君には手出しをさせないよ。なんといっても、彼女は僕の親友のブライトンから、特別に紹介してもらったのだからね」  宮島は州波を自慢するように話を始めた。州波は子供っぽいとも言えるような二人の男の会話を、微笑みながら聞いていた。 「ブライトンって、あのエコノミストのジョン・ブライトンか?」  大蔵省の官僚レベルで、ブライトンの名前を知らないはずはなかった。 「そうだよ。今回初めて東京に来たんだよ。僕が何度誘っても、来ようともしなかったのに、どうして気が変わったのだか。先々週久しぶりに会ったんだけれど、そのときにね、ひょんなことから今日の試合のことを話したのさ。君にはなかなか勝てないから悔しくてしようがないってね。そしたら彼が、それならいいパートナーがいるよと言って、有吉さんのことを紹介してくれたってわけだよ。彼女はモーリス・トンプソンの本社にお勤めになっておられてね。最近東京に転勤して来られたんだそうだ」 「へえ、そうなんですか。では、まんざら今後もご縁がないわけではない」  相馬は、わが意を得たりという顔であらためて州波を見る。 「モーリス・トンプソンのニューヨークからおいでになったとは、テニスだけでなく仕事もおできになるというわけですね。どうです、これを機会に今後のためにも、今夜はわれわれと夕食をご一緒におつきあいいただけませんか」  相馬は宮島を押しのけるようにして、一歩前へ足を踏みだした。 「それはいい。いかがですか有吉さん、今日のお礼に、僕に何かうまいものをご一緒させてください。みんなでパッと祝勝会といきましょうよ」  宮島も相馬の言葉に追随する。州波は嬉しそうに微笑んでから、丁重に礼を言った。 「ありがとうございます。お誘いいただいて大変嬉しいのですが、残念ながら今夜は別の予定が入っておりまして、仕事ですので、どうしても抜けられませんの」  州波は心から申し訳なさそうな顔をした。 「土曜日なのにですか。そんなこと言わずにつきあってくださいよ。われわれのようなおじさん相手ではお嫌でしょうが」  相馬があきらめられないように食い下がる。 「いえいえ、そんな、本当に仕事なんですよ。私もせっかくですからご一緒させていただきたいのですが、どうしても抜けられないものですから、申し訳ありません」 「そうですか。仕事ではやむをえない。ではまたぜひ次の機会を設けましょう」  宮島はまだ残念そうに言う。 「ええ、ぜひ」  州波はそう言ってラケットをケースのなかにしまいながら、もう一度丁寧に頭を下げた。 「では、着替えてそのまま失礼いたしますので、今日はここで。本当にありがとうございました。私はこのあともずっと東京におりますので、これからもよろしくお願いします」 「そうですか。では、今日のところはしかたがないから、われわれは男同士で一杯やってから帰ります。お宅までお送りしなくてすみません。でもまたぜひテニスのほうは、お相手願いますよ」  宮島もそれ以上引き止めては悪いと思ったのか、その場で別れを告げた。  テニス・コートを去っていく州波の引き締まった脚を見ながら、相馬はまだ未練がましい声をだした。 「残念だったな。せっかく一緒に夕食をと思ったけど、体よく断わられてしまったよ。いやあ彼女は固いな。なかなか手ごわい相手だ。それとも今夜はデートなんだろうか。アメリカの会社が、土曜日の夜も仕事のアポを入れるとは思えんからな。うまく断わるための口実だったのだろう。ちょっと利発すぎる雰囲気があるが、それにしてもいい女だよな。彼女なら、まあ男が放ってはおかんだろう。やっぱりわれわれおじさんじゃだめということか、なあ宮島」  相馬は未練がましく一人で喋り続けていた。その情けない声を笑いながら、宮島は言った。 「これが日本の銀行や証券会社の人間だったら、何があっても絶対断わったりはしないのだけれどな」 「彼女はニューヨークの金融界育ちだろう。まだこっちに来て間もないのだからしかたないさ」 「しかしなあ、こっちは大蔵省の証券局と銀行局の人間で、彼女は証券会社の人間だよ。しかも、僕らがこっちから誘っているわけだし、普通なら、二つ返事で、何を置いてもつきあうもんだよ。むしろ向こうから尻尾を振って、喜んでついてくるものじゃないか」  宮島は、断わる人間の心境が信じられないと言いたかったのだ。 「まあ、それは当然だよな。たとえ外銀や外資系証券の人間でも、およそ金融業界に籍を置く身なら、われわれが言えば絶対に断わったりはしないさ。むしろ今日みたいな場合は、向こうから夕食に誘ってくるものだよ」  相馬に言われるまでもなかった。宮島は、どんなことであれ、自分から言い出して相手に断わられたことなど、過去に一度もなかったのである。だからこそ、州波の態度にこだわっている自分を感じた。そういうことをすべて計算の上で、州波があえて誘いを断わったことなど、このときの宮島には、思いもつかないことだった。 「そうだよな。大蔵省の人間よりも、優先しなければならない大事な仕事の相手など、この世界にいるはずがない。仮にあったとしても、そんなこと決してわれわれの前では言わないよ。それにしても、あんなふうに簡単に断わられると、かえって気になるもんだ」  宮島は、こうなったからにはどうしても州波を誘いたい、という気持ちがわいてくるのを感じた。それを察したのか、相馬は意味ありげな視線を投げ掛けてくる。 「またテニスに誘ってみる気か?」 「食事のほうにもさ」  宮島が思わず答えたのを見て、相馬はにやりとした。 「本当に食事だけか?」 「どういう意味だ」  宮島は怒ったように言い返した。 「彼女なら相手にとって不足はなかろう? おまえがいつも言っているような条件をすべて備えていそうな女じゃないか。あんな女はめったにいないぞ」 「ばか、変な気をまわすな」  宮島は、そう言って相馬の顔にタオルを投げつけた。だが、そのタオルを投げ返したときには、相馬はすでに気持ちを切り替えていた。 「さてと、どこで飲もうか?」 「この前のところでもいいかな。あの店なら融通がきくから」  意味はわかっているだろうという顔で、宮島が相馬の顔を見る。 「康和銀行の役員連中と行ったところか?」 「ああ。彼らは必死だったけれど、そのわりにはあの店、大したところじゃなかったな。昔は康和銀行といえば、もう少しましなところに連れて行ってくれたものだったけれど、貧すれば鈍すというところか。これもご時世というやつだろう」 「つまらん時代だな。しかし、何も変わらんさ。世の中どこかが沈めば、別のどこかが浮かぶ」  相馬は、口ほどには不満そうでもない。あきれた顔をしている宮島を無視して、さらに大きな声のまま続ける。 「ところでどうなんだ、メイソン・トラスト銀行との救済合併の話はうまく進みそうなのか。今週の初めには、新聞で大騒ぎだっただろう。相変わらず、古い手を使ってるなと思ったよ。事前に新聞社に大きく書かせて、情報操作か?」  二人は一、二年ごとに銀行局と証券局を行き来している間柄だ。それだけに、問題の状況も互いの立場も十分すぎるほど理解しあえるのだ。 「おいおい、声が大きいよ。誰が聞いているとも限らないぞ」  宮島はあわてて周囲を見回した。幸い近くにはもう誰も残っていない。 「大丈夫さ、こんなところに誰もいやしないよ。だけど、康和の櫻井さんもカメラを前にいい芝居をしていたな。まったく役者顔負けだ。テレビのニュースで見たときは笑ってしまったよ。新聞向けのシナリオで、メイソン側とはうまく事前にすり合わせをしておかなかったのだろうかね。メイソンの東山さんは、合同記者会見を拒否したそうじゃないか。今回は相手が外銀だから、そうはこっちの都合よく口裏を合わせてくれなかったとみえる。櫻井さんとしては、うまくお茶を濁したようだったけれど、マスコミが康和の中に隠れている問題に感づいたらどうなるかと、胆を冷やしたよ。そうなったら、あれだけでは到底終わるまい」 「隠れている問題というのは、例の事件のことか?」  宮島は極端に声を低くして訊いた。 「ああそうだ。だけど、あれしきのことはこれまでどこの銀行でもやってきたことだからな、早晩表面化してきても不思議はない。みんな明日はわが身さ。ただ、表向きは口をぬぐって、初めて気づいて驚いたような顔をしているだけでね。どこも狐と狸ばかり揃っているから」  相馬は声を小さくする気配さえもなく、まったく動じていない様子だ。 「おまえはいつも楽観的でいいよな」  宮島の口調には、実感がこもっていた。 「宮島のほうが神経質すぎるんだ。そんなんじゃいまの省内では身がもたんぞ。われわれにしても、この先どっちにころぶかわからん身だ。どうやら首相の|胆煎《きもい》りの今回の機構改革は、これまでみたいに話だけでは済まないだろう。たとえ政権が保保だの保革だのと変わったところで、これまでみたいに途中で立ち消えにはならないかも知れん。そろそろわが身の先行きも考えておいて、あとはのんびり行くとするか。いまみたいに、いつもちょっとしたことでピリピリしていたら、やってられんよ」  相馬はいったん言葉を切った。 「それになあ宮島」  そう言って、すぐにまた宮島の顔をのぞきこみ、耳元に口を近付けて愉快そうな顔で続けた。 「有吉嬢みたいな女性を相手にするなら、もっと腹をすえて、度胸を決めなければだめだぞ。おまえの得意なねばり腰というやつでな。彼女はそのへんの女とは違って、なかなか手ごわそうだ。たとえ苦労しても、それだけの価値はありそうだけどな」  相馬は笑いながら宮島の背中をどんと叩いた。 「おいおい、勝手に思い込むなよ」  そう言って相馬をたしなめながらも、宮島はひとり考えをめぐらせていた。確かに価値はありそうだ。しかも、もうひとつ別の意味でも。  相馬に悟られないよう注意しながらも、抑えてもわきあがってくる密かな思いに、宮島は思わず目を細めた。  男達がそんな話題で盛り上がっていることも知らず、有吉州波は宮島たちと別れてロッカー・ルームに向かいながら、今日一日の首尾に考えをめぐらせていた。  テニスを一緒にするという、思いがけないかたちで会うことになったけれど、宮島秀司は、ジョン・ブライトンから聞いていたとおりの男だった。東大の法学部出身で、典型的な日本のエリート・コースを歩いてきたにもかかわらず、どこか野性的な匂いのある男だ。五十歳を超えてもまるで|贅肉《ぜいにく》のない精悍な身体つきは、そのまま宮島の自制心の強い生活信条を物語っているようにも見える。  州波が、今夜仕事の予定があるというのはまったくの嘘だった。宮島がわずかに見せた自分への興味を見逃さず、しっかりと認識した上で、あえて誘いを断わったのである。しかも、明らかに口実だとわかる理由で断わってみせた。すべては、計画どおりの行動である。そして、それが期待通りに進んでいるのを感じた。  ブライトンに頼み込んで、すぐにも宮島を紹介してもらったものの、州波は自分から宮島に誘いかけるつもりはなかった。そういう素振りは決して見せてはいけない。宮島のほうから誘わせるのだ。  心配ない。すべては予定どおりに運んでいる。州波には確信があった。まもなく何かのかたちでもう一度宮島に会うことになるだろう。宮島は間違いなく州波を誘うことになる。そのときまで、州波はひたすら待たなければならなかった。こちらから行動することは一切してはならない。そういう気配さえ見せてはならないのだ。誇りを保って、冷淡とも見えるほど毅然としていればいい。宮島が自分へのアプローチに苦慮すればするほど、あとのことがやりやすくなる。  宮島への接近が成功するかどうかが、州波のこれからの目的達成を大きく左右するのは間違いなかった。それを考えるといよいよ緊張が高まってくる。いまがすべての分かれ目なのだ。州波はあらためてそう感じずにはいられなかった。     6  グラスにあふれんばかりに氷を入れ、スコッチを思い切りよく注ぎながら、相馬は言葉を継いだ。  相馬の動きを見て、あわててテーブルにやって来た店の若い女性が、相馬がこぼした水滴を手際よくぬぐって、すぐに気を利かせて席を離れる。そのあたりの細やかな気遣いは、小さいながらも客筋のよさを物語っているような行き届いた店である。宮島達がどういう立場の人間なのか、一度で顔を覚えていて、黙っていても、勘定をどこへ請求すればいいかまで心得ているのだ。 「それで、メイソン・トラストの連中は、康和銀行との救済合併に対するうちの要請に、何と言っているんだ」 「まだこれと言って、はっきりとした意思表示はしていない。彼らにしても損な取引はしたくないだろうからな。十分に採算ベースを計算しているさ。いずれはしかるべき交換条件を持ち出してくるだろう」  宮島は一段と声を低くして答えた。  赤坂の細い裏道を入った、雑居ビルの三階にあるこのバーには、宮島たち以外の客は奥まった部屋の向こうに、もう一組いるのが見えるだけだ。店に入ったときすぐにやって来た背の低い和服姿のママも、いまはそちらの客の相手をしている。宮島がさっき洗面所に立ったとき、垣間見えたその客は、テレビなどで見かける皇族の一人に似ていた。  そのことからしても、ここがそれなりの店なのだと納得できた。何かあるとすぐに影のように現れて酒の世話をし、終わるとすぐに離れるという気遣いを見せる若いホステスたちも、華美に走らず趣味のよい格好をしている。 「まあな、彼らは外銀だから、邦銀みたいにそう簡単にわれわれの言いなりにはならないだろうさ。康和のほうにもあまり強くは出られない弱みがあるしな。なんといっても、例の一件があるから」  相馬は、こんどばかりは自分でも声をひそめた。 「実際のところはどうだったんだ。あいつら、その後の処理はうまくやっていると思うか」  宮島も自然に声が低くなる。 「二年前|非課税地域《タツクス・ヘヴン》の子会社につけかえたらしいから、もういいと思っていたんだが、まだ表面化していないものもありそうな口ぶりだった。ペーパー・カンパニーでもなんでも作って、さっさとやってくれればいいのに、鈍いというかなんというか、まったく嫌になるよ。とはいえ、|飛ばし《ヽヽヽ》もそう大々的にやられると、最近は面倒だしな。これ以上になると、よほど情報操作や、機密保持をうまくやらないと、世論もマスコミもうるさくなってきた。おまえも今年あたり苦労するかもな」  相馬は顔をしかめた。 「康和も、この前の大和のときみたいにはならないことを望むよ」  宮島も心配を隠せない。 「まさかあそこまでひどくはないだろう」 「いや、似たようなものかもしれん。それに、今度ばかりはそうやすやすと表に出せないだろう。よっぽど慎重にやらないと、|米国連銀《フエツド》が今度こそ許さないだろうし、内では一連の総会屋への利益供与だとか、道路公団の一件でゴタゴタしたばかりだろう。うちの内部の接待や収賄容疑はなんとかあしらえても、こうスキャンダルが重なるとやりにくいよ」  宮島はほとんど聞き取れないほどの声で言う。 「だからメイソン・トラストの看板が必要というわけか。それなら、うちから|米国連銀《フエツド》へ働き掛けて、メイソン・トラストに圧力をかけるわけにはいかないのか。そうすれば彼らもうんと言わずにはおれないだろう」 「いや、うちが|米国連銀《フエツド》とそれほど強力なパイプがあるとは思えない。まあ、圧力をかけるとすれば、政治家を使うしかないな。メイソンの上層部には、たしかそっちの関係のキー・パーソンが誰かいるだろう」 「ああ、上院議員のロビンソン三世だろう。それが無理なら、メイソン・トラストのほうに何かエサを与えて、釣り上げるということはできるかもしれない──」  相馬はそこまで言っていったん顔をあげ、遠くを見るような目をしてつぶやいた。 「ただな、やっかいなことがひとつある」 「何だ?」 「一人死んでいるんだよ」  宮島は相馬の言った言葉にというより、むしろその顔のあまりの深刻さに驚いた。 「え? 死んでるってどういうことだ。俺は聞いてないぞ。もしかして、いつか現地のホテルから飛び降りた、康和のニューヨーク支店にいた男のことか。向こうの新聞では、単なるノイローゼだとか心身症だとか、なんかそんな理由になっていたよな。康和が記事を押さえたから、日本ではニュースにならなかったよな。その男、何か今回のことにからんでいたのか?」 「ちょっと、やっかいなことになりそうなんでな。頭を痛めているところなんだよ」  相馬は苦々しくそう言って、持っていたグラスのスコッチを飲み干した。     7  大手町の康和銀行本店ビルでは、八階にある役員会議室の正面に置かれたワイド・テレビの画面に、さっきからもう何度も同じビデオが流れていた。先日各局のニュース番組で放映された櫻井頭取の記者会見の模様を、総務部で録画し、一本のテープにまとめたものである。  集まった役員達は、若い女性秘書がうやうやしい仕草で配っていった緑茶をすすりながら、大きな会議テーブルを囲んで、おとなしくじっと画面に見入っていた。 「いやあ、何度拝見しても頭取のスピーチは素晴らしい。さすがに櫻井さんだと敬服いたしました。おかげでわが行としてもいいアピールができましたな。これで伝統ある康和銀行の将来も安泰。万事めでたしめでたしというところですかな」  副頭取の森政一がひときわ大きな声でそう言って、高笑いをする。喉に息を詰まらせるような、引き攣れた笑い方だ。笑うたびに、首や顎のあたりの贅肉が揺れ、てらりと光った額に、太い血管が浮いた。  口火を切った森の言葉に同調するように、あちらこちらから役員たちの賛同の声と、|媚《こ》びるような笑い声が一斉にあがる。櫻井が、記者団の質問に向けて、胸を反らしてコメントをするシーンでは、拍手する者さえ出る始末だ。 (これでは、会議というよりも、まるでお祭り騒ぎではないか)  高倉光明は、ひとり疎外感を味わっていた。  異例の人事異動で今年初めにニューヨーク支店長に赴任して以来、初めて帰国した高倉だったが、会議室に一歩踏み入れた途端失望を味わった。  入行四年目に社内の留学制度試験に合格し、シカゴ大学のビジネス・スクールで|経《M》|営学修《B》|士《A》を取得したあと、高倉は、東京本店で十五年、ロンドン支店で五年半と、国際金融畑一筋に歩んできた。  その経験を買われての昇進だから、思う存分手腕を振るえと激励され、意気揚々とニューヨークに発ったものの、実際に赴任してみると、支店の業務縮小にともなう雑務と、現地採用者の首切りに追われる毎日だった。最初から、期待される仕事など何も残されていなかったのである。  そのくせ、今回の米銀との提携を勘案した役員達から、こうした会議になると必ず呼び付けられ、海外事情に疎い櫻井頭取をはじめとする、康和銀行の古き良き時代を生き残ってきた国内派の役員のために、|細々《こまごま》とした資料の準備や、詳しい解説係に起用される。 (いつもそうだ。いつまでたっても、この銀行は変わらない。こうまで危機的な状況に直面しているのに、まるで何もわかっていない)  これまで何度となく見せつけられた光景が、今日も眼の前で繰り広げられている。高倉はその救いようのなさに、歯がみする思いだった。  実際、メイソン・トラストとは、提携に関する基本合意に達したとはいえ、具体的なことは何ひとつ決められていない。櫻井頭取は、失敗を怖れるあまり、相変わらず長期展望を打ち出すことができないでいる。そればかりではなく、頭取としての任期がそう長くはないと自覚しているためか、退任後の落ち着き先探しにすべての関心が向かっているのだ。  かといって、他の役員連中もまったく付和雷同を決め込んだ烏合の衆で、まず周囲の人間の顔色を見てからでないと、意見を言おうとしない。  ただ一人、野心家を地で行く副頭取の森だけは、何かにつけて先に立とうとはするが、それでもいざとなると、自らにリスクがかぶるのを警戒してか、まず頭取を矢面に立たせて後ろから操ろうとする。見かけは頭取を立てているような素振りだが、むしろできるだけ頭取にリスクをとらせ、一日でも早い失脚を望んでいる様子が見え透いている。  どちらにせよ、自分自身の出世と保身にのみ熱心で、本当に銀行の将来を考えるような、強いリーダー・シップのある人間などいはしない。いつまでこういう人間達に任せておけばいいのだろう。高倉は心のなかでは辟易しながら、かといって何もできない自分自身にも苛立っていた。  今日の会議には、高倉のほかにもう一人、役員以外で常連の出席者がいた。ドアにもっとも近い末席に座っている本多|浩信《ひろのぶ》である。高倉の前任者として、昨年末までニューヨーク支店長をしていた男だ。  頑強な体つきと浅黒い顔に、濃い眉と鋭い目つきが相まって、いかにも部下を威圧するような雰囲気がある。そのくせ上役には卑屈なまでに腰が低い。典型的な組織人間だ。急な支店長の交代で、高倉が準備のためニューヨークへ出向いた直後に、わずかに接する機会があったのだが、本多が示した高倉への態度には、驚くべきものがあった。  ライバル意識というより、むしろ敵意をもたれていると感じるほど、本多の態度は異常だった。 「高倉君なら、僕が教えることなどなにもありませんよ。何ごとも自分の好きなようにされたらいいのじゃないですか。事務的なことは秘書が全部知っていますからな。こちらでの大口の顧客についても、あなたのやり方でおやりになればいいでしょうし、僕なんかがあえてご紹介するほどのこともない」  本多はそう言って、本来するべき業務の引き継ぎも、主な顧客との顔つなぎも、ほとんど協力する気はないようだった。 「ですが本多さん、私はずっとロンドン暮らしでしたから、ニューヨークはなんといっても勝手が違いますので……」  高倉は、丁重な言葉を選んで教えを乞いたいと申し出たのだが、本多は、表面上は友好的な態度を保ちながらも、のらりくらりと逃げ通した。  業務記録にしても、各種の資料にしても、いまから思えば不自然なほど秘密主義だった。しかも、いったん日本に帰国して、あらためて高倉が正式に赴任してみると、業務の要になってきた秘書や現地採用のスタッフが、みごとに一掃され新しい顔ぶれと入れ替わっていた。  何が本多をそこまでさせるのか、高倉には理解できなかった。そして、理解できないことと言えば、本多と接したわずかな日数の間、ほかにもいくつかあったのを覚えている。  まず、ニューヨーク支店での本多は、高倉の前では一切英語を使おうとしなかった。本多が英語を使わないのは、実は使えないのではないかと思ったほどである。本多のデスクで偶然見た社内メモに、ごく日常的で簡単な用語まで、事細かにすべて日本語に翻訳した秘書のメモが添付されているのを発見したからだ。  それから、本多が金融市場に関する話題は、ことさら避けようとすることにも疑問を抱かざるをえなかった。具体的な話になると、本多は高倉の質問を巧妙にはぐらかし、一度たりとも答えようとしなかった。  ひとつだけ、高倉が本多に対して目をみはったのは、ミッド・タウンの日本料理屋で一緒に夕食をしたときのことだ。話題がひとたび社内政治や人事関係になると、本多は別人のように雄弁になった。とくに派閥や銀行内の人脈については、驚くほど詳しい。実際の業務成績ではなく、政治的な手腕でのし上がっていく人間の典型を見る思いがした。  今回帰国して初めて聞いたのだが、本多はどうやら次の人事異動で、役員に昇進することが有力視されているらしい。異例のスピード出世ということになるが、本多ならあり得るだろうと、高倉は思った。 「ニューヨークのほうはいかがですか?」  本多は自分のほうから声をかけ、椅子をずらせて高倉ににじり寄ってきた。退屈な会議に飽き飽きしているのは、高倉だけではなかったようだ。 「まだ全然慣れなくて、苦労しておりますよ」  高倉は声を低くしてそう答えた。もっとしっかり引き継ぎをしてくれれば、こんなにも大変な思いをせずに済んだのにと、高倉は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。 「本多さんのほうは、久し振りの本店勤務はいかがですか?」  顔では無理に笑顔を作って、大して聞きたくもない質問をする。 「まあ、ぼちぼちやってますよ。今度の仕事は、本行始まって以来の、将来を賭けたビッグ・プロジェクトですからな。なかなか荷が重いですよ」  言葉とは裏腹に、本多は今日の議題でもある、メイソン・トラストとの提携に関して、プロジェクト・チームの中心となって事を進めているのが自慢なのだ。  役員への昇進といい、プロジェクト・チームへの抜擢といい、本多はニューヨーク時代によほど特別の功労があったとみえる。今回のことで経営再建の立役者ともなれば、将来は頭取まで上り詰めることも夢ではないかもしれない。当然そのことも標的に入れて、着々と駒を進めているのは間違いなかった。 「そうだ、本多さんにはいいところでお会いしました。実は少々お聞きしたいことがあったんです。私が赴任してから、私自身の勉強のためにと思って、支店の過去の取引記録などを整理して読んでいるのですが、どうしても見つからないものがありましてね」  何気なく切り出した高倉の言葉に、本多は明らかに不快感を表した。 「そんなばかな、データやマイクロ・フィルムの類は、すべて全部向こうの保管業者に預けてあります。リストはお渡ししたでしょう。よく探されましたか?」 「はい、もちろんそのつもりです。顧客との記録はだいたい見つかったんですよ。ただ、うち自身の銀行勘定のものや、子会社や関連会社との間で生じた取引に関する記録の中に、一部欠落部分があるみたいで──」  データの保管契約をしてある業者には、保管リストをすべて提出させて調べたので、手抜かりはないつもりだった。 「君! それじゃまるで──」  本多は思わず声を荒げた。周囲の人間が二人に注目する。それに気づいた本多は、あわてて声をひそめた。 「──まるで、私が保管を怠っていたとでも言ってるみたいじゃないか」  声は低いが、けんか腰には変わりはない。高倉は、こうなっては引き下がるしかないと思った。 「いえいえ、そんなつもりはありません。たぶん、私の探し方が悪いんだと思うのですが、担当者に尋ねてみても、よく知らないというんです。いつか大蔵や連銀の検査があったときに困るといけないと思いましてね。本多さんにお聞きすればわかるのではと思っただけで──」  高倉が折れたので、本多はひとまず矛を収めた。 「アメリカ人というのは日本人のように几帳面ではないですからね。そのへんは上に立つ者の管理がよほどうまくないといけません。やつらはちょっとでも甘い顔をすると、すぐに怠けようとする。あなたも気をつけないといけないですな」  今度は、まるで高倉に管理能力がないせいだと言わんばかりだ。高倉は言われたままにしておくのも癪だと思い、話題を変えることにした。 「そうそう、もうひとつありました。先日うちの支店に、ニューヨーク市警察から人が来ましてね。昨年秋に自殺した行員のことで、もう一度聞きたいことがあるというのです」  本多ははっきりと顔色を変えた。その動揺を自分でも意識したのか、ひとつ咳払いをして、ゆっくりと口を開く。 「なんのことですかな、いまごろ?」 「あの明石君のことについては、僕はまったく面識がなかったものですから、質問されても答えようがなくてね。しかも、当時の事情を知る人間は、もうすっかりいなくなっていますから」 「そうでしたか。ニューヨーク市警察が、いまさら何を訊きたいというのかわかりませんが、あの一件はすでに調べも完了して、明石君のまったく個人的な理由による、発作的な自殺だと断定されたんです。あなたもよくご承知だろうが、銀行というところは、うちに限らず、行員の自殺などという不名誉なことは、決して表に出さないのが常識ですよ」 「それはもちろんです。ただいったい、あの前後に何があったかぐらいは知っておきたくて、もし本多さんとお話しする機会があれば、参考までに、そのあたりの事情を詳しくお聞かせ願えないかと思っていたんですよ」 「かなり神経質な男でしてね。息子の受験で女房も一緒に日本に帰していましたから、独り暮らしでよくふさぎこんでいたようです。仕事上でも、特に問題があったわけでもありませんし、ほかに理由はありませんから、たぶん真面目一方の男だったのが災いしたのでしょう。孤独を紛らすためにも適当な遊びを覚えればいいものを。ねえ、そうでしょうが。もっとも私も行員の私生活には、干渉するのを避けていましたからね。あの日、彼は夕方銀行を出るまで、まったくいつもと変わりなく勤務をしていました。それは間違いがないし、そのことは当時の同僚たちも証言しています。私としても、いくら上司とはいえ、銀行を出たあとのことまではわかりませんよ」  本多は一息でそう語り、まだ何か訊きたいかというように高倉を見た。 「そうですか、よくわかりました。ただ──」 「ただ、何ですか。まだ何かあるんですか?」  本多がまた大きな声を出した。その声は、今度こそ会議の司会者にまで届いたようだ。 「おい高倉君、君達はさっきからそこで何をぶつぶつ言っているんだ。頭取が記者会見でおっしゃったことに何か不服があるというのかね」  森副頭取が鋭い声で高倉を一喝する。役員連中の顔がいっせいに末席の高倉に向けられた。大声を出したのは本多なのに、名指しされたのはなぜか高倉だった。 「いえ、そんなつもりはありません。ただ──」  高倉は思わず椅子から立ち上がっていた。 「ただ、何だね?」  森は、一言も聞きのがしていないぞという顔をしている。 「私の立場で、こんなことを申し上げるのは大変|僭越《せんえつ》なのですが」  高倉は焦ってそう口走り、そのことをすぐに後悔していた。だが、言い出してしまったからには、もう引っ込みがつかない。なにか会議に関係あることを、言い|繕《つくろ》わなければならない。高倉の頭が急速に回転した。 「確かにメイソン・トラスト銀行とは大枠での合意に達し、新聞発表をという段階にまで来たとはうかがいました。しかし、契約内容の詳細については、まだ二行間で、何も決定したわけではないとうかがっています。なのに、マスコミにあそこまで宣伝するのは、ちょっと先方の心証を害するのではないかと──」  国際ビジネスの舞台では、自分側の慣習や都合を相手にばかり押しつけていると、とんでもない落とし穴がある。いい機会だからと、そのことを言おうとしたのだ。 「君はつまらん心配はせんでよい。先方とはトップ同士でうまくいっとるんだから、なにもとやかく言われることなどないんだ」  森副頭取は威圧するように言った。高倉は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。本多がしたり顔で、ちらちらと視線を送ってくる。 「諸君も十分にご承知のことだと思うが、今回のことは、わが行にとってはきわめて重大な局面です。言ってみれば、銀行始まって以来の非常時であります。ですから──」  煮え切らない物言いを始めた櫻井頭取に替わって、森副頭取が横から口を開いた。 「今回のことは、何もメイソン・トラストとの資本提携そのものが目的ではない。それは、みんなも十分ご承知のことだろう。うちは今後、早急に二千八百億円の資本調達をしなければならんのです。それを不良債権処理に充当して、なんとしても今期中に償却を完了するという大きな使命をかかえております。しかもこの資本調達に成功すれば、海外からうるさく言われているわが行の自己資本比率も、二ないし二・四パーセント引き上げることができる。しかし、そのために劣後債や優先株を発行するにしても、いまのままの康和銀行では、残念ながら資金の調達は難航するのが目に見えている。関連の金融グループでもあれば相互支援を期待できていいのだが、うちは独立系だからそうもいかん。だからこそ外資系の優良銀行と提携して、彼らのネーム・バリューを利用する必要があったわけだ」  森副頭取はそこでいったん言葉を切り、役員全員がそれぞれにうなずくのを確かめるように見回したうえで、さらに言葉を続ける。 「真の目的は、わが行の信用回復。早い話が、ほかからの資本提供を受けるための大義名分が必要だということです。これまでは、わが行ならどこからでも資本提供者が現れたものだ。だが、こういうご時世では、それもままならぬ。となれば、あとは外資系でもなんでも、形だけでいいから強力な後ろ盾を得て、信用は完璧に回復したと思わせるようでなければいかんのです。いくら現状が債務超過でも、資金の流れが止まらないかぎり、問題はない」  静まりかえった部屋のなかに、森副頭取の大きな声だけが響き渡った。 「ですから、私としても記者連中の前では十分なパフォーマンスを狙ったわけです。それが証拠に、会見の直後に株価が上がり、資本提供の話も動きが出てきているでしょうが……」  櫻井は、やっとそれだけ言葉をはさんだ。頭取のくせに弁解がましい言い方だと、高倉は思った。 「そうだよ。高倉君。頭取のおっしゃる通りだ。君は東京におらんから認識不足なんだ。わが行が直面している事態への危機意識が足らん」  弱腰の櫻井頭取とは正反対に、森副頭取は決め付けるように言う。 「いえ、それは違います。危機感を感じるからこそ、ここでメイソン・トラストの連中を怒らせるのはマイナスではないかと──」  どうしてそれがわからないのだ、認識不足なのは、あなたたちのほうだ、と言いたかったが、高倉は口をつぐんだ。 「情けないことを言うなよ。メイソン・トラスト銀行が全米トップの投資銀行かどうかは知らんが、ここは日本だ。そしてわれわれは、仮にも日本で百年の歴史を築いてきた天下の康和銀行だよ。そんなに外銀の顔色を|窺《うかが》わなければならんようになったとは思えないね。ちょっと前までは、どこからも最高位に格付けされるような最優良銀行だったのだ」  森副頭取はなおも言った。 「それが、いまは、トリプルBマイナスにまで格下げになっているのが現状です。トリプルBマイナスというのは、自力では再建不能だとみなされているということです」  そのことをはっきりと認識しなくてはいけないのだと、高倉は言いたかった。もはや過去の栄光にこだわっているときではない。しかも、現在の悲惨な事態にまでこじらせたのは、その栄光の時代に無軌道に突き進んだ、無謀で無知な野望のツケではなかったのか。だが、高倉はそこまで口にする勇気はなかった。 「君、口を慎みたまえ!」  森副頭取が大きな声をあげた。それを、櫻井頭取が横からとりなすように手で制する。 「まあまあ、森君もそう興奮するな。高倉君、そんなことは十分にわかっとるよ。心配はいらん。メイソン・トラストのトップ陣とは、うまく話が通じているから問題はない。それに、もしあそこが何か言ってきても、うちにはもう一行別口も来ておるのだから」  思いがけない言葉に、役員のなかにざわめきが起きた。まだ誰も聞かされていない事実である。動揺を隠せない役員のために、櫻井は隣りの席に座っていた山田常務に説明を求めた。山田が一礼してからおもむろに立ち上がり、事務的な口調で説明を始めた。 「まだ発表の段階ではないと考えておったのですが、この際ですので、ここにおいでの皆さんだけにはお耳に入れておきます。実は、現在ある米国系のコンサルタント会社を通して、やはり米銀ですが、もう一件別の提携の話が持ちかけられています。相手行はファースト・アメリカ銀行。ご承知の通り、西海岸に基盤を持つ全米でも二十位以内のスーパー・リージョナル・バンクです」 「何ですか、そのスーパーなんとかというのは?」  役員のなかから間延びした声があがった。 「うん、それは、あれだよ」  誰もが口ごもった。そして、気まずい沈黙が会議室にただよう。高倉は舌打ちしたい思いにかられた。都銀の役員ともあろう立場で、こんなことすら不勉強だとはあまりに情けない。高倉は思わず声を発していた。 「合併につぐ合併で最近急激に拡大し、実力をつけてきた、言ってみれば米国の有力地銀のことです。メイソン・トラストのような大手銀行をマネー・センター・バンクというのに対して使われる呼び方で、資産や利益の成長率が著しく、|資《R》産|収《O》益|率《A》や|自《R》己資|本《O》収益|率《E》も高い。不良債権も少なく資産内容も健全で、大企業との取引より主に地方の中小企業や個人との取引に重きをおいています」  高倉の説明は、だが、かえって逆効果だった。 「なんだ、若造が知ったかぶりして、偉そうに──」  はっきりと大きな声では言わないけれど、それぞれに|咎《とが》めるような視線を高倉に送ってくる。高倉はよけいなことを言わなければよかったと、すぐに後悔した。 「みなさん、お静かに願います」  山田が場を繕うように声を張り上げた。 「ともかく、そんな滑り止めがもう一つあったというわけだ。これは心強いことです」  どこからか感心するような声があがった。 「メイソン・トラスト銀行と、なんでしたっけ、そのスーパーなんとかという銀行とを両天秤にかけようというわけですな。さすが櫻井頭取。それにやはり、うちぐらいの銀行ともなると、目をつけてくる相手も一流どころばかりというわけですね」  役員たちはそれぞれに楽観的な受け止め方をした。 「ちょっと待ってください。そんな不誠実なことで大丈夫なんでしょうか。アメリカは契約社会だから、きちんと条件を確認しあって、調印を済ませるまでは安心できませんよ。なのに、一方で別の銀行との交渉を並行するなんて。これがメイソン・トラストに知れたらどうなりますか」  高倉は、今度こそ黙っていられないと思った。あまりに無知過ぎる。あまりに楽観的過ぎるのだ。そしてさらに問題なのは、本人たちがそのことに気づいていないことである。 「そもそもこのプロジェクト自体に、再検討の余地があるのではないでしょうか。こんな他力本願で、姑息な茶番劇とでも言いたくなるようなことを考えていないで、もっと他に康和銀行の再建の道はないのでしょうか。わが行が自力で不良債権を積極的に処理していけるような、新しい方法は見つかりませんか。焦げ付いている貸出し債権を証券化して売却するとか、他人任せではない方法があるのでは──」  高倉がそう言い始めたとき、突然本多が立ち上がり、言葉を遮った。 「なにを言うか、君、このプロジェクトのどこが茶番なんだ!」  会議室中に響き渡るほどの大きな声だ。本多は芝居がかった仕草で、至近距離から高倉を指さした。 「すみません。言葉が過ぎました。ただ私は──」  高倉は言葉に詰まった。 「高倉君、君はなにか思い違いをしているのではないか。われわれは何も外資系の銀行ごときにすがって生きていこうというのではない。ほんのちょっとしたきっかけに、彼らを利用しようとしているだけだ」  森が、離れた席から声をかけた。 「森副頭取、お言葉を返すようですが、そのこと自体に問題があると申し上げたいのです。米国系の投資銀行は金儲けのプロ集団です。甘く見ると、利用するつもりが実はこちらが利用されて、骨までしゃぶられるということにもなりかねません」  高倉は目を覚ませと訴えたかった。 「副頭取に向かって失礼だぞ。いったい君に何がわかる。MBAだかなんだか知らないが、たかが数年海外支店で働いたくらいで、何でもわかっている気になるのは大きな間違いだ」  本多が、ここぞとばかりに声を荒げる。 「しかし米系の投資銀行は、ここ数年、破綻した金融機関や事業法人に対して、かなりきわどい取引を重ねているのはご存知ですよね。表面上は、顧客の財務上の問題解決を助けるかのような態度で、瀕死の取引相手に近づいて、オフ・バランス・シートの商いや、複雑な仕組み案件などをどんどん勧めてきています。リターンは高いけれど、その分リスクの高い債券や、|て《レ》|この原理《バレツジ》の効いたオプション、それに高度なスワップの絡んだ決算対策用の商品を斡旋して、粉飾決算の手伝いをしているのです」 「ほう、決算対策用の粉飾を助けてくれるなら、願ってもないことじゃないですか」  櫻井頭取が無邪気な声を発した。 「ですが、彼らの本当の目的は、顧客の救済などでは断じてありません。だから問題なのです」  彼らの目的は、単に金儲けの一語に尽きるのだと強く訴えたかった。こうした仕組み商品は、通常の金融商品を売る場合に較べると、同じ額面のものなら数十倍から、場合によっては百倍以上もの収益を彼らにもたらすのだ。かといって、こうしたハイリスク商品がもし裏目に出て、実際に顧客の経営状態がさらに悪化しても、彼らは決してそれを気にかけることもない。彼らはあくまで|商売 第一 主義《トランザクシヨン・オリエンテツド》なのを知ってほしいと高倉は思った。 「自分たちが買わせたハイリスクの商品で、さらに経営危機に向かってしまった企業に対して、彼らが次にとる行動は、さらにモルヒネのような商品を紹介することです。現にレスキュー債などと呼ばれているようですが、あくまで痛みをやわらげる麻薬のようなものですから、毒性も高いし、いずれ命取りになりかねないものです、さらには──」 「いい加減な話はやめたまえ!」  本多が憎悪の声で遮った。だが、高倉はもうめげなかった。 「さらに、そうやってモルヒネを打ち続けた企業が、ついに本当に死に至った場合は、彼らは弁護士や資産管財人や、コンサルタントなどという聞こえのいい名前をつけたハゲタカを送りこんで、骨までしゃぶりつくすという行為がなされるのです。このあたりのことになると、日本ではまだ行なわれていないようですが、アメリカ本国では実際に──」 「頭取、こんなでたらめに耳を貸される必要はありません」  本多はさらに大きな声を出した。 「第一、われわれはそんな粉飾のための仕組み商品を買うわけではないですから。われわれは、あくまでメイソン・トラストの名前を借りて、ほかから資金調達をしやすくするだけです。高倉君の言っているようなケースとはまったく違う」 「しかし、これが米国系の投資銀行の姿です。ですから甘く考えては危険だと申し上げたいのです。現に私はこういう実際のケースについて、アメリカの投資銀行で働く友人から直接教わったのですから」 「それこそ矛盾するじゃないか。もしも、いま君の言ったことが本当なら、うちのような、カモになるかもしれない邦銀に、正直に手の内を教えたりなんかするわけがないだろう。いい加減なことを言うんじゃないよ」  本多はわが意を得たりという顔で、息巻いた。 「いいえ、本当です。私には米国系の投資銀行に勤務するアメリカ人の友人がいまして、彼とはインターネット上で金融市場の情報を交換しあうフォーラムで知りあったのですが、その彼に直接詳しい話を聞いたのですから間違いありません」  高倉は、ニューヨークに赴任する直前に知りあった友人のことを語ってきかせた。 「なんだね、そのインターネット上のフォーラムというのは?」  どこからか質問が飛んだ。 「インターネット上に、アメリカの証券ブローカーが何社か集まって提供しているサイトがあります。月々わずかな会費を払うだけで、為替や債券などの市場に関する最新の情報を、さまざまな角度から入手できるホーム・ページですので、重宝しているのですが、そのなかに会員同士が意見や情報を交換できるフォーラム、つまりチャットのコーナーがあるんです。そこには、市場取引に従事している人間が世界中から参加し、常時いろいろな意見を闘わせていますので、どんなことでも質問すると、誰かしらが答えてくれるのです。国籍や立場の違う他人の意見がわかって、とても勉強になりますよ」  高倉は解りやすい言葉を選んで説明した。 「チャットってなんですか?」  誰かが遠慮がちに訊ねる声がする。すぐに他の誰かが小声でそれに答えるのも聞こえた。 「なんでもね、電子メールとやらでお互いに文字を送って、顔も知らない外国の相手とでも、パソコンを使って好きなことをおしゃべりできるらしいですな。いまの若者の間では流行しているらしくて、うちの大学生の息子も最近よくやっているらしいんですよ」  高倉は声のほうに顔を向けてうなずいた。  あるとき、そのフォーラムに参加していた高倉に向けて、チャットの場で質問が集中したことがある。日本政府の景気対策についてどう思うかというものだ。答えるとき、つい高倉が康和銀行に働いていることを漏らすと、向こうから積極的に近づいてくる人間がいた。その場だけでは話がつきないので、電子メールのアドレスを交換し、お互いにこれからも連絡を取りあおうということになった。それ以来、フォーラムを離れても、一対一で電子メールのやりとりをし、いろいろなことについて親しく論議を戦わすようになったのである。  今回のメイソン・トラスト銀行との提携についても、彼はさすがにニュースで知っていたらしく、いろいろとアドバイスをしてくれた。メイソン・トラストが康和銀行に近づいたのも、康和銀行の抱えている不良債権を原材料にして、新しいハイテク商品に仕組み直すつもりだから、というのだ。原材料をどれだけ安く手に入れるかが、彼らの儲けを増やす鍵であり、それは決して容易なことではない。ところが康和銀行と提携をすればそれがいとも簡単になるわけである。 「おそらく、わが行から自分たちに必要なものを吸い取ったあとは、メイソン・トラストにとっての康和銀行などまったく無価値なものになるわけです。ですから、提携をするにしても、われわれはよほど気を引き締め、条件を吟味し、逆に彼らのビジネスのノウハウを盗むぐらいの姿勢で臨むべきだと、その友人は語ってくれたぐらいです」 「そいつはいったいどこの誰なのだ。どこの投資銀行の何という男なんだ?」  本多はそう言って、高倉に詰め寄った。 「それは──」  高倉は初めて答えに窮した。フォーラムで知りあい、電子メールのアドレスは教えあったが、相手の本名や所属の銀行については確認していない。高倉は、最初に自分の勤務先が康和銀行だと名乗り、それをきっかけに親しくなった相手だったが、話を聞いているうちに、むしろ本音を聞き出し易いと考えたので、相手の名前や銀行はあえていまも聞かないままでいる。 「ほら見ろ。言えないじゃないか。だから無責任だと僕は言っているんだ」  本多は得意げに胸を反らせた。広い肩幅や、濃い眉の風貌がさらに威圧感を増して見える。 「いいえ、彼の知識は本物ですし、理論も説明もかなりのものです。おそらく、大手の米国系投資銀行で、しかもかなり高い地位にいる人間に間違いありません」 「いい加減にやめてくれないか。インターネットだの電子メールのやりとりだの、そんなものがどれほど信用できるものか。それに、君にそんな情報を与えることが、いったい彼にとって何の得になるというのだ。どうせ、会うこともなければ、正々堂々と名前も名乗らない人間同士の、無責任なやりとりに決まっている。耳を貸すだけ時間の無駄というものだ。パソコン・ゲームにうつつをぬかす子供じゃあるまいし、そんなもの信用する人間の気持ちが知れないよ。それこそ茶番だ」  さっきのことをまだ根に持っていたのか、本多は役員たちを見回してさらに続けた。 「みなさん、こんなくだらない意見に惑わされるほど、われわれは子供ではないはずです。すべては私どものプロジェクト・チームにお任せ願いたい」  本多は、そのあとは自分のペースを取り戻したように会議を取り仕切っていった。 「ところで、今回の資本提携に関しては、大蔵省や日銀のほうは大丈夫なんですよね」  本多は山田常務に向かって念を押すように言った。 「その方面の根回しは手抜かりないですよ。ご存じのように、櫻井頭取自身が大蔵省のご出身ですし、おまけに森副頭取は以前日銀においでになった方です。うちはなんといっても当局向けの対策は万全ですからね。それに、むしろ今回のメイソン・トラストと組むという話は、最初に大蔵省のほうから持ち出されたような向きがありましたからな。少なくとも今回の合意には、大蔵が相手先に対してかなり働き掛けをしてくれたと聞いています」 「なるほどね、やはりそうでしたか、いやそれを先に言ってもらえば、こんな若い高倉君の話などを長々と聞かされることもなかったですな」  本多はわが意を得たりという顔で高笑いをしてみせた。周囲の役員たちも、一時はどうなるかという顔で本多と高倉のやりとりを見守っていたが、会議の落ち着き先が見つかった様子に、それぞれ安堵の色を浮かべている。  高倉は、こうなってはもはや為す術がないのを感じていた。  どうしてこうなんだ。この銀行はいつまでたっても変わらない。いまでも定期的に電子メールを送ってくれる、あの理知的な友人のミスターSに指摘されたように、康和銀行が無惨な形で泣きを見ないようにと祈るばかりだ。  それにしても、高倉が康和銀行の人間だと告げた途端、親密になってくれたあのミスターSの正体は、いったいどこの誰なのか。高倉はこれまでさほど気にならなかった男の存在にしみじみと考えをめぐらしていた。     8  宮島秀司が仕事場と呼んでいる部屋は、紀尾井町のマンションの四階にあった。家族と一緒の世田谷の自宅とは別の、まったく独立した自分だけの部屋である。レンガ造りの|瀟洒《しようしや》な低層マンションの最上階。部屋の間取りはゆったりとした2LDKで、書斎と寝室用の洋室に、ほとんど使わないキッチンと、広々としたリビングである。  書斎は八畳の洋間で、三方の壁をぐるりと取り囲んだ天井までの作り付けの書棚には、びっしりと蔵書を並べ、宮島が一番落ち着ける雰囲気にしつらえてある。イタリア製の大きな革張りのソファが置かれたリビングには、ごく限られた人間しか招き入れたことがない。そこからは、ドア一枚を隔てて、たまに一人で仮眠をとるための、殺風景なほど飾り気のない寝室へと続く。  その夜の宮島は、ワイン・リストが充実していることで最近話題になっている、行きつけのレストランに州波を招待し、たっぷりと時間をかけて夕食を楽しんだ。店のオーナー直々の挨拶を受け、食後酒までを楽しんだあと、宮島はこの仕事場へ州波を誘うことに成功した。 「いや、今夜は楽しかったですよ」  タクシーのなかで宮島はことさら陽気だった。 「こちらこそ。それにとってもおいしかったですね。お料理もワインも。私なんだかすっかり酔ってしまいました」 「実にいい夜です。あなたがほんのり赤くなられているのもいい」 「普段はあまり顔に出ないのですけれど、今夜はあんまり楽しくて、ついたくさんいただいてしまいましたから」  州波は両手で頬をはさむようにした。 「いや、あなたがお強いのでびっくりしました」  宮島はさらに嬉しそうに言う。 「お恥ずかしいですわ」 「いつもお忙しそうでしたからね、今夜もたぶん無理だろうと思っていたのです。月曜日だし、しかも突然の話でしたからね。どうも私はせっかちな性格で……。しかし、レストランの料理長が、とびきりの鹿肉が入ったと言ってきたものですからね。思いきってお誘いしてみてよかった」 「本当においしかったですわ。何度もお誘いいただいたのに、お断わりして申し訳ありませんでした。まだ東京に来たばかりですので、このところたて続けにいろいろとありまして。今夜は偶然にもアポがひとつキャンセルになったもので、ちょうど空いていたのです」 「それはタイミングがよかった。私は実にラッキーだったというわけだ」  大蔵省の審議官からの誘いを、誰かほかの人間のキャンセルの穴埋めだと言うのは、おそらく自分ぐらいなものだろう。州波は、頭の隅でそう思った。 「あら、申し訳ございません。なんだか生意気で、失礼なことを申しまして」  すぐにフォローしておくことも忘れてはいけない。 「いやいや、このあいだのテニスのお礼を、ぜひ一度はきちんとさせていただきたかったのですよ。金曜日に偶然お目にかかったときは、ただパーティのあとコーヒーを飲んだだけでしたでしょう。もっともあのときもいろいろお話ができて楽しかったですけれどね。あれ以来、今度こそゆっくりお食事をと思っていたのです」  先週末、ドイツの銀行系証券子会社のパーティに出席した会場で、宮島は同じように招かれていた州波と偶然再会した。そのあとで、パーティの会場となっていたホテルのラウンジで、三十分ほど話をする機会があったのだ。 「三月も後半に入るこの時期は、一番お忙しいころでしょう。それなのにわざわざ、ありがとうございます」 「いや。だからこそ息抜きが必要なのですよ。もっとも、あなたは、仕事を離れた場所で、大蔵省の人間なんかとつきあうのはお嫌なのだと思っていた。だいたい気詰まりですからね。この前は、ジョンの頼みだから、しかたなくテニスにお付き合いくださったのでしょうけれど」 「いえ、とんでもない。そんなことはありません」 「だけど、今夜はゆっくり二人で食事もできたし、おまけにむさくるしい私の仕事場なんかにお誘いしたのに、思いがけず来ていただけた」  宮島の声に、これまでと違った微妙な変化が生じてきたのを、州波は見逃さなかった。 「ええ、私も日本の金融当局のシステムについては勉強したいと思っておりましたので、いろいろ教えていただけるとありがたいと思います。宮島さんほど適任の先生はおられませんもの。でも、かえって、無理なお願いだったのではないかと思って──」  州波はあくまで姿勢をくずさない。 「さあ、着きましたよ。こちらです、どうぞ」  タクシーはわざわざ地下駐車場に着いた。人目を避けるための心遣いである。宮島は車を降りてエレベータに案内した。州波は自分が酔っているのが救いだと思った。歩き方も話し方もいつもと変わらず毅然としてはいるが、小さなエレベータのなかで宮島と二人だけでいても、酔いのせいかかえって自然にしていられたからだ。  エレベータが四階に着くと、宮島は軽く州波の背中を押すようにして、部屋まで案内した。宮島が鍵を開け、先に玄関に入るときはさすがに少しためらいがあった。誰もいない部屋に二人だけで入るということの意味を、州波は何も意識していないようにふるまった。外人向けのマンションなのか、宮島が仕事で使っているせいなのか、土足のままで入れるのを知って、州波は少しだけほっとした。 「どうぞ、狭いところで申し訳ないが」  宮島は州波をリビングに案内し、ソファを勧めた。すぐにキッチンに消えた宮島は、ブランデーの入ったグラスを二つ持ってきて、一つを州波に渡した。軽くグラスを持ち上げて乾杯の真似をしてから、一口だけ口をつけ、州波はグラスを持ったまま隣りの書斎へ通された。デスクの前の革張りの黒い椅子を勧められたので、州波はそれに腰を下ろす。  普段は宮島が座っている椅子である。宮島はその横で、大きなデスクに半分腰をあずけた形で州波と斜めに向き立った。 「今日の外為市場は荒れましたよね。米国の投信がずいぶんドル売りを出したとか。あなたも一日お忙しかったのでしょうね」  宮島はさりげなく相場の話を持ちだした。 「ええ、私の|担当客《アカウント》もずいぶん動きました。今週初めに買っておいた分の利食いです。私がニューヨークで担当していた投信なんですが、全部で一五〇〇本分は動いたでしょうか。デリバティブがらみのプログラム・ディールだったんですが」 「一五〇〇本? 十五億ドルですか。そいつはすごい。あなたはそんな大きなビジネスをやっているんだ。ジョンからも、かなり大手の客から信頼されているとは聞いていましたけれど」 「でも一日で為替が一円も二円も動く相場は疲れますよね。普通の人には危なくて手が出せませんもの。よほどのところでないと、私も決して勧められませんわ。ぜひ宮島さんの力でなんとかしていただかないと」  仕事の話になると、州波は緊張が解けて雄弁になる。つい話がはずんで、宮島も自分の考え方や外為市場に関する大蔵省のなかでの意見の分かれ具合などを話して聞かせた。仕事に対する自分の向きあい方について話をしていると、お互いがどういう人間かが見えてくるものだ。それが、さらに二人を近付けるような気がした。  州波は、ちょうど正面に見える壁の書棚に、一枚の絵皿が飾られているのを見つけた。尺皿と言われる直径三十センチあまりの大きな飾り皿で、全体が淡いブルーの地に、下部に精密な蓮の葉が、その上に三羽の立ち白鷺がみごとな構図で繊細に描かれたものである。 「まあ、鍋島ですのね。きれいな薄|瑠璃《るり》の色だわ」  州波は思わず感嘆の声をあげた。 「ほう、|骨董《こつとう》をお好きなのですか? よくご存知だ」 「いえ。そんなに詳しいわけではありませんが、日本の古いものは昔から大好きですの。なかでも磁器や陶器が特に。華麗でカラフルな、色鍋島も素敵ですが、私は繊細な染め付けのほうが好きなんです。鍋島って十七世紀の末ごろのものでしょう。なのに、どうしてこんなにモダンな絵柄なんでしょうね」 「嬉しいな。私も好きでしてね。気に入ったのを見つけると、つい欲しくなってしまう。どうもいったん好きになると、何ごとによらずなんとしても手に入れたくなる性格のようでしてね。骨董屋に買うと言ってしまってから、値段を聞いてびっくりする」  宮島はそう言って嬉しそうに笑い、つり込まれるように州波も笑った。 「まあ、珍しい。これは伊賀焼ですね」 「ほう、伊賀焼をご存知ですか。これは美濃伊賀の|水指《みずさし》です」  宮島はガラスの扉を開けて、やや緑がかった薄茶色の水指を、大事そうに両手で取り出した。 「優しい肌触りですね。素朴なぬくもりがあって、なんだか懐かしいような色あいで、とても素敵ですわ。それにこの湖東焼も、めったに見られないものですね」 「古伊万里や、柿右衛門を知っている人は多いが、伊賀焼や湖東焼に詳しい人は少ないですからね」  宮島は、州波が古陶器に興味があるのを、意外なことのようにも、そして好ましくも思ったらしい。 「でも、これだけのものをこんなに無造作に置いていらっしゃるなんて」  無傷であれば、鍋島の尺皿など一千万円では買えないものだということも州波は知っている。 「これの価値がわかる人は、そうはいないですよ。これに気づいてくれた人も、いままでほとんどいなかったぐらいだから。だが、あなたは不思議な人だ。金融市場や経済の話をしても、ほかの男達と遜色がないし。いや、遜色がないばかりか話にとても引き込まれてしまう。考え方や相場観にも信頼が持てるし、あなたが優秀なセールスだということは、あなたと話をしているだけで納得できますね。ジョン・ブライトンがしきりにあなたを褒めていたのがよくわかる。しかも、それだけではない。仕事のことだけでなく、文化や歴史のことについても、広い教養や豊かな趣味を持っておられる。こんなことを言っては失礼だが、私はこれまで、女性と話をするだけで退屈しないなどということは、一度もなかった。あなたとならば、退屈しないどころか、いろいろなことについて深く掘り下げて、しかも楽しく話ができる。こんな女性は初めてだ」  宮島は熱っぽい目をしてそう言いながら、空になった州波のグラスにブランデーを注いだ。長い年月を経て熟成された深い香りが、グラスから立ちのぼって州波の顔をなでていく。 「そうそう、頼りになるのは仕事だけではなかったよね。テニスをしてみてそれがよくわかりましたよ。ここぞというとき、あなたはいつもボールの飛んでくる位置を予測して、そこで待ち受けて確実なリターンを返せる人だ。それはどんな分野の会話でも同じことが言える」  ブランデーのせいか、それとも骨董の好みを知って州波をさらに身近に感じたせいか、宮島の口調はすっかり打ち解けて、親しげなものに変わっている。宮島はあの日のテニスのことを思い出し、また愉快そうに話を続けた。 「不甲斐ない私は、あなたに何度も助けてもらったよね。ほら覚えているかい。私がつまずきそうになってボレーをミスしたのを、あなたがうまく拾ってくれて、しかも絶妙な場所に返してくれたじゃないか。あのときのことは、相馬には、おまえはだらしないと言って、あとでさんざん責められた」 「まあ」  州波は声をたてて笑った。その声に勇気づけられたのか、宮島は思い切ったように口を開いた。 「ところが、そんな凄い女性なのに、あなた自身はとても可愛い人だ」  そう言って、宮島は州波の後ろにまわり、両肩に手を置いた。州波はびくっと反応する。 「私はどうしようもなく、あなたに惹かれてしまった」 「え?」  州波は驚いた顔で宮島を振り返ろうとした。宮島はそれを待ち受けていたように、州波の肩を両側から抱いて椅子から立ちあがらせる。そしてゆっくりと自分の方へ振り向かせた。 「私──」  州波は言葉を詰まらせた。 「だめだろうな?」  宮島の声はささやくように低かった。どういう意味かは訊く必要もない。ブランデーの香りのする宮島の息が顔にかかった。州波は頭の芯が揺れるのを感じた。自分も思った以上に酔っているのがわかる。州波は黙って首を横に振った。だが、決して強い拒絶ではなかった。  これは自分から仕掛けたことだったはずなのに、まるで自分のほうが、進んで罠に飛び込んできた小動物のような気がしてきた。宮島にもそう映っているのかもしれない。州波はそれもいいと思えてきた。そして、宮島の視線から顔をそらせて、ほんのかすかに身体を宮島に預ける。 「やっぱりだめか?」  そう言うと、宮島はためらいがちに州波を両腕にすっぽりと包み込んだ。すぐそばに立つと、宮島は思ったより背が高い。州波は宮島の腕のなかで、黙ったまま小さくうなずいた。 「ずっと、こんなふうにしたかった。あなたをこうやって抱きしめたかった。今夜あなたと一緒にいるあいだ、そのことばかり考えていたよ」  宮島はそう言ったまま、長いあいだ州波をただ抱いていた。州波は何も言葉を発しなかった。  少しして顔をあげ宮島を見ると、すぐ目の前に顔がある。宮島はいとおしくてたまらないという目で、じっと州波を見つめていた。 「私にまかせてくれるね」  どう答えようかとためらっていると、突然州波の唇がふさがれた。穏やかで、慈しみにあふれるような宮島の想いが、触れあった唇を通して伝わってくるようだった。紳士的で、決して執拗ではなく、しかしそれは、はてしなく続くようにも思われた。州波はそれが不思議なくらい嫌ではなかった。  やがて、宮島の身体がいったん離れたかと思うと、手をとるようにしてゆっくりと寝室へ向かおうとする。 「ごめんなさい」  そう言ったあと、言葉が強くなりすぎないように注意して、宮島の目を見ながら付け足した。 「今夜はちょっと……」 「そうか。じゃあ明日の晩だ」  宮島は子供のような目をして微笑んだ。 「困った人……」  州波は、今度はゆとりのある声で言った。口では困ったと言いながら、州波が決して嫌がってはいないのがわかるのだろう、宮島の両腕はもう一度強く州波を包み込んで、さっきよりも激しく抱きしめてくる。 「わかった。だけど、せめてもうしばらくはこうしていてもいいだろう」  かすれたような熱い息が、州波の右の耳をかすめた。すべてが思い通りになっていく。州波は満足だった。あとは首尾よく次の行動に移ればいい。慎重に、そして大胆に、計画はまたこれで州波の計画通り、大きく前進するのだ。  宮島がまたその腕に力をこめた。痛いぐらいだ。州波はもう自分のもので、誰にも渡すつもりはないとその腕の動きが告げている。州波はひそかに微笑んだ。宮島の腕にこめられた力の強さは、そのまま、この男の自分に対する執着の度合を示しているからだ。それはとりもなおさず、このあとも間違いなく、州波の思い通りに男が動いてくれることを意味している。  州波は黙って目を閉じた。確かな満足感に浸りながら、少しのあいだこうやって宮島の腕に抱かれていようと思う。まったく贅肉のついていない宮島の肩に、州波はそっと自分の頭を預けようとした。  そのとき、不意に誰かの視線を感じた。州波は思わず顔をあげる。可能な限り首をまわして辺りをさりげなく見渡してみたが、もちろん誰がいるわけでもない。  だが、州波は確かに視線を感じた。ちょうど自分の視線の届かないうなじのあたりを、斜め後方から誰かが見ている。  明石なのだろうか、それともほかの何かなのか。州波は背後から自分に向けられる、かすかな痛みにも似たその視線を、振り払うように目を閉じた。 [#改ページ]  第四章 策 謀     1  遠くから手を振りながら、急ぎ足でやって来る慶子は、見違えるようだった。  四月の二週目に入ってすぐ、慶子のほうから、久しぶりに芹沢の職場にまで電話をかけてきた。一緒に夕食をしないかというのである。芹沢は職場に近いこのホテルのラウンジを、待ちあわせ場所に選んだのだった。  約束の時間から十分ばかり遅れて、ラウンジの入り口に現れた明石慶子の姿に、芹沢は目をみはった。春らしいベージュのスーツにカラフルな花柄のブラウスを合わせた姿には、とても五カ月前に突然夫を亡くしたとは思えないほど、匂い立つような華やかさがあった。  仮通夜のころに較べると少し痩せたのか、顎のあたりがほっそりとなってはいたが、それは決してやつれたというものではなく、むしろ引き締まったというべきだろう。甦ったとか、生まれ変わったとでも言いたいぐらい、生き生きとしている。念入りにほどこした化粧にも、自然な若さが戻っていると、芹沢は思った。  葬儀のころは、必死で元気に見せようとしているのが目について、かえって哀れみを増したのだが、今日の慶子はまるで違う。芹沢はメリー・ウィドウという言葉を思い出した。そしてそんな慶子の変化を、自分がどこかで覚めて見ているのに気がついた。慶子が元気になったことを、もっと喜んでやるべきだ。そう思いながらも、綺麗になった慶子の顔をなぜか直視できない気がした。  葬儀は、あの仮通夜から十日も過ぎてからで、ニューヨークでの検死を終えた明石哲彦の遺体が帰国するのを待って行なわれた。銀行葬と言えなくもないほど盛大な葬儀が済んだあと、芹沢は二度ばかり明石の家を訪ねた。だが、慶子のそばにはいつも銀行の人間が誰か付き添っているか、そうでなければ慶子の実家から両親や親戚連中が訪ねて来ていたため、慶子とゆっくり話をすることはなかなかできなかった。  いや、話そうと思えばできたのかもしれない。だが、死の直前、明石が助けを求めてきたのに、それを無視してしまったことを、慶子からどんなふうに責められるかと思うと、言い出せなかったというのが本当のところだ。  結局、慶子にあのファックスの話を切り出したのは、すでに明石が死んでから三カ月もたってからだった。  慶子の反応は、芹沢の予想とは少し違っていた。  |俯《うつむ》いて黙ったまま聞いていた慶子は、大きくひとつ息を吐いたかと思うと、キッと睨み付けるように顔をあげて、なかば食ってかかるように芹沢に言った。 「いまさら、こんなもの持ち出さないでよ。裕弥がこのファックスの意味を調べて、仮に自殺の原因がわかったら、それで何かが変わるの? 哲彦が帰ってくるっていうの?」  慶子の剣幕に、芹沢は返す言葉がなかった。 「哲彦が何を思って死んでいったかですって。それが、なんなの。いま、私があの人のことを理解できたからといって、それがいったい何になるって言うのよ」  これまで無理やり抑え込み、ひたすら耐えていたものが、やっと出口を見つけてほとばしっている。芹沢は慶子を見ながらそう思った。それが芹沢に向かってなのか、それとも死んでしまった明石に向けてなのか、あるいはもっと別の何者かに対してなのかはわからない。おそらく、そのすべてに対して慶子は怒りをぶつけたいのだろう。  その怒りを、もしいま受け止めてやれる者がいるとしたら、それは自分しかいない。だが、そう思えば思うほど、何を、どんなふうにしてやればいいのか、わからない気もした。  何も言えないでいる芹沢を見て、慶子はまた口を開いた。 「ごめんなさい。裕弥の気持ちはよくわかるの。でも、もうそっとしておいて欲しい。いまさら何かを探して、何かが見つかったとしても、哲彦が帰ってくるわけではないもの。みんないろんなことを言うわよ。私のことを可哀想だとも言ってくれる。でもね、もう終わらせたいの。終わらせなければ、私は何も始められないのよ。死んだ人は、それでもう済んでしまうかもしれないけれど、私や|翔武《しようむ》はまだこれからもずっとずっと生きていかなきゃならないんですもの。でもね、私一つだけよかったことがあるの」  慶子はそう言って、笑顔を作った。 「哲彦が勤めていたのが康和銀行だったことよ。これだけは、私つくづく思ったわ。哲彦があんなふうになってしまったというのに、銀行は私達に本当によくしてくださるわ。それで、どんなに助かっているか。ありがたいことよ」  五年前、皮肉にもニューヨークへの転勤が決まる半年前に、新築したばかりだという家のローンは、哲彦の死によって得られた保険金で完済されたようだ。実際には、保険金だけでは足りなかった分を、康和銀行のほうからかなり援助してくれたらしい。銀行からの見舞金や死亡退職金などが、遺族の当面の生活を十分に支えるだけの額だったことが、慶子の言葉の端々から理解できた。 「こんなこと言ったら哲彦に悪いかもしれないけれど、私はもうみんな忘れて、これから先のことを考えなければいけないと思っているの。あの人が、黙って私達を置き去りにしたんだとしたら、私は意地でも翔武を立派に育てあげてみせる。いまはそのことで、頭がいっぱいなの」  すでに明石の死の原因を追及する気持ちなど、すっかり消えていると慶子は言った。そんなゆとりも、興味もないとまで言い切った。 「わかったよ慶子。俺も、もうこのファックスのことは忘れる」  少なくとも、慶子の前ではもう二度と口にすまいと芹沢は思った。そう言いながらも、自分はどうしてもこのファックスの存在を忘れられないだろうと思う。明石が最後に自分に助けを求めてきたことと、それに自分が気づいてやれなかったという事実を、決して忘れてはいけないのだ。  慶子の手から受け取ったファックス用紙を、丁寧にたたんで封筒にしまいながら、明石がいつまでも古い辞書や写真を持っていたように、今度は芹沢が明石の最後のメッセージをずっと残しておくだろうと思った。 「ごめんね、待ったでしょう。ねえ裕弥、今夜は何かおいしいものが食べたいわ」  今夜の慶子は最初からはしゃいでいた。すぐにラウンジを出てタクシーに乗ったときも、息子が春休みで明石の両親のところへ出かけていて、今夜は泊まってくるのだと言ったときも、声がずっと弾んでいた。  以前慶子が雑誌で見かけて、一度行ってみたかったという広尾のイタリア料理の店へ行き、食事をするあいだも、慶子はたえずしゃべり続けていた。ほとんど話を聞く側にまわっていた芹沢は、それでも上機嫌の慶子を見ているのは救われる気がした。  長いブランクのあと、やっと再会できたかと思ったら、その翌日に明石に死なれ、人間というものは、こうも簡単に命を絶てるものかと思ったものだ。それなのに、理由もわからないまま突然夫に死なれた慶子のほうは、こうもみごとに立ち直ったというのか。芹沢はただ不思議なものでも見るように、慶子の顔を見つめるしかなかった。  たっぷりと時間をかけて食事を終え、二人は並んで店を出た。 「こうしていると、私達きっと夫婦に見えるわね」  外に出たところで、慶子はいきなり芹沢の腕をとった。レストランを出て、暗くて細い道を、タクシーの拾える大通りに出るまでのあいだ、二人は自然に腕を組んで歩くことになった。並んで歩きながら慶子はそっと腕をすべらせ、手をつないでくる。慶子の指は柔らかく、温かかった。緑の多い住宅地が近いためか、薄闇の小道は静かで、かすかな花の香りがする。 「昔を思い出すわ」  慶子はからめた指に力をこめてきた。食事中のワインと最後に飲んだ食後酒のせいか、店を出たころから口数が少なくなっている。 「明石と三人一緒に、よく歩いたよな」  芹沢がそう言っても、慶子は返事をしなかった。慶子が黙りこんでしまうと、芹沢は逆に落ち着かなくなってくる。 「よくさ、こうやって慶子を真ん中にして、哲彦と俺と三人で夜の道を歩いたよなあ。ほら、そうそう、あれは体育祭のときだったっけ、それとも学園祭のころだったかなあ、遅くなって帰り道がすっかり真っ暗になって、怖がっている慶子をわざと脅かしたりしてさ、あのころはちょっとしたことでも無条件に楽しかった」  何を言っても、慶子の声は途切れたままだ。 「どうした?」  芹沢が振り返り、慶子の顔をのぞきこもうとすると、慶子はいきなり芹沢の胸に身体ごとぶつかってきた。両手で顔を覆って、声を出さずに泣いているのだ。芹沢は慶子の肩に両手を置いた。しばらくそうしていたが、通りのほうからこちらに向かって歩いてくる人影が感じられたので、慶子はあわてて涙をぬぐい、身体を離そうとする。 「いいさ慶子、泣きたいだけ泣けよ。人が来たってかまうもんか」  慶子は何も言わなかった。二人は自然に横に並んで、ゆっくりとまた歩きだす。芹沢は慶子の肩を抱いた。気丈なふりをしていたけれど、まだ元気になったわけではないのだ。わずか五カ月ほどで、立ち直れるはずがない。そう思うと、急に慶子がいじらしく思えてきた。芹沢は肩を抱いた手に力をこめた。  突然、慶子が顔をあげた。 「私、なんで哲彦なんか選んだのかしら」 「え?」  唐突な言葉だった。 「だけど、裕弥は高校を出た途端、姿を消してしまったんですものね。電話をしても、決して出ようとはしてくれなかった」  そんなはずはないと、芹沢は言いたかった。慶子は一度も電話などかけてこなかったし、芹沢が一度だけかけたときも出なかったのは慶子のほうだ。受験に失敗して、打ちのめされて、世の中から拒絶されてしまったような気がしていた芹沢は、どうしてももう一度、自分から慶子に電話をかけ直すことなどできなかった。 「電話をくれたなんて知らなかったよ」  試すつもりで芹沢は言った。 「何度もかけたのよ。手紙も書こうと思ったわ。でもなんて書けばいいかわからなくて……」  だが、それが嘘なのを芹沢は知っていた。あのとき、芹沢はずっと慶子を待っていたのだ。必ず連絡をくれると信じて、ひたすら待ち続けていた。しかし、一度として、慶子から連絡は来なかった。そして芹沢は、はっきりと悟ったのだ。慶子を責めてはいけない。明石と同じ大学に合格した慶子は、新しく始まる二人の大学生活に夢中で、もはや手の届かない存在になってしまったのだ。芹沢はあのとき自分にそう言い聞かせた。  けれど、そんなことをいまさら慶子に告げる気にはなれなかった。慶子は本当に忘れているのだろうか。もしかしたら、高校一年生のとき、明石に隠れて二人だけで会い、一度だけ幼い唇を交わしたことも、もう覚えてはいないのだろうか。  やがて、二人は広い道路に出た。待つ間もなくすぐにタクシーがやって来た。 「送ってくれる?」  タクシーに乗り込むときになって、慶子が芹沢の眼をのぞきこむように言った。 「ああ」  芹沢は短くそう言って、一緒に乗り込んだ。車のなかで、慶子はまた芹沢の肘のあたりに自分の手を絡ませてくる。芹沢は気がつかないふりをして窓の外に目を向けた。 「哲彦と一緒に一橋に行ったぐらいだから、大学を出たら就職して、バリバリ働くのかと思っていたよ。だけど、すぐに結婚したんだってな。それを聞いたときはちょっと意外な気がした」  利発で勝ち気だった慶子には、すぐに家庭に入るよりも、社会に出て自分の力を試すような生き方が似合っていると、芹沢は昔から思っていた。 「いったんは就職したのよ。業界大手の広告代理店でね、毎日が死ぬほど忙しかったわ。がむしゃらになって仕事を覚えて、ようやく三年目になって、初めてのクライアントを任されるようにまでなったの。やっと自分でも、仕事がおもしろくなってきたなって思い始めた矢先のことだったわ、哲彦が康和銀行のニューヨーク支店に赴任することになったの。それで、一緒について行くために、私はすぐに仕事を辞めることになったの」  慶子は当時のことを思い出すように、言葉を選びながら話し始めた。 「本当は辞めたくなかったわ。私すごく悩んだのよ。哲彦はとても強引だった。でも私は、そんなふうに強引に求められることを、反面嬉しがっていたのかもしれない。だから、哲彦にせがまれて、押しきられるように自分の夢を捨てたわ。哲彦はいざとなると強い人だと、そう思った。自分の望むことは、手に入れるまで絶対にあきらめない人だもの」  その言葉は、芹沢の心の底に長い間沈んでいた古い澱のようなものを掻き回した。 「でもいまになって思い返すと、そう思ったのは間違いだったのね。哲彦は強い人なんかじゃなくて、ただ甘えていたのよ。周囲をみんな自分の世界に巻き込んで、全部まるごと自分のそばに置いておきたかっただけ。あとで、こんなことになるぐらいなら、あのとき無理を言ってでも仕事を続けるべきだったわ」  哲彦の死後、慶子はなんとか仕事を見つけようと努力したようだ。だが、そのたびに再就職の難しさを痛感したという。 「だけど哲彦があんなことになるまでは、ずっとなに不自由なく、幸せな暮らしをしていたんだろう。そんなにあいつのすべてを否定するようなことを言ってはいけないよ。哲彦が可哀想だ」  芹沢はやっとそれだけ言った。言いながら、ふと有吉州波のことを思い出した。慶子は彼女の存在を知っているのだろうか。息子の受験のためにという理由で慶子が帰国したあと、一人ニューヨークに残った明石に、別の女性がいたことを、知らないのだろうか。いずれにしても、芹沢には、それを慶子に告げる気はなかった。 「ねえ、裕弥」  慶子がくぐもった声で訊いた。 「裕弥は結婚しなかったの?」 「ああ」 「どうして?」 「別にどうしてっていうほど、特別な理由はないさ。なんとなく一人で暮らしているうちに面倒くさくなって、そのままになっただけかもな」  慶子のせいだと言うつもりはなかった。 「つきあった人はいなかったの?」 「そりゃいたさ。大学のころは、向こうで知りあったアメリカ人の女性と、同棲みたいなことをしていたこともあった」  いま思えば、どことなく慶子に似ていたような気がしないでもない。 「その人とは、長かったの?」 「いや半年足らずでフラれてしまった。あなたは何を考えているのかわからない人だって、いつも怒られてた」  慶子は大げさなほど嬉しそうに笑い声をあげた。 「ねえ、裕弥が結婚しなかったのって、まさか、私のせいじゃないわよね?」  首をかしげるようにして、慶子は芹沢の顔を覗き込む。その上目遣いの表情が、相手に一番魅力的に映る角度であることを、十分に計算しているのではないかと、ふと思った。そして、そのことが芹沢の気持ちを少しずつ滅入らせているのも感じないではいられなかった。  タクシーで行くと、慶子の家は意外なほど近かった。 「今夜はとても楽しかった。お料理もおいしかったし、私ったらすっかり酔ってしまったわ」  家が近づいて来ると、慶子はそう言って腕を絡ませてきた。芹沢を覗き込むように見る眼がうるんでいる。それに気づいた途端、芹沢は自分の腕に触れている慶子の手を意識した。慶子は腕に力をこめ、芹沢の耳に顔を近づけて言った。 「私、あのとき裕弥にしておけばよかった」 「え?」  芹沢は聞こえなかったふりをした。  タクシーが慶子の家のすぐ近くに止まり、ドア側に乗っていた芹沢が先に車を降りた。慶子もすぐに降りてきて、寄っていかないかと言う。  ああ、と答えるつもりだった。それが当然のように思えたからだ。ポケットから財布を取り出そうとする芹沢の腕に、慶子の手がまた伸びてきた。その華奢な指先が、自分の腕をしっかりと捕えているのを見て、このあとに二人の間に起きるだろうことの意味を、芹沢は思った。それは、芹沢も望んでいたはずだ。 「今夜はね、誰もいないのよ」  慶子はそっと耳うちした。息子が明石の両親の家に泊まることは、会ってすぐに聞いたではないか。それをまたどうしてわざわざ念を押すように繰り返したりするのだ。芹沢は、酔いの残った慶子の顔に、したたかな女の意図を見てしまった気がした。 「ごめん、今夜は帰るよ」  口から、言葉が勝手にこぼれ落ちた。だが、言ってしまったら、不思議なぐらいほっとした。あっけにとられた顔の慶子を残し、芹沢は開いたままのドアからすぐに車に戻った。 「どうしたの?」 「うん。また来る」  それだけしか言えなかった。自分が、どこかひどく残酷になっているのを感じる。タクシーは芹沢を乗せてそのまま発車した。静かな住宅街のなかをいったん迂回して、車はまたもと来た道を逆方向に走りだす。バック・ミラーのなかで、まだ立ち尽くしている慶子の姿が小さくなっていった。  芹沢は、自分の心のなかを覗いていた。浪人のころも、アメリカの大学に入ってからも、何度も慶子のことを思い出してきたはずだ。慶子といつか結ばれることを願い続けていたこともある。明石と結婚したと聞いてからは、手を伸ばしても、どうしても届かない存在になってしまったことに悔やみきれない思いもした。だが、今夜の自分の行動はなんだったのか。 「七十パーセントの男か」  いつか児玉が言っていた言葉を思い出した。考えてみれば、自分はいつも逃げ続けてきたのではないだろうか。浪人生活から逃げ、昔の思い出から逃げ、仕事からも逃げてきた。俺はまだ力を出しきってはいない。本気で深く関わって、全力を出しさえすれば、もっと凄いことができるのだけれど、それをしていないだけなのだ。そう自分に言い訳をして、ずっと中途半端なままで生きてきた。  そしていま、明石の最後の叫びから逃げただけでなく、慶子からも逃げようとしているのか。どうして、慶子の家に入らなかったのだろう。自分は何をためらい、怖がっているのか。いや、その前に、何を望み、何を拒んでいるというのか。  芹沢は車のシートに深々ともたれながら、大きく息を吐いた。     2  次の日の夕方、ディーリング・ルームでそろそろ帰り仕度をしようかと思っている芹沢の席に、内線電話がかかってきた。債券トレーダーのデスクから、わざわざ児玉実がかけてきたのだ。話があるから、今夜つきあえと言う。  芹沢が、ロンドン市場の動きをざっとチェックし、目新しいニュースもないことを確認してから、約束の店に行くと、児玉はすでに着いていて、生ビールを飲んでいた。初めて来る店だ。芹沢はあたりを見回しながら、児玉の座っているカウンターに近づいた。 「遅くなってすまない。ちょっとわかりにくい場所だったから」  後ろから声をかけると、振り向いた児玉は、待ちきれないとばかりに話を切り出した。 「実は話というのはな──」  芹沢が席に着いて、飲み物を注文する間も惜しいと言わんばかりである。児玉がこれほどまでに興奮しているのは、今日の昼過ぎ、ついに噂の有吉州波に会ったためだとわかった。 「これはまったくの極秘だから、絶対にここだけのことにしておいてほしいんだけれど」  児玉はいつになく真面目な顔になって、周囲をひととおりぐるっと見回してから、芹沢に顔を近付けてきた。 「ここ一カ月ばかり前ぐらいから、うちの銀行が、例の康和銀行に業務提携の話を持ちかけていることは、おまえ知らないだろう?」  康和銀行という名前のところだけは、とくに声を低くして言った。話の中に固有名詞を出すことに、児玉はひどく神経質になっているようだ。 「何だって?」  どこからそんな極秘情報を仕入れてくるのか、芹沢には不思議でしかたがない。 「先週ボスから呼ばれて、僕も途中からその業務提携のプロジェクト・チームに参加させられることになったんだ。と言っても、トレーダーの立場から客観的な意見を言うだけで、なにも大したことをするわけじゃない。まだ話は検討段階で、議論のテーブルに乗ったばかりさ。ただし何度も言うが、この話は絶対誰にも言わないでくれよ」  児玉は相手が芹沢だからこんな情報を漏らすのだと、何度も念を押した。 「だけど、康和銀行はメイソン・トラストと合併するんじゃなかったかい。それをいまさら、うちと組む話が出るなんておかしいじゃないか」 「ところがさ、どうも実情を聞いてみると、メイソン・トラストとの話もまだ完全に合意までこぎつけたというわけじゃないらしい」  児玉はさらに声を落として言った。今夜は、金融業界の人間がよく来る店は避けたのだが、どこで誰が聞いていないとも限らない。 「うちとメイソン・トラストとの間で、康和銀行を取りあっていると言うのか?」 「いや、むしろ逆だね。康和が生き残りを賭けて、うちとメイソン・トラストとを両天秤にかけていると言ったところじゃないかな」 「だろうな、それならわかる」  芹沢はやっとうなずいた。 「うちの幹部としては、まあ検討の余地はあると思っているみたいだ。康和が全国に持っている支店網は、うちにとっては魅力だからな。康和銀行はなんと言っても日本の顧客にはかなり深く入り込んでいる。日本進出にかけては後発組のうちとしては、そのあたりは非常に興味のあるところだろう。康和がどこの企業グループにも属さない独立系だということも、話が複雑にならないメリットもある。わがファースト・アメリカ銀行としては、ビッグバンを機に、日本でリーテール・ビジネスをやるとしたら、喉から手が出るほど欲しい持ち駒であることは間違いない」 「だけど康和もずいぶんいい加減だよな。このまえの記者会見のとき、頭取は将来は合併の可能性もあるとまで、はっきりコメントしていたんだよ。だから、うちとの間にそんな話があるなんて聞くと、まったくどうなっているのと言いたくなるね。それにしても、そのことと有吉州波と出会ったこととはどういう関係があるんだ?」  芹沢は、話の先を急かせた。 「まあ、そう焦るな。とにかくまずビールを飲めよ」  出された生ビールにまだ手もつけていない芹沢に、児玉は自分の飲みかけのグラスをぶつけて乾杯の真似をした。 「実はその話を持ちかけてきたのが、ニューヨークに本社があるという米国系の経営コンサルタント会社で、その東京支社というのが帝国ホテルのなかにあるんだ」 「帝国ホテルのなか?」 「ああ、新館のほうだよ。五階から十八階までが貸し事務所になっていて、いろんな会社が入っているんだけれど、そのなかの一室を借りて営業しているんだ。パシフィック・コンサルティングといって、法律や会計の専門家を中心に、全部で五十人近くはいるのかな。今日うちの連中と一緒に、僕もそこへ行って来たんだ」  芹沢は一気に三分の一ほどビールをあおったあと、うなずいた。 「今日のミーティングは、とりあえず顔合わせという程度ですぐに終わったんだ。それで帰ろうとして席を立ったところで、支社長室のドアが開いて秘書が出てきたんだ。なにげなく部屋のなかを見たら、大きなデスクがでんと置いてあってね。奥に誰か女性がいるのが見えた。椅子じゃなくてデスクの上にちょっと腰を掛けて、誰かと電話で話しているんだけど、機関銃みたいな早口で、だけどきれいな英語でさ。まあ、英語の上手い人間なんて外銀には珍しくないけど。そういうだけじゃないんだよな。ちょっと首をかしげて、受話器をこんなふうに顎と左肩の間にはさんで、空いた両手では何か資料を開いて読んでいるんだよな」  自分でも肩で受話器をはさむ格好を真似ながら、児玉はさらに続ける。 「口のききかたは、結構厳しいんだよ。ピリッとしているというか。毅然として容赦ないというか。だけど嫌みがなくてつい引き込まれるんだ。あんなふうに思ったのなんて初めてだよ。だから、誰なんだろうとすごく好奇心をそそられてね。僕はてっきり外人だと思ったんだ。だけど、その人誰だったと思う?」  児玉は、すっかりその女性に魅了されたという顔をしていた。 「有吉州波だったのか?」 「そうなんだ。驚いたね」  大きくうなずいた児玉の顔は、得意気ですらある。 「だけどよく彼女だとわかったな。おまえはまだ会ったことがなかったはずだろう?」 「以前アメリカの経済誌で彼女が紹介されていた記事があると聞いたから、このあいだ借りて見たんだ。記事には全身の写真が載ってたから、今日見たときはすぐに彼女だとわかったよ」 「だけど変じゃないか。彼女はなんでそんなコンサルタント会社なんかに居たんだろう。モーリス証券もどこかと提携するつもりなんだろうか」 「わからん。だけど、確かに見たんだから。間違いないって」  児玉は芹沢が疑っているのが不服そうな顔だ。 「しかしますますわからなくなるな。いったい彼女はどういう人間なんだろう。そのコンサルタント会社の人から、彼女のことを聞き出せないかな」  州波のことを追究したいという気持ちがますます募ってくる。 「もちろん僕も訊いてみたよ。芹沢はたぶんそう言うだろうと思ったからね。それに彼女の態度がなんとなく堂々としていてさ、ただの客には見えなかったもの。だけど、どうも言わないんだよな。経営コンサルタントというのは、ほかより余計に守秘義務にこだわる職業だからしかたないかもしれない。こっちもいろいろとカマをかけてみたりもしたんだけど、なんだかうまくはぐらかされてしまうんだな」  児玉は思い出しても残念だという顔をした。 「彼女があそこに居たことは絶対に間違いないんだが、それを見られては困る何かがあるということかも知れないね。あれから、ニューヨーク時代の友人で、東京に帰って来たのがいるから、いろいろと裏の事情を尋ねてみたりしているけど、いまのところは、彼女自身に関する話も、彼女が明石さんと何かあったかという話も、どこからも特別なことは聞こえてこないね」 「そうか。いろいろとすまん。これからも続けて頼むよな」  芹沢は、児玉が明石のことを気にかけて、動いてくれているのが嬉しかった。だが、知りたいと思えば思うほど、そして少しずつ情報が増えてくるほど、核心は|靄《もや》に包まれて、よけいに遠ざかっていくような気がしてならなかった。  その夜、芹沢は児玉と別れて帰宅したあと、久しぶりでまた明石のファックスを取り出してみた。慶子はすっかり明石の死から立ち直っているようなのに、自分はまだいつまでも引きずっている。最後に会ったあのときの明石の顔は、もう記憶のなかで少しずつ薄れていくのだが、あの夜、夢で呼ばれた声だけは消えないような気がした。 「助けてくれ」と叫んだのは、やはり明石だったのだろうか。そう思うと、せめて自分は明石のことを忘れてはいけない気がしてくるのだ。覚えていてやらなければいけない。そして、なんとかして、助けを求めてきた理由を知らなければならない。  芹沢は、今夜児玉から聞いたパシフィック・コンサルティングに行ってみようと思った。事務所を訪ねて、できれば率直に州波のことを訊ねてみよう。もしかしたら州波と直接話ができるかも知れないとも思えてきた。いろいろと想像をめぐらせているだけではなくて、いっそ本人に直接明石の名前を出して訊いてみれば、なんらかの反応がつかめるはずである。そう思うと、芹沢はいてもたってもいられなくなってきた。  明日、すぐにでも出かけてみよう。そう決めたら、急に落ち着かなくなってきた。明石が最後に語ってきかせた州波という女性に、ついに会えるかもしれないという思いが、自分をこんなにも動揺させる。芹沢はそのことを強く感じていた。  次の日の夕方、仕事を終えてすぐに帝国ホテルに向かった。児玉から聞いていたとおり、事務所のある新館のほうに向かうため、正面玄関を入り、本館ロビーを横切ったところで、かすかな風が通り過ぎたような気がした。後ろから来た二人連れが、芹沢のすぐそばを、足早に追い抜いて行ったのだ。  あ、と思わず声をあげそうになった。憶えのある香りがしたからである。濃密で甘いなかに、芯の強そうなはっきりとした主張のある香り。間違いなかった。あのときの州波の香りである。追いかけるように顔を向けると、すぐ手の届きそうな位置に有吉州波がいた。  後ろ姿だけでも、はっきりと確認できた。引き締まった脚を、つま先から前に蹴り出すようにする歩き方。そのたびに揺れるストレートの髪。  隣りを歩いているのは、大蔵省銀行局の宮島秀司だった。宮島の顔にも見覚えがある。芹沢は思わず二人のあとを尾行した。尾行などという行為は生まれて初めてのことである。だが、芹沢は引き寄せられるように、二人のあとを追った。  二人の視界に入ることを避けて、背後から同じエレベータに乗った。二人が最上階のラウンジに行き、窓際の席に座ってカクテルを飲みながら話をしている間は、芹沢はラウンジの入り口のカウンターに座り、ウィスキーを飲みながら二人の動きに注意を払った。  三十分ばかりだろうか、二人はかなり深刻そうな顔で話をしたあと階下に降りて行った。芹沢は二人の乗ったエレベータが七階で止まるのを確認してから、急いで隣りのエレベータに飛び乗った。鼓動が異常なまでに激しかった。喉もとまで突き上げてくる緊張感が、心臓と共鳴して気管を塞ぎ、芹沢を窒息させてしまうのではないかとすら思えた。  降りていくエレベータのなかで、芹沢は何度も息を吸い、意識して長く息を吐いた。エレベータのなかにかけられた鏡に、自分の姿が歪んで映っている。芹沢が呼吸をするたびに、鏡のなかの自分の肩が大きく上下した。俺はいったい何をしようとしているのだろう。芹沢は鏡の自分を見ながら自問する。どうしてこんなことまでするのだろうか。  だが、頭に浮かんだ疑問は、次の瞬間すぐに消えた。何か強い力で、操られているように思えたからだ。何かが自分を衝き動かしている。自分の意志とは別の、まったく違った何かによって動かされているのだ。芹沢はその存在をはっきりと感じていた。  エレベータはすぐに七階に着いた。芹沢は一秒でも早く外へ出られるようにと、ドアのすぐ前に立ちはだかった。エレベータが止まり、金属音と共にドアが開いた。芹沢が飛び出そうとすると、エレベータに乗り込もうとする男とぶつかりそうになった。  とっさに身をかわしたつもりだったが、芹沢の肩先が軽く相手の身体に触れた。 「失敬」  相手のほうから声がして、芹沢もあわてて頭を下げた。すぐに顔を上げた芹沢は、アッと声をあげそうになる。ぶつかった相手が、あの宮島秀司だったからだ。  いったいどういうことなのだ。意外な顛末に、芹沢の頭がフル回転を始める。州波がこのホテルに泊まっていて、その部屋まで宮島が送って来たと考えるのが自然だ。部屋の前まで送ってはきたが、そこで別れて宮島だけ帰ってきたということか。  それにしても、州波と宮島が親密な関係であることだけは間違いない。少なくとも、証券会社の役員と大蔵省の銀行局審議官という関係だけでは、こういう展開にはならないはずである。仮にも女性一人が泊まっているホテルの部屋まで、わざわざ送ってくるからには、それだけの理由があるはずだ。  その場に立っているわけにもいかず、芹沢はともかく七階で降りた。入れ違いにエレベータのドアは閉まり、宮島の姿は消えた。  芹沢の驚きも、瞬時にめぐらせた想像も、いまは何もなかったように、あたりは急に静まりかえってしまった。七階に降りたところで、どうしていいのかわからない。芹沢の尾行は、その目的を達しないまま中断を余儀なくされたわけだ。廊下に沿って少し歩いてみて、あたりをぐるっと見回したが、客室のあたりには何の物音もせず、人の気配すらなかった。  あきらめてエレベータまで戻ってくると、芹沢が階下へ降りるボタンを押す前に、上がってきたエレベータが七階で止まるのが見えた。さっきのようなことがないようにと、芹沢は一歩下がってドアが開くのを待った。  男の顔を見て、芹沢はまた驚きの声を抑えなければならなかった。エレベータから降りてきた、見上げるほどに背の高い白人の男の顔にも、やはり見覚えがあったからだ。  誰だかは思い出せない。だが、間違いなくどこかで会ったことがある。おそらく金融関係の人間なのだろう。男は芹沢には目もくれず、すぐ横を大股ですりぬけたあと、迷いも見せずに廊下を歩き始めた。芹沢はエレベータに乗るのをやめて、壁に隠れて男の行方を目で追った。やがて男は廊下の角を左に折れ、そのまま少し行った先の部屋の前で立ち止まった。客室のチャイムを押している。芹沢は廊下の曲がり角の壁に隠れて、部屋のドアが開くのを待った。  芹沢の直感は的中した。ドアが開いて顔をのぞかせ、男を部屋に招き入れたのは、まさしく有吉州波だった。 「やっぱり」  芹沢は思わず声に出した。何がやっぱりなのかわからないのだが、不思議な満足感があった。どちらにしても、州波が大蔵省の宮島に部屋まで送らせて、宮島を帰したあと、別の男を部屋に招き入れたことだけは紛れもない事実だ。  いったい、彼女は何をしようとしているんだろう。やっと捕まえたような気がした州波の本性は、さらに濃い靄に包まれて、見えなくなっていく。 「なあ、哲彦。おまえは本当にあの女とつきあっていたんだよな。あんな女だと知ってつきあっていたのか? それともやっぱり|騙《だま》されていたのか」  芹沢は下りのエレベータに乗りながら、心のなかで明石に問いかけていた。マンハッタンで会ったあの日、いまの自分を支えてくれている女性だと明石ははっきりと言い切った。だが、あのアイリッシュ・バーからの帰り道、タクシーのなかで、嬉しそうに話をしていた明石の顔は、もうはっきりとは思い出せない。  なんとか明石の笑顔を思い浮かべようとしていると、明石の顔に重なるように一人の白人の顔が浮かんできた。さっき、州波の部屋に入っていったあの男である。 「そうだ、思い出した。あの男だ。米国上院議員の、たしかスティーヴン・ロビンソン三世」  突然ひらめいたその名前に、芹沢は自分でも驚いた。さっきの白人は、芹沢が去年の秋ニューヨークに出張した十日の間に、同僚と一緒に顔を出した、大手証券ブローカーの創立記念パーティの会場で見た顔だった。正面のステージに主賓として招かれて祝辞を述べ、場内から大きな拍手を送られていたあのスティーヴン・ロビンソン三世だ。アメリカにおける政界の大物であるだけでなく、アメリカの経済界や金融界にも陰で絶大な影響力を持つ男。現在のアメリカの金融市場は、|米《F》国連邦準|備《R》制度理事|会《B》の議長ではなく、実はこのロビンソン三世が、裏で糸を引いているのだとさえ噂される人物である。 「大蔵省の役人だけでなく、アメリカの政界の重要人物にまで取り入って、いったいあの女は何をしでかすつもりなんだ」  おそらく明石の死は、あの州波と無縁ではない。いや、間違いなく何かある。芹沢の嗅覚がそれを鋭く感じ取っていた。明石はあの女に翻弄され、支配され、何かとてつもないことに利用されたのではないだろうか。あの女ならば、それもあり得そうに思えた。芹沢と再会した直後、明石がそれまで信頼しきっていた女の正体を、何かの理由で偶然知ることになったと考えると、時間的にもつじつまが合ってくる。追い詰められた明石が、なんとかしてあの女から逃れたいために、芹沢に助けを求めてきたのだ。  そう思うと、こらえきれないほどの怒りがこみあげてくる。いますぐさっきの部屋まで引き返して、ドアを蹴破ってでも乗り込んで行きたい衝動にかられる。明石にいったい何をしたのだと、その取り澄ました顔をねじ向けて、揺さぶってやりたくなってくる。  だが、そんなことをしてもいまは何の意味もなさないのだ。何の証拠もなく、州波を追い詰める手立てもない。いまのままでは、芹沢はまったくの無力だった。まず女の正体を突き止めて、確実に明石の無念を晴らすためには、何をすればいいのだろうか。芹沢は唇を噛んだ。強く握り締めた拳が、行き場を求めて震えている。だが、身体の奥から湧き上がるような怒りにも、いまはただ耐えるしかなかった。  なんとしても、突き止めてやる。芹沢は思った。あの女が何をしたのか。明石がどんな思いで死を選ばなければならなかったのか。どんなことをしても暴き出してみせる。それができれば、少しは救いになるはずだ。明石や慶子との過去から、逃げてばかりいた自分の浅ましさも、少しは許すことができるかもしれない。     3  思いがけないニュースが流れたのは、それからちょうど二週間後の、四月二十四日の朝のことだった。ファースト・アメリカ銀行のディーリング・ルームでも、四月最後の金曜日ということで、来週から始まるゴールデン・ウィークを前に、一日のんびりとした相場展開になるだろうと、誰もが予測していた。  皇居に面した窓の外には春の陽射しがあふれ、すっかり生い茂った葉桜の緑に、柔らかな朝の光が反射している。どこからか、遠慮のない大きなあくびが聞こえた。すぐそばから、アシスタントの若い女性が漏らす含み笑いの声も重なる。これといって、目新しいニュースもなく、相場を動かす材料になるような経済指標が発表される予定もない。無防備なまでに穏やかな朝だった。  デスクのモニター画面に映し出された為替市場も、債券市場の気配値も、まるで春の惰眠をむさぼるように、目を覚ましかねていた。  そんなのどかさを切り裂くように、突然一人のトレーダーが大声を発した。 「なに、日本株に大量の売りが入ったって? 海外から売りが殺到して、パニック状態になり始めているらしい?」  証券会社の友人と電話で雑談をしている途中、株式部が騒いでいるのを教えてくれたのだという。  ファースト・アメリカ銀行のディーリング・ルームでは、株の取引は行なわない。だが、すべての市場は相互に影響しあって変動するので、たとえ自分の担当外の市場でも、注意深く耳をそばだてるのがトレーダーの習性というものだ。 「大量売りなんて本当かよ。なんで、こんなところで売らなきゃならないんだ」  隣りの席の同僚が、半信半疑の声を出した。  芹沢は素早くマウスを操作して、市場の動きを確認する。 「おい、見てみろ。|先物市場《フユーチヤーズ》がもの凄い勢いで下がり始めたぞ!」  その声でほかのトレーダー達も一斉にモニターに目をやり、それぞれの市場をチェックした。 「いったいどうしたというんだ?」  ディーリング・ルームは一瞬にして騒然となった。  芹沢はすぐに左手で受話器を取り、米国系証券会社で|金融派生商品《デリバテイブ》を担当している知人に電話をかけてみる。相手の答えは、芹沢の予測をはるかに超えていた。 「そうですか。先物の売りだけでなく、|売る権利《プツト・オプシヨン》も大量に買われているんですね。対象は日本株と通貨オプションですか」  まるで、東京市場が開くのを待ちかねていたような売り手の出現である。 「|売る権利《プツト・オプシヨン》を買うということは、株価が下がることを予測しているということですよね。そして円安もですか。だけど、今日、目新しいニュースなんて何かありましたか?」  モニターを横から覗き込んでいたアシスタントが、|怪訝《けげん》な顔をして芹沢に訊いてくる。 「いや。しかし、かなり大規模な売り圧力があるのは間違いなさそうだな。為替市場のほうは何か聞いているか?」  ディーリング・ルームの為替部門に目をやってみたが、一様に首を傾げるばかりだ。 「急げ、何があったのか突き止めるんだ」  若いアシスタント達に指示を出す芹沢の声が、自然に大きくなっていた。  市場が突然目を覚ました。  間違いなく、何かが起きる。  言いようのないざわめきが、芹沢の全身を貫いた。  俊敏なアシスタントが、証券会社の担当者から現在の株式市場に関する情報を収集する。電話の向こうから聞こえる情報を、彼は同時通訳のように、すぐに声に出して周囲に伝える。 「売り注文がまだ続いているそうです。売られているのは康和銀行を中心とする日本の銀行株です。朝一番から売り始めたのはやはり外人勢で、主に大手の投機筋のようです。そのあと米国の年金筋や、投信も加わっているみたいで、いまは日本人の投資家も追随しているようです。売り材料は特にわからないそうで、なにか特別の情報をつかんだのかも──」  思いがけない展開で、東京株式市場は売り一色になり、ほとんどパニック状態の様相を呈している。あまりの大量の売りに、市場が対処できない状況だった。 「理由はなんだ。なんで康和の株なんか売るんだ?」  相場を動かしている材料を追及しなければならない。その材料によっては、自分の担当する市場への影響も懸念されるからである。 「おい、何かわかったか?」 「いや」  同僚に訊かれて、芹沢は答えた。 「どうも匂うな」  動きが異常なのだ。目に見えないところで、何かが起きているに違いない。動物的な嗅覚に似た直感で、芹沢はそれを察知した。突然の大量売りは何なのか。日本の銀行株を売り崩し、通貨までも押し下げようとしている。その正体に思いをはせた。きっと裏に何かある。そして、たぶんこの動きは、このままでは終わらないだろう。 「大変だ!」  そのとき、芹沢のすぐ目の前から叫び声があがった。芹沢と同じ、銀行間取引の短期金融市場の担当者である。 「康和銀行がすごい勢いで資金の取り手にまわっているそうです。何かとんでもない資金不足に陥っているようですね。もしかしたら、取り付け騒ぎかもしれない──」  銀行間の円資金取引の中継ぎをする、関東短資の担当者から、電話で話を聞いたのだという。 「康和が取り付け騒ぎ?」  芹沢も思わず声が大きくなった。何があったのかは定かではない。だが、康和銀行になんらかの緊急事態が起きていることだけは間違いがなかった。 「康和がコール市場で借りまくっているらしくて、短期金利が急騰しています。そうでなくても、連休前ですから、資金需要の高い時期だというのに。やっぱりこれは取り付け騒ぎにまちがいないですね」 「こんな高い金利で資金を調達していたら、問題のないところでもやられちゃいますよ」  別の若いアシスタントが同情的な声を出した。 「それでもやらないわけにはいかないだろう。それに、まだ借りられるうちはいいほうだ。取り付け騒ぎになっていることが知れたら、|取引の相手《カウンターパート》はすぐに背を向けるからな」  騒ぎを聞きつけて資金部長のボブが席までやって来た。 「セリザワ、現在うちには、邦銀にいくら貸出し残高があるか至急確認してくれ」  芹沢は、すべて完璧に頭に叩き込まれている銀行名と数字を、即座に口にした。確認のために、すぐにデスクの端末機を操作して、資金繰りと貸出しの残高をモニターに呼び出し、数字が間違いないことをボブに指し示す。 「康和銀行向けの残高は?」 「三カ月物を出していましたけれど、それが先月満期になりましたので、いまのところ、残高はゼロです」 「オーケイ、グッド。当面は、相手から国債の担保を取れない限り、邦銀への貸出しは全面中止だ。みんないいな」  それだけ言うと、ひとわたり担当者のデスクを見渡し、ボブは安心したように部屋へ戻っていった。  株式市場がパニックに陥り、集中して売りを浴びせられた康和銀行の株は、ついにストップ安を付け取引停止状態になった。それと前後して、各地で取り付け騒ぎを起こした康和銀行は、客へ払い戻す資金の穴埋めのために、短期金融市場の銀行間取引でもなりふりかまわず借り回った。突然の事態に、市場参加者は康和への貸出しを躊躇したので、康和銀行は資金の調達がさらに困難になったのである。  メイソン・トラスト銀行との業務提携決裂のニュースが流れたのは、康和銀行がすでに身動きできない事態に陥ったあとのことだった。 「原因はこれだったのですね。こうなると、完全に康和銀行の経営危機です。結局、康和銀行はメイソンとの業務提携について契約書調印目前で、一方的に蹴られたみたいですよ」  その声を聞いた芹沢は、モニター画面にかじりつくように見入った。ニュース速報では、ニュースのヘッド・ラインに引き続き、次々と詳しい続報が伝えられてくる。 『康和銀行がかねてより業務提携を発表していた、米国系大手のメイソン・トラスト銀行とは、業務ならびに資本提携に関するおおまかな合意はとりつけていたものの、契約の詳細な事項に関する最終段階での折りあいがつかず、ついにメイソン・トラスト銀行ニューヨーク本店側から破棄の決定を発表──』  そこまで読んだところで、いつのまに来ていたのか、背後に児玉が立っているのに気づいた。 「やっぱりな──」  児玉はさほど驚いてはいないようだ。 「知っていたのか?」 「いやそういうわけではないよ。ただ、うちの銀行としても康和の経営内容に関する情報開示の態度に不透明さを感じてね。提携交渉にも二の足を踏んでいたところなんだ。メイソンの話も危ないんじゃないかと思っていたところだったのさ。うちの幹部連中が康和の役員幹部にも会ったそうだが、なんだかぱっとしない顔ぶればかりだと言っていた。言っていることが、途中わけもなく二転三転するんだそうだ。あの銀行は、信頼できるようなリーダーが誰一人いないと断言していたよ。それが康和のカラーなんだろうかね」 「このあと康和銀行は、どうなるんだろう」  芹沢は心配を隠しきれず、ニュース速報の続きに目を戻した。 『これにより自動的に、当初予定されていたメイソン・トラスト銀行の証券子会社、メイソン・トラスト・アジア証券の主幹事による、同行の劣後債および優先株の発行が中止となり、資本調達が事実上困難になる見込み』  そこまで読み終えたときに、隣りの席のトレーダーが芹沢に声をかけてきた。 「メイソン・トラスト銀行が康和銀行から手を引くきっかけになったのは、昨夜のニューヨークでエコノミストのジョン・ブライトンが、大手経済紙の取材に答えて、康和銀行のことについて辛辣なコメントをしたのが引き金になったようだね。この前の|藤蔭《ふじかげ》組の一件についてもかなり強い調子で批判したみたいだ」  情報交換をしているトレーダー仲間から聞いたらしい。  波瀾に満ちた一日が終わった。芹沢は椅子の背にもたれかかり、大きな伸びをした。ファースト・アメリカ銀行のディーリング・ルームにも、すでに人影はほとんどない。腕時計を見ると夜の十時半を過ぎている。市場の動きの中心は、東京市場が終わったあと、すでにロンドン市場を経てニューヨーク市場へと移っていたが、心配された康和銀行の取り付け騒ぎの影響も、さすがにニューヨーク市場の寄り付きでは少し見られたが、またいつもの週末の静かな展開に戻ってしまったようだ。  本来ならば、東京市場も今日は静かな一日だったはずが、康和銀行のニュースが出たあとは、一度も席を立つ暇がないほど忙しかった。芹沢は帰る前に、一杯だけコーヒーを飲もうと、ランチ・ルームに向かう。薄暗いランチ・ルームでは、片隅に置かれたテレビがつけっぱなしになっていた。  警備会社の人間なのだろう、紺色の制服を着た男が一人、テレビの前に立っているのが見える。夜のニュース番組のようで、やはり康和銀行のことを取り上げていた。  紙コップを片手に、芹沢がテレビに近づいて行くと、ほかにも少し離れたテーブルに座ってテレビに見入っている人影がある。全国各地の支店で起きた今日の騒ぎの様子は、銀行員ならずとも無関心ではいられないのだ。店頭でパニックになった人々の数は、芹沢の想像をはるかに超えるものだった。そのまま立ち止まって、芹沢が画面に見入っていると、児玉に後ろから肩を叩かれた。 「今日は大変だったね。僕もまいったよ。康和のおかげで、円債の市場も大混乱だった。にわかの資金需要で、国債には売りが入ったんだけど、株式市場の暴落で逃げてきた資金が、あとになって国債の買いにまわったりで、まさしくジェット・コースター相場さ」 「どの市場も、ちょっと異常な荒れ方だったと思わないか。やっぱり康和銀行ほどの都銀が取り付け騒ぎを起こすとひどいものだね。必死で資金手当にまわっていたのを見ると、哀れに思えるほどだった。今日の騒ぎで康和はかなり痛手を被ったと思うよ」 「どうだ芹沢、遅くなったついでにちょっと|飲《や》って行くか?」 「そうだな、俺もなんだかまっすぐ帰る気分じゃないな」 「よし決まった。あと少しだけ、今日の取引の確認を済ませたら僕ももう終わりだから。デスクを片付けてからすぐにおまえの席まで行くよ、ちょっと席で待っていてくれ」  急がなくてもいいからと言い置いて、芹沢はコーヒーを持ったまま、自分の席に戻った。  今日一日を振り返るつもりで取引記録を再確認し、芹沢は昨夜のジョン・ブライトンのコメントについて通信社がレポートしているのを見つけた。今日の東京市場を揺るがせる発端になったものである。そう思って、芹沢はコメントの全文を丹念に読み進んだ。 「おう、なんだ、おまえもブライトンのコメントを読んでいたのか。考えてみればこのコメントがすべての引き金になったんだよなあ。まさか彼としても、このコメントが、一夜明けた東京でここまでの事態を招くとは、想像していなかっただろうな──」  帰り仕度を済ませてやってきた児玉は、何げない口調でそう言った。  ああ、そうだろうな、と相づちを打とうとして、芹沢はハッと顔をあげた。  エコノミストのブライトンと康和銀行。一見すると何のつながりもないように見えるこの二つは、本当に無関係なのだろうか。芹沢は自分の思考回路を、何かが妨害しているのを強く感じた。なぜブライトンが康和銀行のごとき邦銀のことを、とりたててコメントする必要があったのだろう。はたして本当に偶然だったのだろうか。何か別の、特別な意図があったとは考えられないだろうか。そして、もしも、このブライトンのコメントが出たのが、実は偶然ではなかったとしたら──。  自分のなかに芽生えたこの仮定が、単なる推測によるものであることはわかっている。だが、考えれば考えるほど、否定しきれない気がするのだ。  返事をしない芹沢に、児玉がまた声をかけてきた。 「世の中、まったく何が災いするかわからないよ。康和銀行も運が悪かったよな。な、おい芹沢、聞いているのか?」  芹沢はあらたまった顔で、児玉を振り返った。 「なあ、児玉。本当にブライトンは今日の事態を予想していなかったのだろうか?」  芹沢は児玉の反応が知りたかった。 「そりゃあ、そうだろう。康和銀行がこんなになるなんて、まさかブライトンだって予想できるわけないじゃないか──」  そこまで言って、児玉は急に黙り込んだ。そして、いきなり芹沢のほうを向いたかと思うと、じっと目を見合わせた。 「おい、まさか──」  児玉も、芹沢と同じ思いに捕われたようだ。  もし、ブライトンがこうなることを意図してコメントをしていたのなら、すべてが別の意味を持ってくる。  芹沢の脳裏に、以前恵比寿のウェスティンホテルで見かけたジョン・ブライトンの顔が浮かんできた。あのときそばにいたのは、モーリス・トンプソン証券の|最《C》高経|営《E》責任|者《O》や東京支店長、それにあの有吉州波である。 「さっきテレビで、昼すぎの大蔵省の話がVTRで流れていたよ。あれを聞いていたら、意図的に藤蔭組のことを持ちだして、公的資金の導入を、わざと国民に反対させるように仕向けているような感じを受けた。しかも出演していた井村というのは、銀行局では宮島の配下だろう。彼のコメントが流れた時間帯をみても、今回の康和銀行の取り付け騒ぎに火をつけるには、あまりにタイムリーだった。そうは思わないか?」  芹沢は、州波と宮島を帝国ホテルで見かけたときのいきさつを話して聞かせた。そのすぐあと、宮島と入れ替わるようにして部屋に入っていったのが、上院議員のスティーヴン・ロビンソン三世だったことも付け加えた。  児玉は思いがけない話に、最初は驚いた顔をしていたが、持ち前の回転の早さを発揮してか、すぐにしたり顔になった。 「驚いたな。康和銀行の明石さんとモーリス証券の有吉女史。モーリスの本社のCEOと東京支店長、そしてエコノミストのジョン・ブライトン。さらには大蔵省の次世代のキー・マンと言われる宮島秀司氏と、米国金融界の陰の大物と噂されるスティーヴン・ロビンソン三世か。すごい|面子《メンツ》だけれど、これらが実はすべて一本の糸で繋がっていたというわけなんだな。みんな康和銀行崩壊劇を画策した立役者ということか」  今回の康和銀行の取り付け騒ぎは、すべて仕組まれたものではなかったのだろうか。芹沢に浮かんだひとつの疑惑は、児玉がそうやってはっきりと口にするのを聞くと、あらためて揺るぎない真実のように思えてくる。児玉は続けて言った。 「だけど、いったい何のためだ。康和銀行が潰れることで、彼らがどんな得をするというんだ。モーリス証券や、大蔵省や、米国金融界の得になることというと、何があると思う?」  児玉に言われるまでもなく、芹沢にとってもそれが最大の謎だ。 「わからないよ。だけど、どうやら何かが裏で動いているらしいということだけは、間違いなさそうだな」 「おい芹沢、もしかしたら明石さんの自殺も、どうやらこのことに無関係ではないかも知れないぞ」  児玉の思いは、まさに芹沢と同じだった。 「おまえもそう思うか?」 「これは、とんでもないことになってきたな」  そう言って芹沢を見る児玉の顔は、見たこともないほど青ざめていた。自然に芹沢の顔も|強張《こわば》ってくる。もしも二人の推理が正しいとしたら、ある特別な目的のために、日米両国の企業と官僚と政財界が手を組んで実行した、とてつもない陰謀である可能性も出てくるのだ。 「どうする?」  児玉が訊いた。 「俺はこれまでずっと、明石が死んだ理由を知りたいと思ってきた。その気持ちはいまも変わらないよ。いや、ますます強くなってきた。こうなったら、なんとしてもその原因を究明したいと思っている。実はな、これは誰にも言うつもりはなかったんだけれど、ニューヨークで二十年ぶりに明石と会った次の朝、明石からファックスが届いたんだ」  芹沢は、届いたファックスのことも、中学時代よく同じようなメモを書いてよこしたことがあったことも、すべてをありのまま児玉に話して聞かせた。 「俺がすぐにあのメッセージに気づいてやっていたら、明石を死なせずに済んだのだ。あのとき、俺がすぐに電話をかけて、あいつの話を聞いてやっていたら。そうなんだ、俺はすぐ近くのホテルにいたんだから、あいつの部屋まで会いに行くことだって、簡単にできたのさ。だけど、俺はそれさえもしなかった」  芹沢はそう言って、児玉から顔をそむけた。 「しようがないよ、芹沢」 「いや、そんなことはない。あのときちょっとでも話を聞いてやっていたら、もしかしたら明石はなんとかなったのかも知れない。少なくとも死なずに済んだはずだ」  いくら悔やんでも悔やみきれない。あのときの自分は、本当は明石をまだ嫉んでいたのかも知れない。そして、心のどこかで|疎《うと》んじていた。これ以上近づきたくない、深入りしたくない。そんな気持ちがきっと無意識に明石を遠ざけてしまったのだ。  俺はそれほど浅ましい男だ。芹沢はそう言いたかった。だが、それすらも口に出せず、固く握り締めた拳で、何度も自分の膝を叩いた。 「やめろよ」  児玉は、見かねたように芹沢の手首を取った。 「なあ、明石さんの身に何があったのか調べてみよう。あの人、もしかしたら、自殺じゃなかったということも考えられるのじゃないか。どこかから、何かとんでもない圧力をかけられて、むりやり死を選ばされたということだってあり得るだろう」  芹沢は、はっとしたように顔をあげた。 「そうだな」  もし明石が、誰かの意図的な目的のために死を選ばされたとしたら、それこそ断じてそのままにはしておけない。 「だけど、調べるといっても、いったい何から手をつけたらいいのか。どこをどうやって切り崩せばいいのか──」 「僕も手伝うよ」 「手伝ってくれるといっても、相手はどんな人間かわからないし、何か特別な組織という可能性もある。とんでもないことに巻き込まれるかもしれないぞ」  明石を死に追いやるほどの人間達なら、その秘密を守るためには、何をしてくるか知れはしない。 「だったらなおさらだろう。芹沢一人でやるより、僕も一緒のほうがいいに決まっている」 「本当にいいのか、児玉?」  児玉は芹沢の肩に手を置いて、黙ったままでうなずいた。 「すまん」  もっと何か言わなければと思った。だが、芹沢にはそれしか言葉がなかった。児玉の手が置かれた肩のあたりから、児玉の気持ちが沁みてくるような気がした。     4  五月初めの連休を利用して、芹沢裕弥が六日間のニューヨーク行きを決めたのは、明石の最期の様子が知りたかったからだ。六日間といっても、実際にマンハッタンに滞在できるのは、わずか四泊という駆け足の旅である。四日間ぐらいで何ができるかとも思ったが、芹沢はどうしてもニューヨークへ行かずにはいられなかった。  自分と偶然再会した日から、死の当日まで、明石がいったいどうやって過ごしていたのか、そしてどんなふうに死んでいったのか、芹沢は知っておくべきだと考えた。  客で満杯の旅行代理店に飛び込んで、航空券をなんとか確保し、明石からもらったあの名刺の電話番号で、明石が飛び降りたホテルに部屋を予約した。そこは長期滞在者のためのホテルだったが、割増し料金を払うと言ったら、四泊でも受け入れてくれたのだ。  成田空港で機内に乗り込んだ瞬間から、芹沢は何度も息苦しさに見舞われた。半年前、日本へ帰る飛行機の中で、明石の死を告げるニュースを読んだときのことが、生々しくよみがえってきたのだ。半年ぶりでJ・F・ケネディ空港に降り立ったとき、その感覚はさらに強くなった。  半年間で少しは癒えたと思っていたものが、実はまだなにも薄れてはいなかったことをあらためて思い知らされる気がした。空港からタクシーに乗る前にも、車がマンハッタンにさしかかったときにも、芹沢はたびたび胸を反らし、意識的に深呼吸を繰り返していた。 「できれば、二十三階の十号室に泊まりたいんだけれど」  ミッド・タウンのホテルに到着したとき、芹沢はフロントの担当者に二十ドル札のチップを渡して頼んでみた。あのとき明石がくれた名刺の裏に、あの神経質そうな文字で書き残してくれた部屋番号である。 「あいにく、その部屋はいま塞がっています。それより、同じ二十三階には、もっといい部屋が空いていますので、そこではいけませんか?」  若い白人のホテル・マンは、執拗に二十三階にこだわる短期滞在の客を、怪訝な顔で見ていたが、すぐにそう言って十号室と同じ並びの角部屋をとってくれた。部屋まで案内してくれたのは、そばかすだらけで、前歯に歯列矯正の金具をつけた話し好きな若い娘だった。芹沢は、半年前このホテルから飛び降りた日本人客の話を聞きたくてここに来たのだと説明し、自分は日本から来た友人なのだと付け加えた。  短い滞在期間の間に、できるかぎりのことを知りたかった。明石のことを覚えている人なら、どんな人にでも会ってみたい。そのためには、たとえ一時間でも無駄にしたくはなかった。 「その人のことは聞いたことがあります。本当に気の毒なことをしました。でも、あいにく私はそのときまだこのホテルに入っていませんでしたので、誰かその当時のことを知っている人をお呼びしましょうか」  若いベル・ガールは、誠実そうな顔を曇らせて言った。 「ぜひお願いします。私は彼の幼いころからの友達なのです。警察の人間でも何でもなく、ただ、彼の最期のことを知りたいだけなんです。当時のことを知っている人なら誰でもいい、ちょっとしたことでもいいから、会って話を聞かせてもらえるとありがたい」  芹沢の頼みに、彼女は同情をこめた顔でうなずいて、あとで部屋まで来させるからと言い置いて、出ていった。  部屋はかなり広く、長期滞在者のためにゆったりと作られている。キングサイズのベッドのある寝室とは別に、大きなソファ・セットの置かれたリビングが付いていた。おまけに、広々としたバス・ルームの向かい側は、大きな冷蔵庫のあるキチネットになっていて、レンジからオーブンや皿洗い機まで備えられている。引き出しや戸棚を開けてみると、食器やグラス類、それにナイフやスプーンから布巾にいたるまでが揃っていた。  これなら相当長く滞在しても、不自由することはない。そんなことを考えて感心しながら見回していると、部屋のドアをノックする音がした。芹沢はすぐにドアのところまで行って、覗き窓から外を見た。  廊下にはホテルの制服を着た五十歳ぐらいの白人女性が立っていた。痩せて骨張った体形で、縁のない眼鏡をかけている。手には黒いバインダーのようなものを抱えていた。 「どなたですか」  芹沢は一応訊いてみる。 「キャシーから、言われて来たのですが」  さっき部屋まで案内してくれたベル・ガールが、胸にキャシーという名札をつけていたのを思い出した。芹沢はすぐにドアを開け、女性を部屋に招き入れた。 「ローラ・バーンズと言います。このホテルのサブ・マネージャーです。昨年秋にご滞在されたミスター・アカシのことをお聞きになりたいとか」  丁寧ではあるが、完璧なまでに感情を排除した言い方だった。 「はい。私は明石哲彦の古い友人です。彼の最期の様子をどうしても知りたいと思ったので、このホテルに泊まりにきた者です。彼のことについてなら、どんな些細なことでも結構ですから、聞かせてもらえませんでしょうか」  芹沢は誠意をこめて頼んでみた。 「ミスター・アカシはお気の毒でした。彼は亡くなる前の二カ月間、ここに滞在しておられました。この廊下の先の十号室です。ですが、正直申しまして、あの事件ではわれわれもかなり迷惑を被ったわけで。それに、ホテル側の工事はすべて合法的で、なんら問題もなかったことです。事故の直後も含めて、警察の取り調べなどで、営業にも大変支障をきたしました。ミスター・アカシが亡くなられたのは、間違いなくご本人の意思によるものと、検証の結果、警察も最終決定を下しましたので、本来ならば、当ホテルとしてはご遺族になんらかの損害賠償を請求することも可能だったのです。でも、私どもの幹部はあえて行なわなかったのです。ご遺族からも、工事関係者への損害賠償は行なわれなかったと聞いておりますので、事情はすべてご了解済みのことと私は理解しています」  ミセス・バーンズはひどく早口で、まるであらかじめ暗記していた文章のように、一気にまくしたてた。 「ご遺体はどうでした?」  芹沢がやっとの思いで口をはさむと、ミセス・バーンズは、オーと言ったきり、手を口にあて、目を閉じて顔をそむけた。初めて彼女が感情らしいものを見せたと芹沢は思った。だが、思い直したように顔をあげ、指で眼鏡の位置を直してから、すぐにもとの冷静さに戻って、話を続けた。 「一度どこかにひっかかったあと、下の路上に叩きつけられたのではないかと聞いています。それはちょっと口では言えないぐらい悲惨なものだったそうです。私は直接見てはいませんでしたが。ご遺体については、康和銀行の方がすべてお世話をしてくださいました。ミスター・アカシが亡くなられてしばらくしてから、一度奥様がお見えになりまして──」 「え、彼女は来たのですか?」 「はい。半月ほどしてからでしたでしょうか。奥様はご主人が亡くなったところに白い花束を置きたいとおっしゃいました」  葬儀などがすべて終わったあと、慶子はニューヨークに来ていたのだ。遺影だけを前に、遺体のない通夜を行なったとき、遺体はニューヨーク市警察の検死のあとで、|荼毘《だび》に付されてから、康和銀行のニューヨーク支店の人間に抱かれて帰国するのだと、慶子から聞かされていた。だが、そのあと慶子がニューヨークに来ていたことについては、なぜか何も聞かされていない。 「ホテル側としては、営業上のこともありますので、ご遠慮願いました。こちらにお泊まりいただいていれば話は別でしたが、部屋も見ないですぐにお帰りになりましたからね。それで持って来られた花束は、部屋ではなく路上に置いていかれたようでした」  慶子がそのときどんな思いだっただろうと思うと、一緒に来てやるべきだったと悔やまれてならない。 「ミセス・アカシは遺品の整理に来られたわけですね」  慶子はきっと明石の遺品の整理を一人でやったのだ。さぞかし辛い思いをしたに違いないと芹沢は思った。 「いいえ、遺品については、ミスター・アカシが亡くなられた翌日、すぐに康和銀行の方が来られて、みんなお持ち帰りになられました。これはとても迅速な処理で、私どもも恐縮したぐらいです。もちろん遺品に関しては警察の検証もありましたが、まもなく自殺と断定されましたから、これもごく形式的なものだったようです」  康和銀行が、翌日すぐに遺品をすべて持ち去ったというのは、|解《げ》せない気がした。少なくとも遺族である慶子の立ち会いか、承諾を得て行なうべきではないか。 「康和銀行の誰が来たのですか?」 「それはちょっとわかりません。とにかく数人来られまして、あっという間にみんな持って行かれましたよ。こちらとしては助かりましたけれど」 「そうですか、ほかには?」 「それぐらいですね。これ以上は、特にお話しできることはありません。それに私はもう勤務時間も過ぎていまして──」  芹沢には、康和銀行の態度がどうも気になってしかたがなかった。もう少し聞きたいと思ったのだが、ミセス・バーンズはすぐにも立ち去りたいという顔をしている。 「結構です。どうもありがとうございました」 「どういたしまして」  ミセス・バーンズは、また事務的にそう言って部屋を出ていこうとした。 「あ、すみません。検死に立ちあわれた康和銀行側の方と、担当の検察官か誰か、警察の方をご紹介いただけませんか。もう少し当時のお話を聞いてみたいものですから」  芹沢は努めて丁寧に頼んでみた。 「|ニ《N》ュー|ヨ《Y》ー|ク《P》市警|察《D》の担当者ですね。この一件に関わりのある人間については、すべて名前と電話番号が控えてありますから、ご自分で電話なさってみられるのならお教えできますが──」  ミセス・バーンズは、そう言っていったん芹沢を見た。芹沢がぜひ知りたいと言うと、ことさら大儀そうな顔をして、持っていた黒いバインダーを開き、リストの中から名前と電話番号を探し出して、黄色のメモ用紙に書き写して芹沢に手渡した。 「ミスター・ケン・ササキですか。日系人の名前のようですね?」  芹沢は読みにくい文字を確認するように尋ねる。 「私にはわかりません。ああ、でも康和銀行の方達とは日本語で話していたようでしたから、たぶんそうかもしれません。康和銀行の住所と電話番号はこれです」 「銀行側の担当者の名前はわかりませんか?」 「それは控えていませんね。銀行に行ってみれば、おわかりになるのではありませんか?」  ミセス・バーンズは肩をすくめながら言った。芹沢はもう一度礼を言って、ミセス・バーンズを廊下まで見送った。  次の日、メモに書いてある通り、ニューヨーク市警察に電話をして、ケン・ササキと会う約束を取り付けるつもりだったが、何度電話をしても不在だった。三度目に電話をしたとき以降は、明石哲彦のことについて知りたくて日本からやってきた友人だと、毎回伝言を残し、ホテルの電話番号も一緒に伝えておいた。  夕方もう一度電話をかけたとき、ササキはほかの電話に出ていたらしく、数分後にまたかけ直すと、今度はもう出かけたあとだという。しかたなく、もう一度同じ伝言を残しておいたが、夜になっても電話はかかってこなかった。  翌朝、朝食を終えた芹沢が、直接ニューヨーク市警察に行ってみるしかないかと思っているところへ、電話がかかってきた。 「芹沢裕弥さんですか。ニューヨーク市警察のケネス佐々木と申しますが」  電話の声に混じって、かなり騒音が聞こえてくる。 「何度もお電話をいただいて、申し訳ありません。いまラ・ガーディアからかけているんです」  佐々木の説明によると、今日から一週間の休暇に入り、これから家族でシカゴの妻の実家に行くのだという。飛行機に乗る前に、急いで空港のロビーから電話をくれたようだ。芹沢は自分がニューヨークへ来た事情を、かいつまんで説明した。 「芹沢さんはいつまでニューヨークに滞在されますか?」  佐々木は日系の三世だと言ったが、ときどき、癖のある発音だなと思う単語が出てくる程度で、|流暢《りゆうちよう》でしかも丁寧な日本語だった。 「仕事がありますので、明後日の朝には帰国しなければならないんです」 「そうですか。明石さんのことに関わった担当官は、僕以外にもいたのですが、いまは転勤になったりしていますので、すぐには会えないと思います。そうですか、そんなに早く帰国されるのですか。ぜひ何かお役に立ちたかったのですが」  佐々木はひどく残念そうに言い、時間がないのでと謝りながら電話を切った。  いてもたってもいられない思いでニューヨークまで来てはみたが、収穫はまるで得られなかった。来る前に、もっと周到に準備をするなり、少なくとも会いたい人間と約束を取り付けてから来るべきだったと、芹沢は自分の行動を悔やんだ。  ニューヨークに到着して以来、明石に関わりがありそうなところには、思いつくかぎり、すべて行ってみた。ホテルに住まいを移す前、慶子や息子と暮らしていたというニュージャージーの家のそばにも行ってみたが、明石を知る人物とは会えなかった。  康和銀行のニューヨーク支店には何度も足を運んだ。だが、日本では取り付け騒ぎが起きた直後ということもあって、銀行の人間から直接明石のことを聞き出すことは無理だった。人事異動で、日本から来ている邦人行員も現地採用の行員もすべてが入れ替わっていると言われた。最初は、明石のことについて話をしたくない口実だろうと思っていたが、それはどうやら事実のようだということがわかった。  つまりは、銀行のなかに、当時の明石のことを知っている日本人が一人もいないのだ。現地採用の日本人もなぜかほとんどが辞め、新しい人間を採用しているらしい。それも不自然な話だった。いくら定期的に人事異動があり、最近は支店の規模を縮小しているとしても、そこまで全員入れ替えるところをみると、裏に何かあるのかもしれない。明石や、明石の死について、少しでも知っている人間を排除しなければならないような、何か特別の理由があったと考えたくなるのは当然ではないか。  だが、かと言ってそれを証明するものは何もなかった。頼みの綱にしていた康和銀行の人間から、何も聞き出せないとなると、あとは警察とホテルの関係者以外には、誰に会えばいいのか見当がつかなかった。実際のところ、自分は明石について何も知らないのだ。そのことにあらためて気づかされる思いだった。あのとき明石と再会したのは二十年ぶりで、しかもほんの数時間だけのことだったのだから、無理もないのかもしれない。  ただ一人だけ話が聞けたのは、去年秋の研修で一緒だった同僚が紹介してくれた友人で、一度明石と会ったことがあるという。だが、その男の話もさほど詳しいわけではなく、おぼろげながら浮かんできた明石の人物像というのは、康和銀行でトレーダーとして活躍していたということぐらいだった。一時は派手に取引をしていたこともあったらしい。  自殺のことはもちろん知っていたが、その時期がちょうど山一証券の自主廃業の発表と重なったので、あまり話題にならなかったようだ。  一日があまりに短かった。可能なかぎり歩き回ったが、ほとんど徒労に終わった。ニューヨークに来たことすら無駄だったようだ。何か必ずつかめると意気込んで来たのに、虚しさだけを感じて帰らなければならない。あとせめて一週間いれば、少しは何かつかめるかもしれないとも思ったが、仕事のことを考えると、どうすることもできなかった。  悔しさに眠れない夜があけ、ニューヨーク滞在の最後の日が来た。明日の朝にはもう帰らなければならないので、東京の児玉に報告の電話をしようと思って受話器に手を触れた途端、ベルが鳴った。驚いて出てみると、昨日電話で話したニューヨーク市警察の佐々木からだ。 「明日の朝お帰りになるのでしたよね」  佐々木は妻の実家からかけているのだと言う。休暇先からわざわざ電話をくれたのだと思うと、心から礼を言いたくなる。 「直接お会いできればよかったのですが。もし、何か少しでもお役に立てるようでしたら、せめてお話だけでもさせていただこうかと思いまして」  佐々木は相変わらず丁寧な言い方をする。芹沢が、とにかく何でもいいから明石のことについて聞きたいと答えると、佐々木は、明石の死が自殺と断定された経緯について話し始めた。 「一番の決め手になったのは、目撃者がいたことなんですよ。道路をはさんだ向かいのビルがアパートメントになっていまして、そこに住んでいる老婦人が、かなり年配の女性なんですがね、たまたま直前の明石さんの動きをずっと見ていたのです」  彼女の部屋は、明石の飛び降りた階よりは一階下になるのだが、証言によれば、明石は間違いなく一人で、工事中で壁に穴があいた状態になっていた窓のそばに立ち、しばらく考え事をしていたらしい。なんだか深刻そうなので、何事もなければいいがと思って見ていると、明石はまもなく一人で身を乗り出し、あっと言う間に飛び降りたのだという。 「遺書らしいものはまったく見つかりませんでした。ご存知のように、そちらのホテルは各階に十二室しかありません。明石さんがおられたときも、同じ階にある部屋のうち、滞在者がいたのは明石さん以外に四部屋で、いずれも当時は留守でした」  その日は明石を訪ねた人間もなく、特に周辺に不審な人物は見られなかったと、ホテル関係者は証言しているらしい。 「康和銀行の同僚の話のなかに、明石さんはしばらく前からかなり過労気味で、仕事上のことで悩みがあったらしいという証言がありました。銀行の中で、亡くなるちょうど一カ月前に昇進されていまして、責任が重くなった分だけ、かえって心の負担になっていたのではないかということです。そのための不眠症で、医者からたびたび睡眠薬を処方されていたことなども判明しています。ですから、明石さんの死は、軽い鬱症による発作的な自殺だと断定されたのです」  芹沢は、明石が死ぬ前日に会ったときの様子や、ファックスの話をした。少なくとも芹沢が会ったときには、どうしても自殺をするような人間には見えなかったと言いたかったのだ。州波という女性の存在については、説得力のある説明ができそうになかったので、口にすることをためらった。佐々木は、たとえファックスの話を考慮しても、やはり鬱症的な症状を裏付けるだけだと、申し訳なさそうな声で言った。 「ただね、ほかのスタッフはそうでもなかったのですが、僕個人としてはそれで完全に納得したわけではないところがありましてね。康和銀行のことで、ちょっとひっかかっていることはあるんです。彼らは非常に協力的でしたし、決して問題はないのですが、どうも動きがあまりにスムーズでしてね。それが、なんと言うか、少し気になったというところです。だからどうだと言われると、何もないのですがね。まあ、そんなことはないと思いますが、もし今後何か状況が変わったり、新しいことがわかればご連絡しますよ」  佐々木は好意的だった。芹沢も東京の連絡先を教えて電話を切った。佐々木と話ができたことはよかったが、ひどく忙しい様子で、いったん自殺と断定されていることについて、この先もまだ調べが続けられるかどうかはわからないとのことだった。結局のところ、自殺だということが決定的になっただけで、芹沢にとっては、その原因も、そのときの明石の様子も、わかったことは何ひとつないのである。  電話を切ったあとは、児玉に電話する気も失せてしまった。芹沢は一度大きくため息をついたあと、窓のそばまで行って、外を眺めた。  窓からの景色は、前回芹沢がこの街に来たときに較べると、何もかもがまるで変わっている。あのころの寒々とした晩秋のマンハッタンが、いまはすっかり華やいだ空気に塗り替えられていた。あのころ、|霙《みぞれ》のなかで気難しげに立っていたクライスラー・ビルが、いまは春の陽光を反射して、まぶしいほど明るい銀色に輝いている。  だが、芹沢の心の中は季節とはまったく正反対だった。何を見ても虚しかった。目の前にひろがるビル群も、すべてが空々しい映像を見ているようだ。  ちょうど半年前、こうやってミッド・タウンのホテルにいたときは、芹沢は明石との再会が嬉しくてならなかった。二十年の歳月を超えて、明石と自分とを偶然に会わせてくれたのが、目に見えない大いなる力であったのだとしたら、芹沢はそれが運命であれ、あるいは神や仏であれ、感謝したいと思ったぐらいだ。少なくとも、自分からは一生会おうとはしなかっただろう明石に、あんなに唐突に会わせてくれたのは、特別な何かである以外には考えられない気がする。  しかし、いまはその大いなるものに向かって、どうしてなのだと問いたかった。なぜ明石は死ななければならなかったのか。そして、会った直後に死なせるぐらいなら、どうして自分を明石に会わせてしまったのか。  芹沢は、それ以上立っていられなくなってベッドに倒れこんだ。こんな想いを抱えたまま、明日はもう日本に帰らなければならない。ニューヨークになど来るのではなかった。自分がまた一歩、身動きのできない深みに沈んでいくように感じていた。  そのとき、誰かがドアをノックする音がした。  誰も来るはずがないと思い、そのままにしておいた。たぶん気のせいだと思ったからだ。だがもう一度、またノックの音が聞こえたので、芹沢は力なく起き上がってドアまで行き、覗き穴から外を見る。ドアのすぐ前には、おそらくヒスパニック系らしき大男が立っているのが見えた。腰のベルトから、何やらたくさんの道具類を下げている。部屋から返事がないので、自分でドアを開けるつもりらしい。 「どなたですか?」  芹沢があわててドア越しに尋ねると、水まわりの点検に来た修理の人間だという返事だ。そう言えば今朝がた朝食に降りたとき、フロントでそんなことを言われたような気がした。芹沢がチェーンをつけたままドアを小さく開けると、男はにこっと笑って、胸に下げているプラスティックの名札を手でつまんで見せた。 「バス・ルームのパイプの点検に来ました」  男はしゃがれた声で、母音に癖の残る英語でそう告げると、またにこっと笑ってみせた。浅黒い大きな顔に、ぎょろりとした黒い目や厚い唇は、黙っていると怖いような威圧感があるが、笑うととても人なつこい風貌に変化する。 「オーケイ」  芹沢はいったんドアを閉め、チェーンをはずして男を部屋に入れた。男はドアからまっすぐバス・ルームに向かい、ほんの五分ほど何か作業をしていたようだが、すぐに出て来て、またにこっと笑った。 「ありがとうございました」  つられてこちらもつい笑ってしまうほど、温かみのある笑顔だ。男はボールペンを差し出し、点検書類に作業済みのサインを求めた。 「もし客がいなかったらどうするの?」  芹沢は何気なく訊いてみた。特に理由があったわけではない。ただ、自分でそう言ってから、自分が誰かと話をしたくてしようがなかったのだと気がついた。男はズボンの後ろのポケットからカード・キーを取り出して見せた。 「これがあるから、入れます。私はこのホテルの水まわりの点検や修理をまかされて、もう十年になりますからね、一応どの客室にも入ることを許可されているので──」  ふと、芹沢の頭にあることが浮かんだ。 「そのマスター・キーを使えば、この階の十号室にも入れるの?」 「そりゃ、もちろん入れますよ」  男は当然だという顔で答える。 「ちょっと頼みがあるんだけれど。ほんの一分でいいんだ。十号室に入らせてもらえないかな。少し中を見るだけなんだ。あなたが一緒にいて、俺が何もしないようにそばで見ていればいいから。頼むよ、だめかな?」  芹沢は、ただ明石がいた部屋の中を、ほんの少しだけでも見てみたいと思ったのだ。 「まあ、それはいいですが、どうして十号室を見たいのですか? この部屋のほうがずっと広いし、いい部屋ですよ」  男はいぶかしげな顔で芹沢を見た。 「あなたは知らないかもしれないけれど、去年の秋、俺の友達があそこから落ちて死んだんです。その男とは子供のときからの友人でね、実は俺は日本からやって来て、本当はあの部屋に泊まりたかったんだけれど、断られたものだから──」  男の表情がはっきりと変わるのがわかった。 「あなた、アカシの友達ですか?」  芹沢の言葉を遮るように言う。 「そうです。あなたは彼を知っているのですか?」  今度は芹沢のほうが驚く番だった。 「そうですか。アカシの友達でしたか。アカシはいい人だった。あんないい人が自殺するなんて、私にはいまも信じられない」 「明石のことを知っているなら、お願いですから聞かせてくれませんか。何でもいい、どんな小さなことでもいいから教えて欲しいんです」  芹沢は、襟元から濃い胸毛がのぞく男の胸に、すがりたいぐらいだった。 「オーケイ。私について来てください」  男は先にたって部屋を出た。芹沢もあわててあとを追う。廊下を少し行くと、芹沢の部屋とは同じ並びの逆側の角部屋が十号室だった。男は少しあたりを見回し、廊下に誰もいないことを確かめたあと、マスター・キーを差し込んだ。  十号室は、芹沢の部屋よりずっと狭かった。いまは空き部屋になっているのか、ベッドのシーツがはがされたままだ。リビングとベッド・ルームが一部屋になっていて、ソファの横には小さなダイニング・テーブルと椅子が置かれていた。 「アカシはよくここで仕事をしていました。土曜日も日曜日も、彼は仕事ばかりしていた。何をしているのかと尋ねたら、銀行で相場の仕事をしているから、いろいろ勉強することがあって大変なのだと言っていました。アカシとはときどき話をしました。私に息子がいるという話をすると、それからはよく息子のためにと言っていろんなものをくれました。お菓子だったり、おもちゃだったり。自分にも日本に息子がいるんだと懐かしそうに言っていた。どうして家族が一緒に暮らさないのかと不思議だった。それをよく質問したものですよ。淋しくないのかって聞くと、淋しいよと言って笑っていた。それならどうして離れているのかって、また聞いた。すると、仕事だからってアカシは言うんです」  芹沢は、この部屋で男と明石が交わした会話が、目に浮かぶような気がした。 「私なら、家族のために仕事をするよって言いました。だって、仕事のために家族と別れて暮らすなんて、逆じゃないですか。家族と別れなければならないぐらいなら、一緒にいられる仕事に変わればいいでしょう。私にはどうしてもわからなかった。あんなに優しいアカシなら、家族のために一緒に暮らすほうを、どうして選ばなかったのかと思います」  芹沢は返す言葉がなかった。日本では単身赴任は珍しくないのだと言っても、息子が受験だから明石を残して東京に帰ったのだと説明しても、この男に理解できるとは思えなかった。 「息子は将来いい大学に入るために、いまから日本に帰って勉強しているのだとアカシは言っていました。息子にはそれが大事なのだともね。そんなこと、理解できないことです。夫婦はどんなときも一緒に暮らすべきでしょう。もしかしたら、奥さんはアカシを愛していないのではないかと、私はまた訊いた。アカシはただ笑っていました。あんなにいい人なのに、可哀想だとそのときは思いましたね」  何を思ったのか、男は突然先にたってドアのほうへ向かい、芹沢に向かって手招きをした。芹沢があわててついて行くと、ドアを出て、廊下を渡り、もう一度マスター・キーを使って、今度は向かいの部屋に入って行く。  続いて芹沢も部屋に入る。少し暗い感じがする。だが、壁紙がまだ真新しく、改装されたばかりのように見えた。 「──この窓ですよ。この窓からアカシは飛び降りた」  男はそう言って声をつまらせた。そうだったのか、明石は泊まっていた部屋からではなくて、向かいの部屋から飛び降りたのだ。 「あのころ、廊下のこちら側の部屋はまだ改装工事の最中で、この窓もまだ枠が入っていないままでね。考えてみれば危ない話ですよ。もしアカシの奥さんがアメリカ人だったら、絶対に訴訟を起こすところでしょうね。なぜって、工事中という張り紙もしていなかったし、工事の人間が自由に出入りするから、部屋の鍵もかかっていなかった。窓枠も入れず、壁に大きな穴がぽっかり空いた状態で放ってあったんですよ。誰でもふとやってきて、落ちる可能性があるわけです。普通ならどうしてこんなふうに放置しておいたのかって、家族が訴えてもいいぐらいだ」  男の声は怒りに満ちていた。 「ここのサブ・マネージャーに会ったけれど、彼女は逆に明石を訴えることもできたと言っていましたよ。明石の死は間違いなく本人の意思だったから、ホテル側としては、営業上の不利益を被った損害賠償金を請求することもできたんだと言っていました。もっとも請求はしなかったらしいけれど」 「ミセス・バーンズですね、そんなことを言ったのは」  芹沢はそうだと言ってうなずいた。 「彼女らしい言い方です。だけど、それはみんな嘘ですよ。実際、ホテルはアカシの勤め先から何がしかの金を受け取ったはずですよ」 「え、それは本当ですか?」  ホテル側が損害賠償金の請求をするのは、訴訟社会のアメリカだから十分あり得るとしても、康和銀行が、自殺をした一行員のために、それを払ったというなら、それも不可思議な話である。 「間違いありません。ここの財務課の人間が古い友人でね。彼女に確かめたのだから本当の話です」 「あなたは、明石は本当に自殺だったと思いますか?」  芹沢は思い切って男に尋ねてみた。男は顔を曇らせて、しばらく黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。 「残念だけれど、アカシは自分で飛び降りたと、警察は結論を出しました。私はそんなことは信じたくないけれど、だいぶ心配ごとがあったらしい様子は私も感じていました。それが何なのかは知りませんが、少なくともその日の夕方、アカシの部屋には誰も来た形跡がなかったようだし、アカシがここから落ちたとき、誰もここに出入りした様子はなかったそうです。警察は何度も詳しく調べていたし、私も警察には何度も聞かれましたよ。だけどその日は、私は非番だったから、アカシとは会っていなかったので、何か変わったことがあったのかどうか話すことはできなかった。ただアカシがどんなに優しい人で、少なくとも人から恨みを買うような人間でないことだけは、はっきりと言ってやりましたけれどね」  芹沢は、明石が落ちた窓のそばに行った。いまはもう|嵌《は》め殺しのガラスが入り、開閉できなくなった窓からは、真下の道路を見ることはできない。芹沢は、窓にもっと近づこうとした。だが、なぜか足がすくんで、それ以上前には動けなかった。足が、下のほうからがくがくと震えだしてくる。  半年前のあの夜、明石はこんなふうにこの場所に立ったのだろうか。そして、冷たくて暗い地面に向かって、ここから身を投げたのか。芹沢は思わず外に向かって手を合わせた。  ただ明石に謝りたかった。ひたすら許しを乞いたかった。  鼻の奥にツンと痺れるような感覚が走った。唇を噛み、目を閉じると涙があふれてきた。涙は次々とわいてくる。まるで目の奥のどこかが切れてしまったように、涙は頬を伝って落ちていく。芹沢は手を合わせたままで、それをぬぐおうともしなかった。すぐ後ろに立っている男の存在も、いまは意識から消えた。音も色もすべてが消えた。時間が完全に止まってしまった──。 「そろそろ行きましょうか」  男が芹沢の肩に手を置いた。その大きな手のぬくもりで、芹沢は現実に引き戻された。振り返ると、男も泣いていた。浅黒い顔の、飛び出したように大きな目が、真っ赤に充血している。 「ありがとう。この部屋に入れてもらえて良かった」  芹沢は心から礼を言った。  部屋を出てからは二人はずっと無言だった。芹沢はエレベータのところまで男と一緒に歩いた。もう一度礼を言って、エレベータが来るのを待ちながら、強く握手をした。この男に会えて良かった。それだけでもニューヨークに来た甲斐があったような気がする。ニューヨークに来て、自分と同じ思いをわかちあえる唯一の人間に会えたのだ。そう思うと、男と別れ難い気がしてきた。 「そうだ、日本に帰ったらスーに伝言してもらえませんか?」  男は、またあのにこっという笑顔に戻って言った。 「え?」  芹沢は何のことかわからず聞き直す。 「アカシの奥さんですよ」 「あなたは明石の奥さんに会ったことがあるのですか?」  芹沢は、男が言っているのが、慶子のことではないと直感した。 「ええ、スーには一度だけアカシの部屋で会いました。たまたま何か用があって、日本から来ていたのでしょうかね。とても綺麗な人でした。彼女とは、ほんのちょっと話をしただけだったけれど、スーと一緒のときだけは、アカシはとても幸せそうだった。アカシのほうは奥さんをとても愛していたんですよ」 「奥さんはスーと名乗ったのですか?」  どんな女性だったかと尋ねたいのだが、あからさまに訊いてはいけないように思えて、口ごもった。 「ええ、アカシはそう呼んでいましたよ。スーの英語はアカシよりずっとうまかった。私がそう言うと、アカシは嬉しそうに笑っていましたね。あのときの顔が、いまもときどき浮かんできますよ」  そのとき、エレベータが着いた。 「あなたが日本に帰ったら、スーに手紙はどこにもなかったと伝えておいてください。この前わざわざ電話をくれて、なんだか明石からの手紙を探しているようなことを言っていたんです。手紙か、もしかしたら封筒に入ったフロッピーかもしれないと言っていたけれど、そのどちらも見つからなかったとね」 「明石の奥さんがそんなこと言っていたんですか?」 「ええ、そう言えば、銀行の人間もそれに似たようなことを訊ねていたらしいですよ。ベルの人間や、ベッド・メイクやクリーニングの担当者にいたるまで、彼らは片っ端から聞いてまわっていたようです。たぶん遺書かなにかを探していたのでしょう」  男の話は、どうも腑に落ちない。スーという女性にしても、康和銀行の人間にしても、まるで明石が何か手紙を残しているはずだと、決めつけているように聞こえる。 「銀行って、康和銀行の人間のことですよね?」  芹沢は念のために確認してみた。 「名前はよく知らないが、アカシが働いていた銀行です」 「遺書は、警察がよく探して、どこにもなかったとすでに発表したはずでしょう?」 「それもそうですよね。アカシが飛び降りた直後、部屋の遺品はすべて詳しく調べられましたからね。さあ、私はもう行かなくては、他の階の点検もありますから」  男は、思わぬ時間がかかってしまったことを、気にしているようだった。 「時間をとらせてすみませんでした。でも、いろいろと話が聞けてよかった。ありがとうございました」  スーと名乗った女性のことについて、もう少し聞きたかったのだが、時間を気にしながら、急いでエレベータに乗り込んだ男を、引き止めることはできなかった。 「私こそ、アカシの話ができて嬉しかった。じゃあ」  エレベータのドアが閉まって、男が視界から消えた。そのときになって、芹沢は男の名前を聞くことを忘れていたのに気がついた。     5  東京に帰って久しぶりに出社すると、児玉がさっそくやって来た。聞かせたい話があるのだと言う。芹沢のほうにも報告することがいくつかあった。時差ボケに悩まされながら、仕事が終わるのを待ちかねるように、児玉と一緒に銀行を出た。 「凄いことになってきたよ」  銀行のある東京駅近辺を避け、わざわざ恵比寿までタクシーを使って、駅の近くの空いている店を選んで入った。モダンな居酒屋風の店内は、内装はこざっぱりしているのだが、どうも客の入りは悪いようだった。それがかえって二人には好都合だった。児玉は席に座るとすぐに口を開いた。 「中学時代の同級生が大蔵省に行っていてね、昨日そいつを脅して口を割らせたんだよ。そしたらおもしろい話を聞かせてくれた」  児玉はわざと悪ぶって見せる。芹沢と違って人づきあいのいい児玉には、信頼できる友人が多いのだ。それは日頃の話しぶりで芹沢にはよくわかっていた。 「僕は麻布中学から麻布高校、そしてみごと東大失敗というコースだからな。神童だと騒がれていたのに成長したらただの凡人だったという典型だよ。だけど、その分中学や高校の同級生だけは自慢できるのさ。軒並み絵に描いたような超エリートがゴロゴロしているから、こういうときは便利だよ。私設MOF担とでも呼んでくれ」  児玉には、自分で自分の挫折を茶化して言えるだけの強さがある。この男のこういうところが、人を惹きつけるのだと芹沢は思った。 「俺には縁がないけれど、そういうエリート官僚というのは、やっぱり噂通りなのかい?」  思わず身を乗りだして、芹沢は訊いた。 「まあそうだな。昔はそうでもなかったけれど、年ごとに、|らしく《ヽヽヽ》なっていくような気がするよ。それに同級生同士でも、絶対自分からは金を払わない。飲みに行ってもいつも支払いはこっち持ちさ。払ってもらうことに慣れ過ぎている感じだな」  児玉は大げさにあきれて見せた。 「まあ、こっちも情報目当てで会っているわけだし、かわりに外銀の情報もやったりして、この歳までうまくつきあっているよ。だけどな、やっぱり彼らはさすがに優秀だよ。キャリア組は、ノン・キャリとは全然違う。だいたい一、二年、長くても三年で担当部署がローテーションするだろう、短期間で詳しい専門知識を得るために、命懸けで勉強するみたいなところがあるよ。着任したばかりのときは素人だったのが、一年たったらいっぱしのことを言うようになる。そのへんの努力にはやっぱり頭が下がるよな」 「へえ、そうなのか。もっとも大蔵省の人間が何か質問してきたら、銀行側としても一番優秀な講師を用意するだろうからな。なんといっても最高の情報が一番早く手に入る立場にいるわけだからな」 「ああ、こっちが何を訊いても、ものすごくよく知っているから驚くよ。で、その友達が言うにはだよ、大蔵省が、持ち株会社制度の認可の実施時期を、前倒しすることになりそうなんだ。どうも康和銀行の再建策に関係があるみたいなんだよ」  かねてより持ち株会社の解禁は取り沙汰されていたが、実施の時期にいたっては、まだ明確にはされていなかった。 「だけど、康和銀行の持ち株会社といっても、あそこは独立系だから、系列の金融機関なんてないじゃないか。それに、うちの銀行も完全に提携話は降りたんだろう。それじゃいったいどこがなるんだ。残っているのはスイス系あたりの資本力のある銀行ぐらいしかないか?」  芹沢は考えをめぐらせた。 「それがさ、ちょっと雲行きが変わってきたんだ」  児玉は意味ありげに上目遣いで芹沢を見る。 「雲行きが変わったって、どういうことだよ」  もったいぶってないで早く言えと催促すると、児玉は一段と声を低くした。 「なんでもトヨカワとモリタで競った結果、どうやらトヨカワで内定しそうな気配らしい」 「トヨカワとモリタって、あのトヨカワ自動車と盛田電気のことなのか。そうか、ついに金融以外の事業法人が持ち株会社になるか。まあな、あの二社なら大手の金融機関をしのぐほどの資本力があるだろうからな。モリタは数年前、外資系の生保と合弁で、モリタ生命という生命保険会社を作ったぐらいだから、いずれはバンキング・ビジネスにも乗りだすだろうと言われていたけれどね。それじゃ、ついに康和もトヨカワ銀行とかモリタ銀行になるっていうわけなんだ」 「なんといっても、トヨカワは日本で最大の自動車メーカーだしね。最近のドル高は彼らにとっては神風だし、この前『フォーブス』が発表した世界の優良企業ランキング五十社番付のなかで、堂々第四位になった優良企業だもんな。前年度の売上高、収益、資産などによる総合的な評価で選ばれたというのだから、大したもんだよ」 「もう一方のモリタにしても、不況にあえぐ日本企業の中で、一人勝ちしているところだよ。単に家電製品を製造するだけでなく、デジタル産業のリーダーとしてソフトウェア・ビジネスの分野でのパイオニア的存在でもある。日本で初のコングロ・マリットを目指す総合企業として、銀行をグループ内に取り入れることは積年の夢だったに違いないさ」 「トヨカワ自動車や盛田電気が銀行業界に進出するとなると、まさに日本の金融業界の新しい時代の幕開けだけど、その情報は本当なのか?」 「ああ、まだ極秘中の極秘事項だけれど、どうやらデマではないようだ。大蔵省としても、康和救済の苦肉の策なんじゃないか」 「だが、いくら大蔵省がそのつもりでも、金融業界がそう簡単に受け入れるかな。これまで客として接してきた事業法人が、強力なライバルになってしまうわけだからな。そうなると、これまでの業界特有の商習慣なんかも、完全に崩れてしまうことになる。これまでみたいに、やりたい放題っていうわけにはいかないだろう。そういうことを一番嫌がる連中が、業界には大勢いるはずだからな」  芹沢は、まだ手放しでは受け入れられないという顔をした。 「もうひとつ聞かせたいことがある。こっちもやっぱり同じぐらいショッキングなニュースだ」  児玉はそう断わって、いったん芹沢の顔をまじまじと見た。 「実は例の有吉女史のことなんだ。うちの銀行に康和銀行との提携の話を持ちこんできた、パシフィック・コンサルティングという会社の話はしただろう」 「帝国ホテルにある経営コンサルタントだろう。そこで彼女を見たと言っていたよな」  児玉があのとき興奮気味に話していたのが浮かんでくる。 「彼女、あそこの役員になっていたんだ」  え、と芹沢は大きな声をあげた。 「だけど、そんなことってモーリス・トンプソンに知れたら問題だろう。あそこのマネージング・ディレクターが、ほかの会社の役員になるなんて、社内規定で禁止されているんじゃないか?」 「だから、表向きは正式な役員じゃないさ。だけど彼女、内々でかなりの出資をしているらしくて、発言権は大きいみたいだ。言ってみれば遠隔操作というか、事実上のアドバイザーというか。まあ、陰で糸をひく会社の実力者的な存在とでも言えばいいかもしれないな」 「ということは、つまり、うちの銀行と康和銀行との提携話も、彼女と無関係ではなかったということか」 「いやむしろ、彼女が率先して康和銀行とファースト・アメリカとの話を進めていたような形跡があるというんだ」  児玉の話に、芹沢はまだついて行けない。時差ボケの頭は思うようには回転してくれない。 「しかしちょっと待てよ、どうも頭が混乱してきた。どうして彼女はそんなことをしたんだ。すでにメイソン・トラストとの提携話が進んでいる康和銀行に、なんでうちとの提携なんか持ちかける意味があると言うんだ。それじゃ、まるでメイソン・トラストとの提携話を、途中から壊したかっただけみたいじゃないか?」  芹沢は自分でそう言いながら、どうしても腑におちないという顔をした。 「それでいいんだ。その通りなんだよ。彼女は、康和銀行の中でまず混乱を起こそうとしたんだよ。役員達の意見を分裂させ、先に康和の内部から経営再建のシナリオを崩していったのさ」  児玉は大きくうなずいた。 「いったい何のためだ?」  考えれば考えるほど、どうしてもそこに行きつくのである。州波は康和銀行を混乱させたかったのだ。だが、なぜそんなことをするのか、その目的がわからない。 「それなんだよ。康和銀行が潰れて、そのことで得をするのは誰なのか。どうして康和をそこまで追い詰める必要があるか、ということだよな」  児玉も同じ疑問に行き当たっているようだ。 「康和銀行を内部から混乱させ、再建不能な状態にまで持っていき、崩壊する寸前で叩いて安く買おうというシナリオなのかもしれない。あのモーリス・トンプソン証券が、最後はきっと法外な安値で買収に乗り出すつもりだったのだろう。だから有吉州波はその実行部隊として動いていたのじゃないか」  芹沢はそれが一番妥当な考え方だと思った。 「ところがね、どうもそれほど単純でもないみたいなんだ」  児玉は、芹沢が考え出した筋書きをあっけなく否定する。 「有吉州波がパシフィック・コンサルティングの役員になっていることは、モーリス・トンプソン証券には内緒になっているらしい。それにモーリスが康和を丸ごと買収するというのは、その動機や目的からして、いまいち説得力がないだろう」  芹沢は、児玉のいう通りだと思った。すでに日本において、かなりの証券ビジネスの基盤を築いているモーリス証券が、いまさら康和を買収するために、巨額の資本投下をするメリットがあるとは思えない。確かに康和銀行が持っている全国各地の支店網は魅力的だ。だが、それだけのために康和を丸ごと買収するのは高くつきすぎるからだ。多額の不良債権を抱え、九千五百人あまりとも言われる人員を有した都市銀行を買う資本があれば、もっとほかのことに使ったほうがはるかに収益性もあり、効率的である。 「一部のセクションだけ買うなら、まあわからなくもないけどな。それに、その合併のためだけに、大蔵官僚や上院議員までが陰で協力するというのもちょっとなあ」  児玉の言葉を聞きながら、芹沢は考えあぐねたように唇を噛んだ。 「何なんだいったい。誰なんだ、康和をこうまで痛めつけようとするのは」  いつになく苛立った児玉の言葉は、そのまま芹沢の思いを代弁していた。芹沢は、黙ったままでしばらく考え込んでいたが、やがて心を決めたようにつぶやいた。 「たぶん、これしかないな──」 「何だ?」  児玉がすばやく芹沢を見た。芹沢は、あたかも自分の決意を確認するように、ゆっくりと口を開いた。 「俺が、有吉州波本人に会ってみる」  州波こそが、すべての鍵を握っているのではないか。何人もの男達を操り、何かとてつもない野望を抱いて、康和銀行の崩壊劇をお膳立てしているとは考えられないだろうか。もしそうだとしたら、いったいその理由は何なのか。その目的はどこにあるのか。  そして州波の野望が、なんらかの形で明石哲彦の死と関わっているのなら、あるいは、明石を死に至らしめたこと自体が、大きな計画のごく一部だったということなら、なんとしても彼女に会って直接確かめてみなければならない。 「会うと言ったって、どうやって会うんだよ。芹沢がいきなり行っても、彼女がすぐに会ってくれるとは思えない。ましてや、こんな極秘中の極秘のことを、そんなに簡単にベラベラ話すなんてことは絶対にあり得ないぜ」 「俺にいい考えがある」  芹沢は確信を持って言った。 「いい考えって?」 「ちょっとした芝居を打つんだ。大丈夫だ、きっとうまくいく」  芹沢は自分で自分を奮い起たせるように、大きくうなずいた。 [#地付き]〈下巻に続く〉 〈底 本〉文春文庫 平成十三年五月十日刊